ナルシストと自己肯定感が高いやつ

 最近、私はだらだら書くようになっている。もちろん、長いこととだらだらしていることは別のことである。しかし、少なくとも私から見れば私はだらだら書いている。長く書いている。なので、今日は意図的にしゅぱりしゅぱりと書くことにしたい。

 今日のテーマは「ナルシズム」である。特に「こいつはナルシストだ!」と思うことと「こいつは自己肯定感の高いやつだ!」と思うこととを比較してみたい。
 まず、簡潔に述べよう。おそらくこの二つのことの違いは「自己を肯定するか否か」という「主題」に拘泥しているか否か、ということにあると思われる。「こいつはナルシストだ!」と思うことはおそらく「拘泥している」ことに由来することであって、「こいつは自己肯定感の高いやつだ!」と思うことはおそらく「拘泥していない」ことに由来することである。とりあえず、これが結論というか、仮説というか、そういうものである。
 ここで一つ、おそらく有意義であると思われる遠回りをしよう。それは「承認要求」に関する遠回りである。と書いてみて、「あれ、思ったよりも遠回りじゃなかった」と思ったが、とりあえず続けよう。またいらないことを書いてしまった。ああ、またいらないことを書いてしまった。
 想像してみてほしい。あなたは「お前は承認欲求の強いやつだ!」と言われたとしよう。するとおそらく二つの反応があり得るだろう。一つはその指摘を肯定するかそれとも否定するかという反応である。もう一つは無反応という反応である。前者はわかりやすいだろうが後者は分かりにくいと思われるので一つ、ワードを出しておこう。それは「寝耳に水」である。なんというか、無反応という反応は勝手に肯定なり否定なりにつなげられてしまうと思うので仕方なく反応するとすれば「寝耳に水だよ」と言うことになるだろう。別に他の言葉でも良いが。重要なのは、そんなこと、ここでは「承認欲求が強いか否か」が「主題」にすらなっていないということが言われようとしているということである。もちろん、「言う」ことはすでに「主題」を抱えることになってしまうという問題もある。ただ、これは私の「主題」なのでとりあえず置いておいてもらおう。
 このことを踏まえると、「こいつはナルシストだ!」と思うことは「こいつはわざわざ「自己を肯定するか否か」という「主題」を立てている」ということによってもたらされているように思われる。「こいつは自己肯定感の高いやつだ!」と思うことは逆にそういう「主題」を立てていない。立てているとするならば、そう「思う」私たちが立てているということによってもたらされているように思われる。つまり、「自己を肯定するか否か」という「主題」を立てているのは誰か、ということによって「ナルシスト」と「自己肯定感が高いやつ」は判断されているということである。そいつ自身が立てているなら「ナルシスト」であり、そいつ以外が立てているなら「自己肯定感が高いやつ」であると考えられる。
 さて、話はとりあえず終わりでいい。が、エクストララウンドとしてここでの「自己」とはなんなのか、ということを考えておきたい。こんなことをしているから長くなるのだが、明確なエクストララウンドだから許してほしい。
 「ナルシスト」も「自己肯定感が高いやつ」も「自己」を「肯定」している。が、そこでの「自己」は異なっているように思われる。「ナルシスト」は「自己」の部分を強調してそこを「肯定」しているように思われる。それに対して「自己肯定感が高いやつ」は「自己」の全体を強調してそこを「肯定」しているように思われる。もちろん、こんな明確に対比できないだろうが、とりあえず「部分」と「全体」の違いがここにはあるように思われる。
 ちなみに「肯定」していると言っても「ナルシスト」はわざわざ「肯定」していて「自己肯定感が高いやつ」は仕方なく「肯定」していると言えるのではないだろうか。これはエクストララウンド以前の議論においても示唆されていたと思われる。エクストララウンドは示唆がより明確になるためのラウンドと言っても良いかもしれない。このことを踏まえると、「部分」を「肯定」するというのはその「部分」以外は「否定」されていることになるという意味で「わざわざ」感が強くなるだろうし、「全体」を「肯定」するというのはそういうことがない上にどうでもいいから「全体」を「肯定」しているという一種の気だるさによって「仕方なく」感が強くなると言えるかもしれない。
 この議論はおそらくだらだらにつながってしまう。が、重要なのは「主題」を立てている上に「部分」を強調している「ナルシスト」と「主題」を立てていない上に「全体」を強調している「自己肯定感が高いやつ」という対比がここにはあると思われるということである。これ以上のことはみなさんに考えてもらうことにしよう。まだ私も考えていないので、あまり。
 最後に一つだけ。私は別に「ナルシスト」でも「自己肯定感が高いやつ」でもいいと思っている。どちらでなくてもいいと思っている。というよりも私の「主題」は「私は私を肯定する/否定する」というときの「肯定する/否定する」よりも「私は私を〜する」ということの構造、そこにあるだろう「問い-こたえ(答え/応え)」の構造の方にあるからここでの考察はなんというか、全体がむしろエクストララウンドなのである。このように考えるとすれば、上でエクストララウンドと呼んでいたところがむしろ私のラウンドであると言える。いや、少なくとも私のラウンドに近いと言える。
 この文章が書かれ始めたのはなぜか、これを最後に問うて終わりにしよう。この問いにはすでに答えが与えられているように思われる。それは私が「自己肯定感が高いやつ」として周りから見られているからである。そして、私は「ナルシスト」ではないのでいつも周りが私に「主題」を与えているように思われるからである。これはおそらくもう一つ私のラウンドに近いところに行く必要がある。来たい人は来ればいいし、別にそうでもない人は来なくてもいい。「私は私を〜する」というときの前半の「私」はむしろ「周り」であり、そのとき「問い-こたえ」は「問い-答え」ではなく「問い-応え」であると思っている。そしてこの構造が独我論によって分裂することによって「問い-答え」になっていくと思っている。私はそういう話をしようとしている。が、これは私にとってのラウンドすぎるのでいつかまとまったものを書きたい。だらだらと。結局だらだらと。長いものを書く。それでいい。ただ、短くしゅぱりと書くのも楽しかった。みずみずしくて。

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