私が動物を殺した話
ものすごく変な話をしても良いですか。
初めて動物を殺した時の話。
そういうのが苦手な人は、ここで読むのを辞めてください。
今日、「シェアハウスにネズミが出たのよ」と、友達から電話がかかってきた。
「可愛いよね。汚いけど」と答えると、「きもいし汚いよ」と言われたから、「それでその子をどうしたの?」と聞くと、「水を張ってそこに沈めて蓋をして、しばらくしたら死んでたよ」と、彼女は淡々とそう私に説明した。
少し間をおいて、「溺死って一番苦しくない?」と聞く私に、「沈めたあとは蓋を閉めてたし、苦しんでるところを見ないですむもん。それが一番楽じゃない?グロいし。害獣だし」と答える彼女は、もごもごと何か言いたげな私に呆れてため息をつき、「だって殺すしかないんだったら、一番楽な方法を選ぶのが人間じゃん」と呟いた。
確かにそうだよな。
彼女が今の私だったとして、一体どうやってそのネズミを殺せたというのだろう。
そういえば檻に捕えられたイノシシなんかも、そのまま水に沈めて溺死させる地域があるらしい。
たしかにその殺し方は、人間が直接死にゆく体温を感じずに済む、一番「楽」な方法なのかもしれない。
だけど動物にとっては?
暴れもがきながら、ゆっくりと肺の中の空気と水を交換しながらじわじわと死んでいったネズミのことを思うと、どうしても不憫だった。
殺すしかない動物に出会った時の正解は?
Chat GPTに聞いても、ぼんやりと濁すだけで、確かな答えは返ってこない。
答えが出ないままぼんやりと、数年前に自分が手をかけた「オチビパンダ」のことを思い出した。
オチビパンダは私が直接殺した、最初で最後の動物だ。
私は虫以外、とくに毛の生えた動物は基本的に全て大好きで、なんなら新宿で走り回る大きめなドブネズミさえも可愛くて追いかけたくなってしまうタイプなので、そこそこドン引きされながら生きてきた。
そんな私が、自らの手でネズミを殺さなくてはいけないタイミングがあって、そのネズミが、オチビパンダだった。
オチビパンダは部屋にたまたま出た野良の所謂ドブネズミではなく、元カレが飼っていた爬虫類達の餌として育てられていた繁殖用のネズミだった。
爬虫類達は、可愛い。
彼の家にはイグアナやヘビがいたけれど、私はどの子達のことも口に入れられるくらいには、可愛らしいなあ、と、好意的に見ていた。
しかし問題は、その餌だった。
とくに一緒に暮らしていたピンク色の目をしたヘビのいちご(♀)の主食は、ネズミだった。
爬虫類を飼ったことのある人なら分かると思うけど、あらかじめ冷凍されて売っている餌用ネズミは割高なので、爬虫類初心者は「育てた方が安いんじゃね?」と、安易にネズミの繁殖に乗り出しがちだ。
例に倣ってその元カレも、私と付き合っていたその頃は、ちょうど自宅で餌用ネズミを繁殖させていた時期だった。
私は爬虫類よりもむしろそのネズミ達の方に愛着がわいてしまい、やいのやいのと世話を焼くことにやる。
当時の生育環境は、ネズミ達にとって過酷なものだった。
爬虫類愛好家にとってのネズミはあくまで「餌」なので、衣装ケースの中に大量のネズミを入れ、必要最低限のドッグフードや残飯をばらまき、あとは放置プレイをかますという飼育方法を用いるのがデフォルトだ。
だがしかし、私にとってそのネズミ達は徐々に可愛いペットのような存在になっていく。
噛み付くこともなく、掃除をしたり餌をあげるごとに私の顔を覚え、手を差し出すと登ってくるまでに懐いたその子達全員に、最終的には趣味の悪い名前をつけたりするほどに、愛着が湧いてしまったのだ。
ところでネズミというのは、兎にも角にも世話が大変な生き物だ。
ハムスターとは違って「走り回りながらおしっことうんちを撒き散らす」という習性があるせいで、育てていた衣装ケースの中からは2時間ごとに異臭が漏れ出て、私はその度に部屋ごと掃除をし続ける羽目になり、あやうくノイローゼになりかけた。
多くの爬虫類愛好家がネズミの繁殖だけは避ける理由には、この飼育の大変さも関わっていると思う。
それでもネズミは可愛い。
私は徐々に飼育スペースを改造し、回し車を置いたり、ひまわりのタネを与えたり、散歩をさせてみたり、最終的には2日に1度全員をシャンプーするなど熱心に世話を重ね、その結果、必要以上にネズミとの友好を深めていくことになった。
そんなネズミとの楽しい生活が続いたある日、私がとくに仲のよかったシロ(♀)とクロ(♂)の間に、5匹の子ネズミが生まれた。
シロはピンク色の目に真っ白でふわふわな毛を持つ上品なメスのネズミで、他のネズミと比べてもとくに、私に懐いているように感じていた。
出産直後、通常子ネズミを守るために攻撃体制に入っても良いところを、シロは私を信頼して、私が小屋をのぞくたびに順番に子ネズミをくわえて連れてきて、見せてくれた。
5匹の子ネズミ。最初はピンク色で血管が透けていたその子達も、徐々に毛がはえ、ふわふわとした赤ちゃんネズミに成長していく。
5匹の中でとくに目を引いたのが、白と黒の模様がまるでパンダのように見える、5匹の中で一番小さな子ネズミだった。
他の子よりも一回りほど体が小さなその子に「オチビパンダ」と名前をつけた私は、その子にとくに目をかけて、可愛がることになる。
オチビパンダは動きがとろく、兄弟の中で一番おっちょこちょいで、いつまでたってもままのおっぱいが好きだった。それでも懸命によちよちと歩くその姿は、いじらしくて、可愛かった。
シロの子育てを応援する平和な時が過ぎ、目もあいていなかった子ネズミたちの目がチラホラと開き始めた頃、ついにその5匹を餌にまわす時が来た。
普段その元カレは、蛇の水槽に生きたままのネズミを入れて締め殺されるのを待つか、生きたままのピンクマウス(赤ちゃんネズミ)を冷凍庫にぶち込んで凍死させるか、餌としてはオーソドックス、だけど残酷な殺し方を選択していた。
分かってはいたものの、どうしてもネズミが不憫だという気持ちと、だけどイチゴ(ヘビ)のためにはネズミを与えなければ本末転倒だと理解している気持ちが入り混じっていた。
ネズミたちにすっかり愛着が湧いていた私にとって、「ネズミを餌にする」というのが、最早とんでもなく残酷な行為にすら思えていたのだ。
「今日餌にするから」といわれたその朝、結局どうすることもできず、最終的には5匹いた子ネズミのうち、とくに目をかけていたオチビパンダだけを違うゲージに入れ、「子ネズミは4匹しかいない」と嘘をつき、隠蔽することにした。
結果引き渡した4匹は私が出かけている間に冷凍され、帰宅して冷凍庫をあけると、失禁した状態で、尿におぼれてカチコチに固まっていた。
あくまで、餌用に繁殖しているネズミだ。
「殺さない」というのが私のエゴだというのは分かっていたけれど、今朝にはシロのお腹でふかふかと安心しながら眠っていたあの子達が、冷凍庫の中で時間をかけてもがいた末に尿を垂れ流しながら凍死したことを想像すると、どうしても苦しい。
しかし、これがその子達の運命だった。
どれだけ綺麗事を言ってオチビパンダを隠したって、永遠に飼い続けることはできない。
その日元カレにオチビパンダの存在を打ち明けた私は、「あの子は私が殺すから」と言った。
あの子を餌にしないといけないというのなら、せめて最も安楽な方法で殺すのが、関わった私の最後の責任ではないのかと考えたのだ。
いくらイチゴ(ヘビ)のためとは言え、あれだけ信用してくれているシロの子供であるオチビパンダを、生きたまま踊り食いさせたり、冷凍庫でじわじわと殺したりすることなんて、私には考えられなかった。
こっそり逃すことも考えたけど、それは環境破壊だし。
だからこれは、責任もって私が、一番苦しまない方法で命を絶たせる他ないのだ、とその時の私は腹をくくったのだった。
そこでいろいろと調べたり話を聞いた結果、「ネズミの安楽死」の方法は、頭を固定したまま尻尾をぐっとひっぱって、頚椎を脱臼させる方法が主流だということ、そして失敗すればかなりの苦痛を伴うのだということを学んだ。
その頃のオチビパンダはまだ目もあいていなかったが、恐怖心を感じさせないためには寧ろ、目が開く前に決行するべきだということも結論づけた。
とはいえ、幼い頃は蚊を叩き殺しただけで、その蚊の家族を思って泣きそうになっていたような私だ。
いくら事情があるとはいえ、虫をとびこえて動物を殺すなんて、恐ろしいことであるのに違いはない。
だけど生き物の飼育に関わり、その中で与える必要のある餌が「生き物」であるなら、やはりその製造方法からも目を背けてはいけないと思っていた。
水槽や冷凍庫に放り込めば、たしかに私自身が受ける精神的ダメージは少ないが、オチビパンダには必要以上の苦痛が伴うに違いない。
そう考えると、自分が手をかけて楽に逝かせてやることが、その時の私にとっては一番の正義な気がしたのだ。
考えを巡らせた次の日の朝、あまりに悩む私を見かねた元カレが「今日やれないなら、そのままイチゴにあげるね」と言った。
私が怖いからと無視をしたところで、オチビパンダは殺される。
イチゴにはネズミが必要で、もしもここでオチビパンダだけを匿って市販の冷凍ネズミを買ってきたとしても、そのネズミたちもまた殺されてここに来たことには変わりがないのだ。
「今日ちゃんとやるよ」
やるしかないのだ。
オチビパンダを殺すと決めた日、私が小屋に向かうと、いつもの掃除か餌やりだと思ったシロや他のネズミが寄ってきた。
オチビパンダを探すと、小さな体で回し車に登ろうと奮闘しているところだった。
よちよちと歩くオチビパンダをひょいっと手のひらに乗せるとシロも寄ってきたけれど、私はシロだけをさっと払いのけ、そそくさと小屋の扉を閉めた。
頭の中でシロに謝罪をし、オチビパンダだけをそのままキッチンに連れていく。
キッチンのシンクには、その時のために用意したビニール手袋がある。
手袋をする前に、手のひらにのせたオチビパンダを見つめてみた。
昨日まで閉じたままだった片方の目が開いている。
体にはうっすらとふわふわした毛が生えていて、誰がどう見てもそのへんのハムスターよりも可愛い。
私のつけた名前通り、小さなパンダの赤ちゃんのようだった。
オチビパンダは大人しく私の手のひらのにおいをかいでいる。たまらなく可愛かった。その手のひらに、今までかいたことのないような脂汗をかいた。
ゆっくりと、片方ずつ手袋を装着する。
かしゃかしゃという音に少し驚くオチビパンダを宥める。
看護師になりたての頃、採血の練習ではじめて本物の人の腕に針を刺すことに戸惑う私に当時の先輩が言った「相手を思いやるなら躊躇なくいかないとダメ。じわじわいくと余計に苦しむよ。一思いにブスッと」という言葉が、なぜかそのタイミングで頭によぎった。
この子のためにも、私がやらなければ。
放っておけばオチビパンダは、一番辛い方法で殺されることになる。
私は覚悟をして、もがくオチビパンダを抑えつけ、勉強した方法で脊椎を脱臼させるべくして、頭を固定した状態で尻尾を引っ張った。
何度も読み込み、脳内でシュミレーションした通りの動きをしたつもりだった。
その瞬間、私の指先に生暖かい感触が伝わる。
オチビパンダがブルブル痙攣したと同時に、口からを血を吐き、失禁したのだ。
ビニールの手袋に、尿と血がじわりと滲む。
命だ、と思った。
同時に私はぞっとして、思わず手を離してしまった。
経験したことのないくらいに心臓がバクバクと脈打ち、吐き出しそうだった。
オチビパンダはまだ生きている。
一撃でやらなければ苦しむことは分かっていたのに、思わず躊躇してしまった。失敗したのだ。
のたうち回るオチビパンダを見て、カッと耳が熱くなり、気が遠くなった。
私は「ごめん、ごめん」と言いながら、もう一度同じようにオチビパンダの頭を抑え、尻尾を引っ張った。次は泣きながら、力強く引っ張った。怖くて、何度か引っ張った。
痙攣が激しくなり、オチビパンダはそのまま、動かなくなった。
私はその場で泣きながら、「ごめん、ごめん」とオチビパンダに謝り、尿と血で汚れた体をティッシュでふきとり、だらんとしたその小さな体に、震えながら手を合わせた。
ガクッと膝の力が抜けて座り込んで、それでもまだ、謝りながら手を合わせていた。
オチビパンダの体は、あらかじめ用意したふわふわのベッドに寝かせて、せめてもと思って、なぜかその場にあった線香を炊いた。
しばらくして、元カレが帰宅した。
カレは呆然とする私の目の前でふわふわのワタの上に横たわるオチビパンダを見てから「ありがとう」と呟き、その体をひょいっと掴みとって、いつものようにイチゴ(ヘビ)の水槽に放り込んだ。
イチゴは少しずつ近づき、ぐるっとオチビパンダの体を締め付けた後、ゆっくりとその亡骸を飲み込んだ。
その姿を見て私は、「もう私にはできないな」と思った。無責任なことだと分かりながら、目を背けているだけだと自覚しながら、だけどもうそれから先は一度も、私自身が直接ネズミ達を殺すことはできなかった。
その元カレとは、すぐにお別れした。
その後住んだ家に爬虫類はいなかったし、ネズミはおろかゴキブリも出なかったから、私が生きている動物に「直接」自分の手をかけたのは、多分オチビパンダが最後だったと思う。
私が出ていった後、シロもクロもその仲間も、イチゴの胃袋に入ったのだろう。そしてその方法は、彼らが一番苦しい、凍死か、踊り食いかのいずれかだったと予想する。
見て見ぬ振りをしてしまった。それを思うといまだに、私が放棄した責任の重さを痛感する。
今日、「シェアハウスにネズミが出たのよ」と、友達から電話がかかってきた。
私はそういうとき、いつも考える。
もしもまたその時が来たら、私自身は、彼らにどう手をかけるべきなのだろう、と。
人様のために死んでいただかなければいけない動物達の、殺し方について。ネズミ、イノシシ、くま、ゴキブリだってその対象かもしれない。
殺すしか方法がないとして、殺すべき理由があるとして、その方法について思いを馳せるタイミングは、誰にとってもあるべきものなんじゃないかなって、私はいまだに思うのだ。
yuzuka
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