「右左どっちで左翼になった人」

我々はもったりした、そのような持続性によって苦しんでいる。が、その持続性なしに何もすることはできない。いや、何かすることはできるがその何かが何であるかを決めること、共有することはできない。それゆえにその苦しみは必然である。しかし、それが苦しみであることは必然ではない。

病気や苦痛はこの必然性の一つの発現である。

しかし、持続性なしの決断などあり得るのだろうか。のっぺりした持続とみょんのりした持続なしの決断など。

私は信念を決断を持続させることだと思うのである。

サモハンテレビジョンというYouTuberのショート動画に「右左どっちで左翼になった人」という動画がある。私はこの動画を見たとき、なんだか感動した。その感動の理由をここで考えてみたいと思う。(感動?)

ちなみに私は動画の作りとして「左翼」が選ばれただけであり「右翼」が選ばれていたとしてもストーリーが大幅に変わるわけではないと思っている。つまり、私は政治的な主張をしたいわけではなく、ただ単に自分の感動のわけを考えたいだけである。だから別に「右左どっちで右翼になった人」だったとしても特に感動は揺らがない。

さて、動画については30秒もないと思うので見てきてほしい。(YouTubeを開いて「右左どっちで左翼になった人」と検索すればショート動画というところの一番上に出てくると思う。)ただ、ここからの考察に必要なので構造化して下に示そう。それぞれの番号はシーンの移り変わりを示している。なお10.以外はこの動画の主人公(?)の視点からシーンは描くことにする。

1.「右左どっち」の要領で「右翼/左翼」を選ぶ
2.「左翼」を選ぶ
3.みんなに思想を傾けさせるために「右左どっち」を布教する
4.「右左どっち」の要領で「右翼/左翼」を選ばせる
5.「右翼」を選んだものは始末する
6.「左翼」が浸透しきったとき「左翼」を選ばなかった自分=「右翼」を選んだ自分に再会する
7.正気に戻る
8.これまでの罪を償おうとする
9.「左翼」の人たちによってその償いが拒否される
10.国が崩壊する

何度でも言うがここで重要なのは「左翼」だろうが「右翼」だろうがどっちでもいいということである。そもそも「右左どっち」というのはYouTubeのショート動画で流行っている(流行っていた?私はあまり詳しくないのでわからない。)演出の一つで運ゲー感を演出しているものであると考えられる。なのでここで重要なのは「左翼」だろうが「右翼」だろうが運ゲーによって決まるということである。そして私が重要だと思うのはそのことがこの動画では強調されていることである。

さて、私の感動の理由を端的に言うとすれば、真に問題なのは「○○イズム」の「○○」ではなく「イズム」の方である、ということをこの動画は表現しているように思えたからである。言い換えれば、真に問題なのは「決断」ではなく「持続」の方である、ということをこの動画は表現しているように思えたから私は感動したのである。つまり、私はこの動画が「○○」に「イズム」を入れた「イズムイズム」が真の問題であることを表現してくれていると思ったのである。

私たちは特に何の理由もなくした「決断」をそれとして「持続」させなければならない。そう思っている。それは理由なきことではない。そうしないと「人間」やら「意味」やら、そういったもの、というかおそらく言語そのものが成り立たないからである。もちろん、言語を成り立たせる道義はないのだが。しかし、それが成り立たないとそもそもこのように何かを書くこと自体が成り立たない。いや、成り立っていることにすることができない。しかし、それでもなおこの問題自体は直視される必要があると思うのである。

そもそも、7.で正気に戻る前に反対側の自分と出会う6.があるが、この出会いを自覚したのが6.だっただけであり、わざわざ反対側を抑圧しようとするのは出会いを自覚しないためであると考えられるのである。しかし、そもそもその自覚するとかしないとか、そういうことは「決断」を「持続」させよ、という要請から生じたものなのである。そのことが9.によって表現されているのである。

また、隠れた構造として、1.ですでに「右左どっち」と「決断」を迫るものが存在すること、個人と国がパラレルな構造にあること、などが指摘でき、それもとても重要であると思われる。前者に関しては言うなれば1.は3.や4.の段階の人が主人公に話しかけてきたということである。その話しかけは暗に「決断せよ!」と迫るものである。言い換えれば、主人公を「左翼」と「右翼」に分離させるものである。そして主人公は理由なく分離したわけである。そしてその分離が周囲にもてはやされ、上のような自覚をするかしないかのさなかに置かれることになったのである。ここから時間のずれによる世代間の連帯みたいな話もできるかもしれないが、とりあえず言っておきたいのは「左翼」にせよ「右翼」にせよ、「決断せよ!」で「決断」と呼ばれるものをした人たち、そしてそれを「持続」させた人たちがもてはやされていることに変わりはないということである。これは別に政治的な信条に関わらず信念一般に言えることである。「決断」とその「持続」、いや、「持続」しない「決断」などありえないと考えるなら(私がそのように考えているわけではない。)「決断」が「持続」を象徴しているのであり、それはなぜかもてはやされるのである。

少し長くなったので塊を分けて後者を考えよう。後者に関しては主人公の「左翼」と「右翼」の対立が国の「左翼」と「右翼」の対立として読み換えられるということが10.で起こっていると考えられる。ここではどちらかしかいなくなった場合に「崩壊」が起こることが示唆されていると考えたい。私は。しかし、そもそもそんな大雑把な対比で物事が理解できるのだろうか。そもそも、対なのだろうか。それが私にはよくわからないし、それゆえに「理解できるはずがなかろう。」という声がこの動画からは聞こえてくる気がする。そしてそもそも、仕方なく物事を理解する、という大前提はすでに飛び越えられていることが示唆されているように思える。

苦しみは「決断」から生まれているように見える。そしてその背景にある「持続」から、そしてそれをもてはやすことから生まれているように見える。たしかに「持続」がないと色々と不便であろう。私たちにはもうすでに想像できないような不便がそこにはたくさんあるだろう。しかし、「持続」と「決断」は即時接続するようなものではないのではないだろうか。そもそも「決断」を迫るというのはそのことの逆説的な表現なのではないだろうか。私にはそのように思える。しかし、この塊の冒頭の「苦しみ」というのは私が感じるそれであり、みなさんがどう思っているのかは知らない。仮にみなさんがそうは思わないのだとしたら私もまた「決断」したふりを続ける必要があるだろう。しかし、「ふり」は見抜かれない。なぜなら、それを見抜き続けることはここまで指摘したようなことに到達する一つの道だと思われるからである。私はみなさんに発破をかけているわけではない。し、「到達する」などと言ったけれどもそこに「到達する」のは偉くもなんともない。ただ単に私はそういう「到達」があると思っただけである。

もう少し細かく考察してもよいのだが、今日はこれくらいにしよう。どうにも収まらない考察への意欲があっただけだから。本当は私は『左右を哲学する』という「左翼」とも「右翼」ともまったく関係のない本を読もうと思っていたのだから。

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