仏教における「疑い」について 瞑想のある種の困難さ

 最近、唯識仏教の勉強をしているんだけれど、「根本煩悩」の中に「疑」がある。僕も思い当たる節がある。瞑想についての疑いが深い時期があった。
 まずどの方法が正しいのか全く分からなかった。〇〇式というのが6個ぐらいあるし、どれも「自分達が本物」と言って憚らないので、混乱した。瞑想をしていても「これでいいんだろうか」という疑いが消えなかった。
 更に「悟り」というのも胡散臭い。古代人の妄想じゃないか?と思った。

 紆余曲折あって瞑想に対する疑いがなくなったのだけれど、本当に紆余曲折あった。信仰を試みてみたり、坐禅を習ってみたり、瞑想会に行ってみたり、本を片っ端から読んでみたり。僕にとって幸運だったのは
・「死の問題」を解決しなければならなかったこと
・西洋哲学を学んで懐疑を身に着けたこと
・マインドフルネスのブームがあったこと
・テーラワーダ仏教のブームがあったこと
・本を読む時間が大量にあったこと
・うつ病をなんとかしたかったこと
・沢木興道とお釈迦様の人格に打たれたこと
・「人には優しくしなさい」と教育を受けたこと
 などがあると思う。

 瞑想をしている人と話したことがあるが、我流でやっている人が多かった。「疑」がなさすぎるのも問題なのが難しい。「坐って自分を見つめている」と言っていたんだけれど、我流の解釈で瞑想をしてしまっていると思う。
 このブログを見て瞑想を始めてくれた友人がいて、昨日その友人が「煩悩がなくなったらアイデンティティがなくなる」とか「全てを"対象"にするって恐ろしい」とか「今の感覚を1回言語化して観察している」とか、かなり瞑想から逸れていた。疑いがなく「我流」でしても効果は出ないし、疑いまみれで実践しなくても勿論結果は出ない。

 僕はもう「瞑想をしていけばいいんだ、気づいていれば苦しみが減るんだ」と確信しているが、思えば長い道のりだった気がする。
 恋人は去年の八月頃から交際していて、僕が瞑想をゴリ押しするので、十月ぐらいから瞑想を始めた。メンタルの状況が悪かったのだけれど、かなり改善した。今は「全世界の人が瞑想をするべき」とまで言っているのだけれど、当初はなかなかやらなかった。理由を聞くと「気づきって何なのかよく分からない」「最初は忍耐力がいるから面倒」「自分がどうなってしまうのか分からないから怖い」と言っていた。
 「気づきとは何か」というのは、冷暖自知だと思う。やらなきゃ分からない。「やっていないから分からない」のに「やらなければならない」という凄く嫌な状況がある。
 「自分がどうなってしまうのか分からない」というのは、普通の人はあるのかもしれない。僕は失うものがなかったので、どうなってもいいと思っていた。「もし煩悩がなくなって機械みたいになったらどうしよう」とか「好きなものに興味がなくなったらどうしよう」とか心配になるのかもしれない。
 最近、認知バイアスの本を読んでいたのだけれど「心理的リアクタンス」というのがあるらしい。「勉強しなさい」と言われるとしたくなくなる現象のことだ。人は強制されることを好まないらしい。だから「瞑想したほうがいいよ」は全く意味がないっぽい。

 修行をしていると信力・精進力・念力・定力・慧力の五つの力が同時に育っていくらしい。昔の仏教徒の人は上手いこと概念化してるなあと思う。自分の経験から言って、本当にその通りだ。念(気づき)を精進していると、定(心の安定)が強くなって、身心の観察がうまくなるから、うまく生きるコツ(智慧)が湧いてきてどんどん楽になるから、これでいいんだと「信じる」ようになる。「瞑想をしていれば楽になるんだ」と実感すれば、もう瞑想なしで生きられなくなると思う。瞑想をしていなければ、恋愛で常に不安を感じているだろうし、中傷されればずっと嫌な気持ちを引きずっているだろうし、世間的な劣等感が消えなかった。

 「道」に対する信頼ができると、人生が楽しくなってきた。このまま進めばいいんだという安心感がある。

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。


勉強したいのでお願いします