「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」という言説について

 「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」という言説がある。ここではこの言説について考えてみたい。
 たまに頭をかすめることがある。「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」というのはどういうことを言っているのだろうか、という問いが。ここではこの問いに一定の領域を開いてみたい。「どのようにこの問いに取り組めばよいだろうか」という打診に対して「このように取り組むのが面白いんじゃない?」という一定の見解を与えてみたい。ここからは手探りで書くので右往左往も文章として残ると思うが、その右往左往にもヒントがあるだろうと考えて、できるだけ消さずに書いてみたい。

 まず思うのはどうしてわざわざそういう言説を構築するのかということである。どうしてわざわざ「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」ということを言いたいのかということである。おそらくだが、「○○が好き」ということと「○○している自分が好き」ということを区別したいからだろう。このような区別がそもそも可能なのかがよくわからないが、それは後で考えるとして、なぜ区別したいのかを考えてみよう。
 と、言ったは良いものの、仮説が浮かんでこない。自分に置き換えて考えてみよう。私は「詩を読む」のが好きなので○○に「詩を読む」を入れて、すなわち「詩を読むのが好き」と「詩を読んでいる自分が好き」にして考えてみよう。
 まず気がつくのは「詩を読むのが好き」が現在形であるのに対して「詩を読んでいる自分が好き」が現在進行形であるということである。もちろん、このような議論の組み立ては恣意的であるから後者も「詩を読む自分が好き」にしても良いが、私の肌感では現在進行形にされていることが多いと思われるのでとりあえず現在進行形にしてみよう。
 このようなことを考えると、「詩を読んでいる自分」というのは相当特殊な場合以外意識化されないことが重要であると思われる。というのも、「好き」と言えるためにはある程度その「好き」と言われる対象が意識化されている必要があると思われるからである。このように考えるとすると、そもそも「詩を読んでいる自分が好き」というのはそこで「自分」と言われている誰か(ここでは私だがその問題に踏み込むとおそらくとてもややこしいのでとりあえず誰かであると言っておく)がそのように言っているわけではないことになる。それに対して「詩を読むのが好き」というのはそのように言うのが本人でも本人でなくても構わないことになる。
 ここまでの考察は比較的受け入れられやすいのではないだろうか。そうだとすれば、「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」と言うことによって「○○が好き」と「○○している自分が好き」を区別するというのは「好き」ということにおいて本人でも言えることと本人では言えないこととを区別することであると考えられる。しかし、このような考察ではわざわざ言うことの意味は掴みきれていない。仮に言うことがここで言うような区別を意図しているとすれば、その意図について考察する必要があるだろう。
 しかし、私はまるでここからの展望が見えない。が、頑張ってみよう。物凄く的外れなことを言っている気もするのでそう思った人はここまでの議論を引き継いで各自で考えてもらったらいい。少なくとも一例をここからは挙げるつもりである。
 「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」ということが言われる状況について考えてみると、これはいわゆる「皮肉」として言われることが多いように思われる。また、その「皮肉」は「ナルシシスト」に対する「皮肉」であると思われる。このような方向性で考えてみよう。
 すると、上での区別は「ナルシスト」が「好き」ということにおいて「本人でも言える」ことを「本人では言えない」こととして演技していることへの批判のような意味を持つと考えられる。では、その批判は何に向かっているのだろうか。
 それはおそらくその「ナルシスト」の軽薄さであると考えられる。そしてこの軽薄さへの批判の奥底にはおそらく、各人が各人の「好き」なもの、「本当に好き」なものを見つけるべきであるというある種の規範があるように思われる。「ナルシスト」はその規範に充分に従っているわけではないにもかかわらず充分に従っているように見せている、つまり「ふりをしている」からこそ批判されているのではないだろうか。
 しかし、これは一つの解釈でしかない。もちろん、そんなことを言ったら文章の始まりからここまですべてそうだが、他の解釈もたくさん見えるという意味で一つの解釈でしかない。しかし、とりあえずここで進んでいくことにしよう。別にみなさんは方向転換してもらってもついてきてもらってもどちらでもいい。私はこう考えているだけだから。
 では、なぜ「ふりをしている」のはダメなのだろうか。ダメではなくても批判されなくてはならないのだろうか。仮にこの批判がある種の告発であるとするならば、私はとてもつまらないことのように思える。ある規範があってその規範に従っていないものをその規範やその規範を体現する誰かに告発する。そんなことをしている暇があったら「好き」なものに向かえばいいのではないだろうか。そもそも、おそらくこの議論の底には各人が各人の「好き」なもの、「本当に好き」なものを見つけるべきであるという規範があり、それゆえにこそ「ふりをする」のはダメであるという判断も成り立つのだろうが、その規範はどのようなものなのかを考える必要があるのではないだろうか。というかそもそも、「好き」と「本当に好き」を区別することなど誰にできるのだろうか。もちろん、軽薄さを非難したい気持ちはわかるし、そのような非難の可能性が考慮されているからこそ磨かれるもの、たとえば品性?わからないけど、そういうものはあると思うが、その非難も品性あるものである必要があると考えるのが本当に規範に従属することなのではないだろうか。まあ別に従属しなくてもいいが。
 もしくはとても好意的にその批判を解釈するとすれば、キョロキョロせずに突き進め、みたいな熱血感がそこにあるように思われる。上で「○○をしている自分」が意識化されるというのはあまりないことではないか、と書いたが、別にそれは没頭しているときに限った話であり、そうではないときはそのような意識化はありえる。しかし、批判はそれを批判しているのである。だから言い換えれば、没頭せよ、ということを批判は言っているのである。このように考えると、隠れたメッセージとして「没頭せよ」みたいなメッセージがありえるかもしれない。そしてその没頭が「本当に好き」なことを見つけることに繋がるのだ、みたいなことも言えるかもしれない。
 しかし、私はそのようなことが言いたいわけではない。ただ単に言説を考えたいだけである。しかし、ここまでの記述を読んでもらっておそらく、私の真意というか、冷めたところというか、そういうものを見抜いた人がいるかもしれない。別に私はそれを認めるにやぶさかではないので認めておこう。私は、各人が各人の「好き」なもの、「本当に好き」なものを見つけるべきであるという規範なんてどうでもいいと思っているし、どうでもよくないとしてもその規範に従う仕方なんて「ナルシスト」でもいいし「ふりをする」だけでいいと思っているのである。それを見抜こう見抜こうとすることの意味もわからないし、没頭することが「本当に好き」なことであるということの意味もわからない。別に私は「ナルシスト」や「ふりをする」人を擁護したいわけでも、真理なり真意なりを嘲笑したいわけでもない。ただ単に言説について考えたいだけなのである。ただ、その考察にはもちろん私の考えが滲んでしまう。それをあらためて確認しただけである。みなさんにはこれを自己弁護のために使ってもらってもいいし、他者批判のために使ってもらってもいい。そんなことはどうでもいい。ただ私はよく使われる言い回しの奥にある(と思われる)規範性を考えたいのである。もちろん、規範性なき言説という幻想に従って私は「ただ単に言説について考えたいだけ」などと言っている。そうも言えよう。し、アパシーに至らせようとする、そういう匂いも嗅ぎ取れるかもしれない。それは勝手にしてくれたらいい。
 なんというか、終わろうとしていなかったのだが終わりみたいになっちゃったので今日は終わりにしようと思う。このあとは補論ではなく補遺なので読んでくれてもいいし読まなくてもいい。

「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」というのはある意味で反省意識の執拗な追跡であるように思われる。し、反転させれば、そのような反省意識を働かせるということへの価値判断であるようにも思われる。

仮に「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」の○○に一般には好ましいとされていることを入れてみるとすれば、その言説はおそらく極めて両義的になるように思われる。そしてその両義性は「自分」ということの、または「自己肯定」ということの可能性と限界を見せてくれるように思われる。このことは例えば『正欲』という小説で表現されているとも言えるかもしれない。

「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」の「○○が好き」は「○○している自分」が反復された結果であるように思われる。しかし、おそらくこの「○○している自分」が見つけにくくなった(この「見つけにくくなった」には「見つけたとしても見つけていないことにされる」ことと「見つからない」こととの相互作用が見られるだろうが、置いておく。)ことによって「○○が好き」と「○○している自分が好き」が近づきすぎてしまっていて、そのことの表明、もう少し強く言えば喘ぎが「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」という言説なのかもしれない。

私自身の話をしておくとすれば、私は○○に一般に流通していること、そして好ましいと思われていることを入れない。というか、そもそもそういうことにあまり興味がないので入れられない。なので大して言説と関わりがない。もちろん、これも悟ったふりだとか、そのように自分で見ているだけの「ナルシスト」だとか、そういうことは言えるが、私はそのように言うとしてもそのように言えるだけだと思っている。私は例えば○○に「形を楽しむ」とかを入れたいと思うが、それを入れたところでそれがよくわからないから言説に取り込まれようがないのかもしれない。もちろん、おそらく元々の素っ気なさゆえなのかもしれないが。

「猫が好きなのではなく猫が好きな自分が好き」とか、そういう話はよくわからない。これと対比されうるとすれば、「子どもが好きなのではなく子どもが好きな自分が好き」とか、そういう話があるかもしれない。後者の場合は規範として家族やらジェンダーやらが見出せるかもしれないが、前者はなんなのだろう。例えば慈しむ気持ちとかだと大きすぎてよくわからない。ただ、このわからなさは「形を楽しむ」とはまた違ったもので、ここでのわからなさのほうが人間讃歌的であるようには思える。まあ、これらがグラデーショナルにそうなのか、それとも構造ごと区別できるのかはいまのところはわからない。

「○○が好きなのではなく○○している自分が好き」がただの事実の描写だとすれば、言い換えれば皮肉や批判ではないとすれば、ある意味で身体性の回復というか、偏りや癖の肯定というか、そういう言説であると読むのが普通な気がする。いやまあ、無理やり言説として読むとすれば、だが。

どうしようもなく好きなものがある人は素敵である、みたいなことが講じて生まれる危険性みたいなことについては『暇と退屈の倫理学』に議論があった覚えがある。ただ、複雑で書くのが面倒なので書かない。とにかくあったことだけ告げておこう。

 そろそろ終わる。なんというか、他の本への言及があり、しかもその中身を確認しなくてはならなくなりそうだからである。それが面倒だからである。これも一つの「考察するのが好きなのではなく考察している自分が好き」ということになるかもしれない。これを読んでいる人に対して「考察している自分」を見せつけたくて、そしてその「自分」に重きを置きたくて他の人が出てきそうになったら取りやめているとも言えるからである。「とも言える」からである。理由がない好み、一種の狂いを求めるくせに狂いが怖くて理由を求めてしまう。すべての言説の根底にはそういう機制が働いているのかもしれない。

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