バタイユと私、たち

 先ほどまで私はA4ノートに「『バタイユ エコノミーと贈与』のメモからの考想」というタイトルでものを書いていた。いや、なんというかイメージを整理していた。ここで「『バタイユ エコノミーと贈与』のメモ」と言われているのは私の読書メモである。私は小説以外の本を読むときにメモをする。心惹かれた箇所もしくは(抽象的なのだが)メモしておいたほうが良い箇所(例えば、その本における独自の用語法やまとめの箇所、中心的な対比や類比など)をメモする。そしてたまにそのメモにコメントをする。ただの感想だったり、似た問題が論じられていると思われるものを書いておいたり、用途はさまざまだがコメントをする。たまに。なので、要するに私は『バタイユ エコノミーと贈与』を読みながらしたメモを見ながら、そのメモをもう一度整理し、そこから何か、有益なものを再発見することを試みたということである。そして、それはある程度うまくいった。なのでそれを文章にまとめておきたい。そういうわけである。
 と言っても二つ注意がある。一つは私がまだこの本を最後まで読んでいないということである。終章である「バタイユ"の"贈与論」の直前、頁数で言えば297頁までしか読んでいないということである。しかし、おそらく終章はまとめのような章なので大して困ることはないだろう。むしろ、この本の著者である佐々木のまとめの前に私のまとめをしておくことは重要であるだろう。もう一つは私がまだ39頁のメモまでしか読み直していないということである。なので、それ以降のメモはまったく読んでいない。だから、当然テーマの取りこぼしは大量にある。しかし、私がこの文章において大事にしたいのは私と佐々木の差異を浮かび上がらせることであり、それにとってはおそらくここまでで充分である。さらに言えば、もちろん私はこの本をわりかし真剣に読んだのであるから記憶されていることもある。もちろん、それは心もとない記憶であるし、正直なことをいえばA4ノートの1ページで書けたのがここまでだっただけだと言えばそうなのだが。ただ、ここまでで充分であると思ったのは嘘ではない。とりあえず進もう。真摯ではないかもしれないが真剣ではないわけではない。

 この本の主題はもちろん、バタイユの「エコノミー」と「贈与」について明らかにすることである。ここでとりあえず言えることはこの二つのことは「エコノミーと贈与」というふうにくっつけられていることである。このくっつけ(この表現は面白い。というのも「くっつく」はあっても「くっつける」というのは「くっつく」をもう少しエネルギッシュにしたものであるという含意を含んでいるように思えるからである。その含意が「くっつき」と「くっつけ」の対比で見事に表現されているように思えるからである。私の文章にはこのような括弧がよく入る。一応、半角の括弧()は読んでも読まなくてもいい。一応、全角の括弧()はできたら読んでほしい。そういう感じで運用している。いや、いま、そのように運用し始めた。なので私のこれまでの文章を読んでもこのような運用はしていない。もしかすると無意識にしている可能性がないとは言えない。長くなるのでこれくらいにしておこう。)が成立しているのは次のような事情からであるように思われる。
 佐々木によれば、バタイユは「有用/無用」という対比の「無用」の側に「過剰」を重ね、それによって「贈与」を描き出そうとしている。いや、佐々木によれば、というか、私はそう思っている。私はバタイユを直接読んだことがほとんどないので「バタイユは」と書くのは気が引けただけである。だが、「私はそう思っている」と書けばよいと思うので「バタイユは」というふうに書くことにしよう。ここでの主題は私と佐々木の差異なのであるから。とりあえずは。
 バタイユは「有用」ではなく「無用」ではないような「過剰」について考えようとしている。私はそう思っている。そして、そのような「過剰」は「贈与」として描かれている。そう思っている。と、書いてみて思ったのだが、私のこのノートに書いていることは間違っているかもしれない。私はノートにこのように書いている。

有用かつ過剰とは?

「『バタイユ エコノミーと贈与』のメモからの考想」

 このように書かれている理由は私が9頁の文章と10頁の文章を読んで次のような類比を想定していたからである。

有用/無用
X/過剰

「『バタイユ エコノミーと贈与』のメモからの考想」

 そして、有用とXの列を「限定エコノミー」、無用と過剰の列を「一般エコノミー」と書いている。だから、Xを探るために「有用かつ過剰とは?」と問うているわけである。(ちなみにこのような方法を私は「斜めドッキング」と呼んだ。このノートで。おそらく初めて。しかし、この方法自体は結構用いられている。私によって。)
 しかし、これは早計である。「過剰」を「有用」とも「無用」とも異なる次元に位置付けようとするのが「贈与」の探究であると考えられるからである。むしろ、「有用」にも「無用」にもある、「用いる」ということ自体を対比の一つの項目にする、つまり「(有用/無用)/贈与」という対比をバタイユは探究しようとしていると考えられるからである。(このような探究は最終的に「自己意識」の「内/外」の議論として決着がつけられる。もしくはつけられようとする。私はそこに独我論的な問題構築との関連を見たが、それを書こうとすると長いので一つだけ書いておこう。バタイユは「内/外」の還流としての「自己意識」の在り方を示そうとしているように、私には思われる。それは上で言えば「異なる次元に位置付けようとする」ということに表れている。「次元」はとりあえず保留するとすれば、(もちろんこの保留によって「線」「面」「立体」「次元」の構造的同型性とそれによる類似と差異の議論は先延ばしされているわけであるが、)「異なる」と「位置付けようとする」はXを生成することに等しい。私はその生成を一旦図式化したが、本来これは一つの否定神学的アプローチ、すなわち穴を作ることであり、その意味でむしろ、私はその穴を図式によって塞いでいる。しかし、バタイユはそれを避けつつ、その穴が引力と斥力によって賦活するエネルギーを回そうとしている。その意味で私はバタイユとウィトゲンシュタインの間の違いを見る。ウィトゲンシュタインは独我論を実在論と観念論のどちらでもありどちらでもないというふうに調停したように見える。しかし、バタイユは「調停」ではなく「還流」を選んだのである。私はどちらかと言うとウィトゲンシュタインの仕方に魅力を感じる。そして、これは一種の政治的な振る舞いなのだが、(と、こんなことを書くのは変なのであるが、)「還流」もまた「調停」において現れていると思うのである。その現れを捉えるためには「わざわざ『調停』するのはなぜ?」と問うことが有益である。そのように問うとすれば、「還流」を持ち出すしかなくなる。この独特のコミュニケーションはむしろ「還流」を支えるバタイユ独自の「コミュニケーション」観と似通っているように思われるのである。だから、私はむしろここでのウィトゲンシュタインとバタイユの対立は一時的なものであると思っている。もちろん、これも一種の「調停」なのだが。)
 そのように考えると、ここでの議論の中心は「有用性」をどう考えるか、にあると考えられる。佐々木は「有用性」について三つの次元を設定している。ここでは引用する方が理解に資すると思う(し、ここでの取り組みにも資すると思う)ので、引用しよう。

有用性はそれが指す範囲に応じて三つの段階に分けることができるだろう。その第一のもの(有用性Ⅰ)は最も限定された、通俗的な意味での有用性であって、生産や財の所得という目的のために役立つことを意味する。次に、より一般化された用法で、善や快楽、幸福など何であれ何らかの目的のための手段となること、言い換えれば、目的-手段の連関が有用性Ⅱである。そして、最も一般的な次元での有用性、すなわち有用性Ⅲとは、他のものへの従属的関係であり、決してそれだけでは存立せず、つねに他との関連においてあることを意味する。

『バタイユ エコノミーと贈与』38-39頁

 ここでの設定をまとめてみよう。そのためにとても単純な手段-目的関係の図式を立てよう。それはA→Bという図式である。Aが手段であり、Bが目的である。この図式を用いて整理すると、まず「有用性Ⅰ」はBを「通俗的な意味」に限定した次元であると言える。次に「有用性Ⅱ」はBが目的であることに限定した次元、逆に言えば、Aが手段であることに限定した次元であると言える。最後に「有用性Ⅲ」はAとBが関係していることに限定した次元であると言える。「有用性Ⅰ」と「有用性Ⅱ」の次元を剔抉するのはBを限定するか否かである。するなら「有用性Ⅰ」でありしないなら「有用性Ⅱ」である。「有用性Ⅱ」と「有用性Ⅲ」を剔抉するのはAとBの関係を「手段-目的関係」に限定するか否かである。するなら「有用性Ⅱ」でありしないなら「有用性Ⅲ」である。そして、佐々木は二つの剔抉のそれぞれに「一般化」という名前をつけている。しかし、私はそれに違和感がある。
 なぜ、私は違和感を持っているのか。それは端的に言えば、第一の剔抉すなわち「Bを限定するか否か」による剔抉に対して佐々木は「一般化」と「通俗化」という対比を持ち出しているが、それは本当に対比なのだろうか。別に私はこれが対比ではないと言っているわけではない。しかし、すぐさま了解されるような対比であるようには思われない。私にはむしろ、これはこの後で「聖/俗」の対比を持ち出すための助走であるように思われる。私は別にそのような助走に対して違和感があるわけではない。むしろ、そういう助走は必要であると思っている。しかし、「聖/俗」も結局言うなれば「聖-化/俗-化」と言えるような形である種の円環を構成するのだから、そのことを見越すとすれば、「一般化」と「聖-化」の混同が起きないようにする必要があるように思われるのである。しかし、それはなされず、まるで「一般化」と「聖-化」が同じことであるかのように進んでいく。もちろん、この「同じことであるかのように」ということには二つほど理由がつけられていると読むこともできると思う。一つは「非-知」に至るまでの「知と所有」の論理においては「聖-化」は「一般化」であると読む仕方、もう一つは「同じである」と「同じであるかのように」を区別して考えて読む仕方である。前者はおそらく正規のルートであり、後者はおそらく私なりのルートである。しかし、どちらにしても結局「俗-化」が何であるかがよくわからないという意味では混同は免れないように思われる。つまり、「有用性Ⅰ」から「有用性Ⅱ」、「有用性Ⅱ」から「有用性Ⅲ」に至る方向性には「一般化」なり「聖-化」なり、そういう名前が付けられているにもかかわらず「一般化」に対比されうる「俗-化」のような方向性には名前が付いていない。この不揃いな類比体系が佐々木の弱点であるように思われる。
 別に弱点だからといってそれを責め立てるつもりはまったくない。それも魅力と言えば魅力であるからである。(もちろん、魅力にすらならない弱点が存在するかもしれないということはここで置いておかれているが。)ここに私は弱点を見る。しかし、佐々木からすれば、このような見方は少なくともバタイユ的な見方ではないことになるのだろう。というのも佐々木はバタイユの「神話学的思考」というものを引いて、それを「混同」さらには「両義性」というテーマで探究しているからである。ここについて考えていこう。
 佐々木はバタイユが「科学的思考」から「神話学的思考」にいわばバク転するかのように跳躍するロジックを次のように示している。

科学に反するものを析出するためには、科学を否定することによってではなく、むしろ逆にそれを徹底することによってである。もし科学的認識が完遂し、理性の圏域が画定されたならば、そこから排除された残余が神話学的思考である。このように排除を通じて否定的な仕方でその価値や存在を承認すること、バタイユはこれを「資格認定」(qualification)と呼ぶ

『バタイユ エコノミーと贈与』32頁

 ここでの「科学」は「贈与」ではない「エコノミー」のことを指すと考えることができる。(バタイユの言い方に従うのならば、ここでの「科学」は「限定エコノミー」の象徴であると言えるだろう。)このように考えるとすれば、ここでは「贈与」ではない「エコノミー」を「完遂」することによって「神話学的思考」が「残余」(この残余が価値あるものか、それとも価値とかを無視して存在することだけを表すものかについてここでの記述は揺れている。し、これはこれで問題だと思うのだが、ここからの議論で必然的にその問題は解決されると思うので指摘するに留める。)として現れることをバタイユが「資格認定」と呼んでいることである。そして、この「資格認定」が「神話学的思考」に至るための方法として考えられているから佐々木は「俗-化」とは違う、「一般化」と対化できるような概念を開発していないのである。端的に言えば、別に「資格認定」には必要がないから開発していないのである。しかし、それならなぜ二つの剔抉のことを「一般化」と呼んだのだろうか。私にはそれがわからない。それなら初めから「バタイユは『有用性Ⅰ』から『有用性Ⅲ』に至る方向性を『聖-化』と呼んでいました」みたいに言えばよかったのではないだろうか。と、書いてみて私は思った。そもそも「聖-化/俗-化」は私が言い始めたことであると。しかし、別にこの事実に気がついたところで問題は解決しない。そもそも、このような見立てが間違っていると私は思わないし、それが間違っているとしても「一般化」に何を対比すればよいかはわからないからである。もし、「一般化」に「資格認定」に資するような側面があるとすればそれは「完遂」にだけ向けられたものであり、そもそも「神話学的思考」が存在することを前提するのはただの矛盾であるように思われる。そこに膨らみはない。し、それなら別に特に魅力も感じられない、ただの祈念であるように思われる。もちろん、祈念にも魅力はあるが、それが引き出されているようには思われない。ただ「人間」を「動物との対比」と「植物との類比」で語っただけ、その語りによって「下から上」への道を示しただけであるよう思われる。それが「上から下」への道を持つものでないとするならば、それはただのお説教である。それもそれでいいし、バタイユにはその魅力もあると思うが、私はあまり惹かれない。
 少し興奮してしまった。し、それゆえに皆さんには、読んでいない皆さんにはまったく意味のわからないことを書いてしまった。ただ、「下から上」は「一般化」であり「上から下」は「一般化」と対をなすものであると読んでもらえばいい。端的に言えば、私は「一般化」と対をなすものがあるからこそバタイユに惹かれるのであり、そうではないとするならばまったく惹かれないと私は言っているのである。そして、佐々木は「一般化」と対をなすものをどれだけ多く見積もっても「俗-化」でしか語っていないように思われると私は言いたいのである。また、そのようにしか語っていないのだとすれば、当の「一般化」も「完遂」に資するだけのつまらないものであることになるのだと私は言いたいのである。私は「神話学的思考」がないとも言わないし、それに魅力がないとも言わない。しかし、佐々木の不充分さ(のように私には思われるところ)ゆえに「神話学的思考」がつまらなくなるのは良くないと思う。ただそれだけである。
 仮に私がこのつまらなさを解消しようとするならば、二つの剔抉を「二つの剔抉」として理解するための方策を探るだろう。もう少し踏み込んで言えば、「二つの」がそれとして存在するために「一つの」を作るだろう。それが「聖-化/俗-化」である。バタイユの議論はこの構造(私は「構造」を「類似と差異を描き出すもの」として使っている。これはラカンに対するミレールの整理を基にしたものである。が、ここでは確認に留めよう。長くなりそうなので。)を二つの次元で反復することによって「過剰」を「贈与」として考えようとしているように思われる。このように考えるとすれば、「限定エコノミー」というのは第一の剔抉すなわち「Bを限定するか否か」という問いによる剔抉なのであり、その問いに「する」と答えるところから「しない」と答えるところに転換することが「限定エコノミー」の課題なのである。バタイユはそれとは異なる「一般エコノミー」の課題として第二の剔抉すなわち「AとBの関係を「手段-目的関係」に限定するか否か」という問いに「する」と答えるところから「しない」と答えるところに転換することを挙げたのである。
 さて、話が戻ったせいで忘れてしまった人がいると思うし、再び確認することで見えてくることがあると思われるので、私が剔抉を二つ提示したところを引いてこよう。(このような作法を「引いてくる」とは言わないかもしれないが、私は「実はすでに話はかなり冒頭で終わっている」と思っていて、これは補遺であると思っているので、言い換えれば別のものを書いていると思っているので「引いてくる」と言っている。この振る舞いが過剰なときはあるが。)

ここでの設定[=佐々木による「有用性」の三つの次元の設定:引用者]をまとめてみよう。そのためにとても単純な手段-目的関係の図式を立てよう。それはA→Bという図式である。Aが手段であり、Bが目的である。この図式を用いて整理すると、まず「有用性Ⅰ」はBを「通俗的な意味」に限定した次元であると言える。次に「有用性Ⅱ」はBが目的であることに限定した次元、逆に言えば、Aが手段であることに限定した次元であると言える。最後に「有用性Ⅲ」はAとBが関係していることに関する次元であると言える。「有用性Ⅰ」と「有用性Ⅱ」の次元を剔抉するのはBを限定するか否かである。するなら「有用性Ⅰ」でありしないなら「有用性Ⅱ」である。「有用性Ⅱ」と「有用性Ⅲ」を剔抉するのはAとBの関係を「手段-目的関係」に限定するか否かである。するなら「有用性Ⅱ」でありしないなら「有用性Ⅲ」である。そして、佐々木は二つの剔抉のそれぞれに「一般化」という名前をつけている。しかし、私はそれに違和感がある。

 ここでの違和感は端的に言えば、「限定エコノミー」の課題における解答と「一般エコノミー」の課題における解答を同じように「一般化」と呼んでいることにある。し、その区別が重要であるという話を佐々木はしている(ように私には見える)のだからそこを区別せずに「一般化」と呼ぶのはあまりにお粗末であるというところにある。そして、そのお粗末さはおそらく「資格認定」の「完遂」にだけ向けられたものとして「一般化」を扱うことに由来すると思われる。そういうことを書いてきたのである。私はバタイユはむしろ(と、書いてみて思ったのだが、私はバタイユを直接読んでいないのでここまでなぜ熱くなっているか、その理由はよくわからないが、よくわからない熱さにも魅力はあるだろう。し、私は佐々木の優秀さゆえにバタイユの、少なくともある側面について非常に整理された見解を持っている。と思っている。実は全然持っていない可能性はある。しかし、おそらく直接読むともっと枝葉末節ごと抱え込もうとしてしまうと思うのでこれくらい適当な方がいいとも思う。自己弁護に過ぎないと思う人がいると思うが、私が仮にそれをしないとすれば、私はそもそも書けない。なら書くなと言う人がいてもいいが、私は現に書いているし楽しいのだから仕方ない。仕方ないことなのだ。書くことは。)「聖-化」と「一般化」の二つの形態を示すことをしたのだと思う。いや、ここまで書いてきて、思っている。思うようになった。だからこそ、私は佐々木とある意味で決裂したのである。その「ある意味」とは「一般化」と「聖-化」を「混同」するか否かという意味である。いや、もっと精確に言うなら、「混同」するにしてもそれを明瞭に理解するか否か、という意味であろう。私はそれを明瞭に理解したいと思ったのである。これはある意味で「神話学的思考」を取り込むことになるだろう。しかし、私はむしろそれはどれだけ取り込もうとしても取り込めないという形で強度を持つと思っているから、私の方がむしろ「神話学的思考」を信頼しているとも言えよう。とか言ってみたが、そんなことはどうでもいい。そういうものじゃないと私はつまらないからそう思う。ただそれだけのことである。
 私の記述にはある種の混乱、「混同」を誘って止まない混乱が存在するかもしれない。し、最後に綺麗にまとめることができそうにないと直感したのでおそらくそうなのだろう。さらに言えば、このように書いてみて、私はもっとちゃんと佐々木と決裂したいと思った。そのために39頁以降のメモや298頁以降の文章を読みたいと思う。なんらかの補助線が引かれてもっと、ここでの熱情が理解できるようになるだろう。『バタイユ エコノミーと贈与』は「極限の思想」というシリーズのバタイユの箇所である。他の「極限の思想」シリーズよりも私は「極限の思想」という感じがしている。いや、私と佐々木が共謀して「極限」に近づいていこうと「思想」を体現しようとしているように思われる。これは誇大妄想だろうか。臆病な自尊心だろうか。私にはそう思われない。私はただ熱くなっている私を冷まさずに、しかし覚ますことで書いていこうとした。最終的には(と言うほど進んでいる気がしないが)ノートよりも深くなった。確実に。今回はとりあえずそれを喜んで終わろうと思う。ノートに書いたおかげでこのような素晴らしい熱情を掴んだように思われるから当分、もちろん無理しない範囲でこれを継続していきたいと思う。
 最後に一つだけ、もう伝わっていると私は信じているが、私は佐々木と仲違いをしたいわけではない。ただ決裂して、「闘争」を保ちたい。佐々木が嫌なら無視してもらいたい。私はそういう賦活をする。しかし、別に嫌がらないと思うし、そもそもそれを引き受けるような気概を感じたからこそこれを書いた。とも言えるかもしれない。というのはずるいだろうか。

良い決裂もしくはそれに向かう運動は私とあなたを際立たせてくれるように思われます。

2024/3/18「才能・滞納・解放・財宝・待望・胎動」

[推敲後記]

 読み直していると、何だかスタート地点を決めあぐねて、ある意味で捻挫したままであるような印象を受けた。し、同時に「決裂」というところまで持っていくための「結合」が試みられていたように思われる。し、結構、私はちゃんと掴んでいたのだと、『バタイユ エコノミーと贈与』を最後まで読んで感じた。これはただ「感じた」だけであり、これから長い道のりが待っている。「決裂」への。なぜ「決裂」するのか、それはよくわからないが、私はそうしたいのである。そうすることで「よく生きる」ことができる、そんな気がするのである。
 佐々木はこの本の全体を「そもそもバタイユはなぜ書いたのか?」という問いで包み込もうとしている。私にはそのように見える。佐々木は序章で次のように書いている。

書くことは、そして人間の生には、生存のために役に立つ有用な側面ばかりではなく、単なる生存にとっては無用であり過剰であるような側面が含まれている。バタイユもまた、こうした有用性には決して還元されえない人間の生について考究した思想家の一人である。

『バタイユ エコノミーと贈与』9頁

 この箇所は私が早計な理解を起こしてしまった箇所である。そのことはとりあえず置いておいて、佐々木は終章の最後に次のように書いている。

なぜバタイユは書いたのか。それは書かざるをえなかったからである。そして、バタイユの書いたものを読んだ者が書くことへと促されるとき、あるいは、書かざるをえなくなるとき、バタイユの表現は初めて贈与となるのである。

『バタイユ エコノミーと贈与』305頁

 私は別に、このような対比を自分の中にも取り込んで、私を正当化しようとは思わない。しかし、私はどうしても、ここにビリビリ来るような、そんな偏った共感を持つのである。私はそれを感じきろうと、そうしているのだと思う。私が私の整理を「早計」だと批判しているのは、もちろんバタイユもしくは佐々木が見ているバタイユの理解にとっては誤解であるからでもあるのだが、その誤解がここでの「感じきる」ことを邪魔してしまうように思われるからでもある。私はそのように思う。たしかにこの対比はつまらない対比でもあるだろう。しかし、それは真実であるからつまらないなら私がつまらないのである。私はそのように思う。思ってみる。
 最後の辺りは「資格認定」も脱臼するような議論がなされている。そしてそこにどうしても私は、ちゃんと脱臼させるための「構造」を見出す必要があると、どうしても思ってしまうのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?