精神分析勉強中

 ひさしぶりに勉強している。そんな感覚がある。何を勉強しているか。精神分析、特にラカンである。概説書から読み始めて、いまは三冊目である。しかし、ここで書きたいのはその具体的な内容ではない。もちろんそのようなことに言及することはあるかもしれないが、ここで重要なのは「勉強中」という感覚である。

 私はこれまでどれくらい哲学に関する本を読んできただろうか。わからないが、おそらく百冊は確実に読んでいる。それゆえの、おそらくそれゆえの勉強感の喪失があった。なんというか、大抵のことは「なんとなく知っている」のである。だから、それを一つの手がかりとして、または杭として、そこ、勉強していることがどこらへんに位置づいているのかを見失うことはない。それゆえに手探りで迷子になりながらする、「勉強」というものを忘れていた。
 しかし、精神分析は哲学よりも「勉強」的である。もちろん、まったく「なんとなく知っている」ということがないわけではない。例えば、ラカンの議論はレヴィ=ストロースやソシュールの議論、ヘーゲルの議論などが参照されているように見える。し、されているらしい。なので「なんとなく知っている」。しかし、それはラカンの議論を支える骨子がそれらであって、そこで展開される議論の背景は全然知らない。簡単に言えばフロイトを知らない。だから「私は全然知らない」という感覚が強い。手探りであり迷子である。だからこそ全身を澄まして向かう必要がある。そして私はそこで掴んだ。「構造(化)」というキー振る舞い(鍵となる振る舞い)を。ここにおいては私とラカンは近い。かなり近い。そう思うとなんだか、「なんとなく知っている」という仕方ではなく「なんとなくわかる」という仕方で理解できるようになった。
 このような手探り感、迷子感、それはとても、気持ちが良いものである。もちろん、これは私が暇だからそう言えるだけかもしれないのだが、爽快ですらある。なんというか、私は私に私が知らない世界を見せてあげられていることが嬉しい。しかし一つ、懸念がある。それは「構造(化)」という手がかり、杭に依存するあまり理解を妨げてしまうのではないか、ということである。もちろん、理解はそういう可能性を無視することによってしか成立しないとも言える。しかし、精神分析はなんというか、ある種の厳格さがあるように思われる。私は「クライン学派」のように「移行領域」や「中間形態」を重くとってしまうのでその厳格さには、なんというか反抗心もあるけれど、健やかさを教えてくれるのではないか、という期待がある。理解するということを今の形とは別の形で提示してくれるのではないか、という期待が。
 孫引きになってしまって、いや孫引きにすらなってなくて申し訳ないのだが、ミレールという人が「ラカンによる「構造」の概念の導入の効果」について次のように述べていることはこの厳格さをよく表現しているように思われる。

精神の構造という言葉は、精神の連続体なるものは存在しないということを意味している。

『人はみな妄想する』44頁

 これはミレールの未邦訳のものを松本卓也が訳したものを写したものである。ここで示されようとしていることは次のようなことである。と、松本は言う。

クライン学派では、すべての分析主体は自らの原初的対象関係として妄想分裂ポジションと抑うつポジションをもっていると考える<中略>そして、この二つのポジションはパラノイアやうつ病といった病態の基盤となるとともに、分析の現場においてもめまぐるしく現れ、移り変わると考えられている。それゆえクライン学派では、"神経症"の分析主体でも、ときに様々な度合いで"精神病的"になりうると考えられるのである。
反対に、ラカンは、人間は神経症、精神病、倒錯という三つの構造のどれかをとり、この三つの構造のあいだには移行領域や中間形態がないと考えた。それは、この三つの構造がそれぞれ抑圧Verdrängung、排除Verwerfung、否認Verleugnungという互いに区別される三つの否定のメカニズムによって構造化されているからである。本書では、他の二つに比して臨床上問題となることが少ない倒錯については不問とするが、そうすると神経症と精神病のあいだには一種の排中律があるといえる。すなわち、神経症でないならば精神病であり、精神病でないならば神経症であり、両者の併存や中間(いわゆる境界例)などというものはないと考えることができる。

『人はみな妄想する』45頁

 この、「併存や中間(いわゆる境界例)などというものはない」という厳格さ。私はそれに、爽快さとともに真摯さを感じる。これは私がよく言うことで言えば「カテゴリーはカテゴライズのために存在する」ということに真摯であるがゆえに爽快であるということである。私は綿密さや緻密さ、簡単に言えば「密」ということを愛しすぎていた。そう言わされるくらいには爽快である。こういう、とりあえず最近の私をひっくるめて批判とも取れるような、ある種の独断を下してくれることは、そしてその独断を私が受容できることは幸運なことである。それゆえになんだか、嬉しい。
 「とりあえず勉強した。」と言えるとき、つまりとりあえず「勉強中」から脱したとき、私はおそらく精神分析をもっと知ろうとしているだろう。哲学からは少し距離を取ってみよう。そんな気さえしている。私の中に沈殿している、組織化されている、それがどれだけ賦活されるか。再構築されるか。興味がある。勉強することの良さ、それはこういう、豊穣さが実感されることにあるのかもしれない。そして、どれだけ多様な豊穣さにも私の足跡があること、あってしまうこと、そういうことが、幸せなのかもしれない。もちろん嫌になることもあるかもしれないが、なぜか私は幸せに過ごしている。
 私の勉強には痛みがなさすぎるかもしれない。しかし、私は痛みも経験している。私は読書メモの仕方を変えた。結構な痛みである。しかし、新しい形態というのは楽しい。また哲学に帰るか、また別のところに行くか。そもそも哲学と一括りにできないことを私は知っている。それの、綿密な再組織化。そして解体。組み替わり。思考形式の組み替わり。知覚はまた別の話。しかし、この「別の話」がちゃんと実感できた。それはとても、とても素敵なことであるように思われる。最近読んだ『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』には次のようなことが書かれていた。

多くの個物や普遍者について、存在するということは、他と区別されているということと不可分である。個物は輪郭によって空間的に区別されることで存在し、普遍者は他の性質と概念的に区別されることで存在する。これを指摘し強調したことは、へーゲルの存在論の重要な特徴だ。このような仕方でヘーゲルは、「そもそも何かが存在すると言われるのはどのようなときか」という問いに答えるわけである。

『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』 126頁

 これを引いてくるとき、私の綿密さへの志向性がメルロ=ポンティに由来するのかもしれない、と思った。まあ、話すと長くなりそうなのでまた今度。ただ、この気づきも「併存や中間(いわゆる境界例)などというものはない」ということの強調によってやっと、ヘーゲルやメルロ=ポンティの「強調」の理解に繋がったのだろう。そして私はまだよく知らないが、こういう二面性、それ自体もラカンは議論しているらしい。松本は次のように指摘する。

結論を先取りするなら、神経症と精神病の鑑別診断をめぐるラカンの理論的変遷は、フロイトのテクストのなかにバラバラに散逸していた鑑別診断論を、エディプスコンプレクスと<父の名>の概念のもとに体系化し、後にそれを相対化していくプロセスであったと言えるのである。

『人はみな妄想する』117頁

 私はまだ「相対化していくプロセス」を充分に読んでいない。楽しみだ。どんどんはっきり見えていく世界。私は次のように書いていた。おそらくここで書いたようなことを総括して。その慧眼を讃えてこの文章を終えよう。

「一つの地域を知っている」というのは「地域全体を知っている」ということと同時に存在し始める。が、これは別にその時に存在し始めたということを意味しない。

2024/2/21「バイトの予定見てなかった、くしゃみ」

 「が、」以降がよくわからない、いや、なんとなくしかわからないが、これもよくわかるように、わかるようになるのだろうか。楽しみだ。

推敲後記

 この文章は三日前くらいに書いた。そして私は『人はみな妄想する』の第二部、ラカンの理論的な変遷を概説するところを読み終えた。それゆえにここでの記述にはかなりの偏りがあることがわかる。それゆえに恥ずかしさもある。ただ、ここで書いたことはさらに強く、例えば「構造(化)」ということはさらに強く、力をもって私に迫ってきている。私はそれになんとか、なんとか対話を持ちかけようと思う。そしてひさしぶりになぜか、レヴィナスを読みたくなった。そして思い出した。『レヴィナスとラカン』という本で既にラカンに出会っていたことを。さらにはそのことによってラカンを読み始めたことを。ただのエピソードに過ぎないが。

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