サイゼリヤでカフカのアフォリズムを読む

 先ほどまでサイゼリヤでカフカのアフォリズムを読んでいた。具体的に言えばカフカの『夢・アフォリズム・詩』の81頁から180頁までを読んでいた。その中で特に惹かれた(この「惹かれた」が何を意味するのかはよくわからない)ものを取り上げて、いくつかコメントしてみようと思う。このコメントはおそらく、私がなにゆえにそれに「惹かれた」のかを明らかにするためのものである。とりあえずそういうことにしようと思う。以下、特に断りのない限り『夢・アフォリズム・詩』からの引用であり、頁数も『夢・アフォリズム・詩』の頁数である。

 と思ったのだが、メモしたものすべてにちょくちょくコメントしていくことにする。特に惹かれたものだけでなくすべてにコメントしていくことにする。
 ここでなされることの全貌は『夢・アフォリズム・詩』を読んでもらうほかない。なぜなら、私がメモしなかったものに真実を見る人も多くいると思われるからである。それゆえ、ここからはもう一つ内側の、私が選んだアフォリズムに私がどういうコメントを付けるかを読んでもらうことになる。言い換えれば、私はこんなコメントはしないという、そういう抵抗の中で読んでもらうことになる。私は別にどちらでもいいが、これはかなり重要なことでもあるように思われる。なお、長くなりそうなのでできるだけ短いコメントを心がけようと思う。

世界のさまざまな声が、より静かに、よりまばらになるということ。
93

 これはおそらく、代理表象の問題に対する一つの応答であると思う。ここでの「静か」というのは代理表象の拡声器性を表していて、「まばら」というのは代理表象の限界性を表している。例えば、私は大学院生なので「大学院生からすれば、」などという代理表象、つまり私ではない人が言う「大学院生」に一応は絡め取られるわけだが、私はそれを容認しない。私はもちろん大学院生であるが、それは私が思うそれなのであって、誰かが「大学院生からすれば、」などと語る「大学院生」によって代表されるわけではない。しかし、私たちは簡便のためか、それとももっと原理的な社会性のためか、その「大学院生」によって代表されることにすることがある。そこでの代表は代弁である。しかし、それはいつの間にか、代弁ではないような風体を醸し出す。そこでの問題が代表表象の拡声器性と限界性にあるわけである。そして、そのことが「静か」と「まだら」によって表現されているわけである。
 「世界」についてもコメントしたいことはあるが、おそらく後に話が出てくるのでここでは置いておこう。もう一つ思ったのは、このようにコメントしていくと、もしかするとコメントしなくてもいいメモが出てくるかもしれないということである。これは予感であり、まったくそういうわけではないかもしれない。最後にこのことについては触れようと思う。

汝自身を知れ、とはお前を観察しろという意味ではない。お前を観察しろというのは蛇のことばである。その意味は、お前の行動の支配者になれということである。さてしかし、お前はすでにそうなのだ、お前の行動の支配者なのだ。あのことばはだから、汝を見誤れ、汝を破壊せよ、という意味、つまりなんらかの悪ということである。ひたすら深く深く頭を垂れるときにのみ、その善の面をも聞くことができる。それはこう聞こえる、「お前を、<お前がそうであるもの>にするために」と。
96

 私はこのことについて以前、「「汝自身を知れ」という次善策」というタイトルで何かを書いた。それを読みに行くと話は確実に複雑になってしまうので、とりあえずは示唆だけしておこう。その文章において言われていることは「汝自身を知れ」という(少なくとも哲学界隈では)よく知られた命題は「次善策」であって「最善策」ではないということである。言い換えれば、「汝自身を知れ」というのは仕方なくなされるべきことであるということである。そのことがここでも言われている。と、私は読んだ。
 ただ、おそらく一つだけ違うのは、カフカの方がより、能動性というものを信じているように見えるということである。私は「汝自身」をある意味「癖」のようなものとして、言い換えれば「なくて七癖」と言われるような「癖」として見たが、カフカはそれを引き受けること、それを、少なくともここでは信じているように見える。このことが何に由来するかを考えることもできるが、それはよしておこう。まだ私にはよくわかっていないからである。しかし、クリティカルなのは「あのことばはだから、汝を見誤れ、汝を破壊せよ、という意味、つまりなんらかの悪ということである」というところである。私はここまでは思っていない。この「悪」への踏み込み、それはおそらく私とカフカの遠さ、隔絶である。魅力的な隔絶。
 
悪は善のことを知っているが、善は悪のことを知らない。
99

 これは、私の記憶違いでなければ、もう少し後により詳細な記述があるものである。が、ここでとりあえず確認しておきたいのは、ここで言われていることは宮沢賢治が「毒もみのすきな署長さん」で発見したような、善悪の外に関係することであるように思われるということである。善のこの、無関係性、超越性は非常に深い含蓄を持っていて、ここではおおよそ語りきれる気がしない。もちろん、語りきれる気がするものなどないのだが。特にそうなのである。

自己認識をもっているのは、悪だけである。
99

 このことはおそらく、上のことからすれば、間違いである。上のことというのは善の無関係性もしくは超越性からすれば間違いである。もしかすると、私の受容そのものに間違いがあるのかもしれないが。

悪の手段のひとつは、対話である。
99

 これは結構、私は結構本質的だと思った。が、何がそう思わせているのかがわからない。それがただ単に「対話」は大抵「善」の「手段」であることをひっくり返していることにあるとすれば、私は私に幻滅するが、それ以外の反転性を今は発見できないので、今はとりあえず幻滅している。

諸宗教が存在するという事実は、個々人が絶え間なく善であることが不可能だということの証拠となるか? 開祖は善から身をもぎ離して、開祖としての自らを具現する。彼がそうするのは他者のためか、あるいは他者とともにあることによってのみ元の彼のままでいられると信じているからか、彼が世界を愛さなくてもすむためには「世界」を破壊する必要があるからか?
100

 これもまた、一つ前と同じようにかなり本質的なことだと思われる。が、これに関しては一つだけ、いや、二つ、私は具体性を見出している。一つは釈迦が説法したことへの理解できなさ。もう一つは美人(だとされる人)が「人は皆美しい」と言うことへの嘲笑。この二つがここにはある。
 ただ、それよりも私はここで言われる「世界」が何であるかの方が気になる。

信仰する者は、奇蹟を体験することはできない。真昼に、星は見えない。
100

 これは言い得て妙である。ただ、だからといって、信仰しない者が奇蹟を体験するかと言われれば、それはわからない。それについては何も言われていない。真夜中に星は見えるだろうが。ここには実はややこしい話があるが、それを語る気は起きない。またいつか、気が起きたら語る。し、気になるならあなたが語ればよい。
 レトリック的なポイントとしては奇蹟を体験するならば信仰していないということから始めなかったことにあると思われる。なぜなら、信仰している者の不足もまたそのことによって語られうるだろうからである。そして、そのことによって語りたかったであろうことがわかりにくくなるからである。それゆえにカフカのここでのレトリックは秀逸なのである。

ことばに出すということは、基本的に確信の弱体化を意味するものではないーーそのことなら嘆くにも及ばないだろうーーそうではなくて、それは確信が弱体であることを意味している。
101

 たしかにそうである。私も、おそらくは「ことばに出すということは、基本的に確信の弱体化を意味する」と思っていたが、そもそも「確信が弱体である」ことを「ことばに出す」ということが隠しているというのはその通りであるようにも思える。ここで「あるようにも思える」と言い「あるように思える」と言わないのはなぜか。これこそが面白い問いである。

ほんとうに判断を下せるのは党派だけである。しかし党派である以上、党派は判断を下すことはできない。そのためにこの世には判断の可能性はない。あるのはただそのほのかな照り返しだけである。
102-103

 ここでの「ほのかな照り返し」が何であるか、私はわからない。だから、何があって何がないのか、ちゃんとわかっていない。しかし、確かに「判断を下せるのは党派だけである」ように思われる。少し遠くに行きすぎてしまうが、引用するという行為にも「党派」を作ろうとする思惑がいつも見出せるように思われる。だから、この行為、ここでの試みもまたそうなのである。そして、一つ前のコメントで私は、「党派」をよりよく作ろうとしていた、とも言えることをしようとしていた。が、しなかった。特に予感があったわけではなく、ただ単に怠惰のために。

恍惚とする者と溺れる者ーーどちらも両手を高く上げる。前者は自然の地水火風との一致合体を、後者はそれとの抗争を証言する。
103

 特にコメントはない。が、面白い比喩の形態なので構造だけ取り出しておこう。ここにあるのは「両手を高く上げる」という主題もしくは舞台であり、そこに「恍惚とする者」と「溺れる者」が現れている。そして、それに「自然の地水火風との一致合体」と「自然の地水火風」との「抗争」を見ている。全部を線で繋げば、砂時計のような形象が得られるような比喩の形態である。素敵な形態だ。しかし、これは特殊な形態ではなく、言語は大抵このような形態によって構築されている。と、私は思っている。が、長くなるのでまた今度。

怠惰は、すべての悪徳の始めであり、すべての美徳の絶頂である。
105

 少し前に「怠惰」について書いていた。それはここを予感してのことである。少し狡いかもしれない。
 これに近いことをシオランがより徹底した形で言っていた記憶がある。このような言及、他の哲学者なり文学者なりへの言及が「党派」を作るということである。おそらく最も厳密な。これが「厳密」なのは系譜とともに非対称的な権力性もここでは表現されているからである。 

天空は沈黙している。ただ沈黙する者に対してだけは、こだまを返す。
106

 私は「沈黙」を称えがちである。それは例えば、ウィトゲンシュタインのあの有名な言葉に代表されるそれに惹かれがちであるということである。またこれは、少し憧れを含みつつ、書かずにはいられなかった人たち、例えばデリダやレヴィナスに対する反抗にも向かう。しかしまた、私はその少しの憧れを『暇と退屈の倫理学』における退屈をしのぐことができることへの、そしてそれがテロルに展開しようともそれを駆動させる衝動があることへの憧れとみなし、それを批判することもできる。その意味でがんじがらめである。しかし、私はこのがんじがらめによって隠している。とも言える。本当は何も言うことがないのかもしれないということを。だからと言ってデリダやレヴィナスにそれを見出すわけではない。これがおそらく、私の倫理的な部分である。
 ちなみにこのことは「ことばに出すということは、基本的に確信の弱体化を意味するものではないーーそのことなら嘆くにも及ばないだろうーーそうではなくて、それは確信が弱体であることを意味している。」[101]ということのもう少し踏み込んだ解釈である。

此岸にひとつの彼岸が続くことはありえない。というのは彼岸は永遠であり、したがって此岸と時間的な関係をもつことはありえないからだ。
108

 これはなんというか、デカルト的な神への洞察であるように思われる。デカルトがわざわざ連続創造説という滑稽にも見える説を提唱したのはこのことを知っていたがゆえであるように思われる。また、このあり得なさを梃子にしたのはレヴィナスである。これは別に意外な組み合わせではなくレヴィナス自身がデカルトから「無限」の観念を借りてきていることからすれば結構当たり前の注釈である。初めての、当たり前の注釈。

芸術の自己忘却と自己止揚ーー本来、逃亡であるものが、自称、散歩になり、攻撃にさえなる。
109

 これはなんというか、ヘーゲル批判というか擁護というか、そういうものに見える。否定を否定的なものにし、それを肯定的なものへのある種の踏み台にする。そのことへの、なんというか、醒めた眼。それがこれである。
 この他にも哲学的にはかなり豊穣なアフォリズムである。が、それを語っていると、これはエピグラフになってしまう。それはここでの目的ではない。

特権をもった人間が、自分の抑圧した人間に対して心に抱くやましさという重荷、そうした気づかいは、まさしく特権を維持するための気づかいなのである。
110

 これは上で触れた美人の名言(?)、すなわち「人は皆美しい」と同じ構造のものである。が、「人間」に強調を置くとすれば、より広範な意義を持つものであると思われる。
 そろそろちょっと疲れてきたので手短に言えば、これは、他人をいたぶることができるのはその他人が人間であると認識する場合においてである、ということであると言える。これをより倫理的なこととして展開するとすれば、レヴィナスが言ったように、と言ったが、引用先を忘れた。正確に引用したいのでここではここで言われていることの一つの引用としてレヴィナスの「殺人」や「他人」に関する議論を想起できることだけ触れておこう。私の無能力、もしくは疲れゆえに。

狩りに行くという口実のもとに、彼は家を出て行く。狩りに行くのだとわかっていなければ、われわれは彼を引き止めるのだが。
111

 これは一つ前のことと結構関わることである。言うなれば、もし人間的な原因、つまり理由を伴っていなければ共同体から「逃亡」することさえできないということがここで言われているように思われる。つまり、突き抜けるためには一つ、人間的な理由を巧妙に作り上げる必要があるのである。そうでなければ、ここでの「彼」はそもそも「家を出て行く」ことができない。
 さらに踏み込んで言えば、このようなことから「逃亡」は「散歩」になり、「攻撃」にさえなるとも言える。

われわれの課題が、ちょうどわれわれの人生とおなじ大きさであることが、その課題に無限性の外観を与える。
112-113

 これはともすればレヴィナス批判かもしれない。ただ、その場合の「われわれ」がどこまでを指すのか、指すことにできるのかは明瞭に議論されねばならない。つまり、ハイデガーのように「運命」のようなものを共有しているところまでを「われわれ」と呼んだり、レヴィナスのように「私」もしくは「繁殖性」に絆されたところまでを「われわれ」と呼んだり、そういうことがここでの問題である。しかし、その問題の予めある答えとしてこのように「無限性」を考えること、そしてそれを「外観」と言ってのけること、それはかなり新鮮なことである。少なくとも私にとっては。

認識は、われわれがすでに持っているものである。ことのほか認識を得ようと努力する者は、認識を得まいと努力しているのではないかと疑われる。
115

 これと同じようなことを永井均がウィトゲンシュタインに投げかけていた。たしか、「問題を誤認するための努力?」などと『ウィトゲンシュタインの誤診』という本の中で言われていた気がする。なんとなくわかるのだが、少なくとも私は私の中にこのような努力を見つけたことはない。おそらくはそれはそのような努力と言えるようなものを私は私の無能力もしくは怠惰に帰しているからである。このことがどのように問題なのか、私はわからない。しかもこの「わからない」はわからないふりではなく本当にわからないのである。

自己を振るい落とすことではなく、自己を啖い尽くすこと。
116

 アフォリズムに「短すぎてよくわからない」と言うのは流石に無礼だと思う。しかし、このアフォリズムは豊かすぎるがゆえにそう言わざるをえないようなものである。展開がいくつも見えるが、そのどれもが困難な道であるように思われる。何も思いつかないがゆえに困難なのではない。思いつきすぎて書くことが困難なのである。とりあえず良いアフォリズムである。素敵なアフォリズムである。

すべての責任が君に課せられると、君はその一瞬の機会を利用して、責任の重さに屈服してしまおうとすることもできる。しかしそうしてみたまえ、君は気づくだろう、君にはなにひとつ課せられてはいなくて、君がその責任そのものなのだということを。
118

 これはレヴィナスの要約かもしれない。そう読むとすごい要約である。ただ、システム批判というか、そういうものであると読むと、レヴィナスと近代というシステム(こんな大風呂敷を私は広げられないが無知を恐れ、キョロキョロしながら言ってみる。)の同型性が見える。これは批判ですらない。批判だとしたらつまらなさすぎるからである。しかし、だからといって言うことに意味がないわけではない。この同型性を類似性の表現であるとして、違うところと同じところをより明瞭に区別することはかなり重要な仕事であるように思われる。私は仕事をしたくないのでとりあえずする気はないが。

虚偽の世界においては、虚偽はその対立物によってさえ、世界から排除されることはない。それができるのは、もうひとつの真実の世界によってのみである。
120

 どうも私にはカフカが「もうひとつの真実の世界」と言われるもので何かを言えている気はしないので、これは構造を浮かび上がらせるレトリックであるように思われる。つまり、砂時計は真ん中のくびれが無くなるとそこが上辺もしくは下辺になることの強調であるように思われる。簡単に言えば、これは「真実の世界」に対しても言えるのである。ここに「虚偽の世界」と「真実の世界」の選択を見ることはできるが、私はその選択が見えないと言っている。それはおそらく「世界」がよくわからないからである。ここで言われている、カフカの「世界」が。

われわれにとって、二種類の真実がある、認識の木によって示されるものと、生命の木によって示されるものと。活動的なものの真実と、静止的なものの真実と。第一の場合は善は悪から自分を区別する。二番目は善そのものにほかならない、この場合の真実は善についても悪についてもなにも知らない。第一の真実は、われわれに実際に与えられている。二番目は予感として。これは悲しい光景である。第一の真実が瞬間に、二番目が永遠に属しているのは、よろこばしい光景である。だからまた、第一の真実は二番目の真実の光のなかに消滅する。
122-123

 ここで表現されていることに、(もしかするとただ単に疲れによってかもしれないが)、私はくらくらする。のだが、一つだけ言うことができる。それは冒頭のコメントで「静かさ」について述べたことがここではより明瞭に表現されているということである。このことは「認識/生命」「活動的なもの/静止的なもの」「悪から区別された善/善そのもの」「実際に与えられるもの/予感」「瞬間/永遠」という対比によって繰り返され、より濃密になっていく。それを要領よく整理する力は、少なくとも私にはない。今の私にはない。未来の私にあるかと言われれば、それはわからない。あるかもしれないしないかもしれない。つまり、私はまだ対比の後者に身を置くことができていないのである。

世代と世代をつないでゆく連鎖は、お前の本質のなかの連鎖とはちがう、でもそれでもいくつかの関係は存在する。どんな関係か?世代はつぎつぎに死んでゆく、お前の生活のそれぞれの瞬間のような。どこがちがうのか?
130

 これは私がたまに言う「スケールの話」である。世代と世代の関係とある個人の生活と生活の関係に同型性が見られると言われている。そこで異なるのはスケールだけ。つまり、この問い(のようなもの)への答えは「スケール」なのである。この二つのスケールの違う関係の間に個人と個人の関係もある。おそらく。

観察者は、ある意味で<共に生きる者>である。彼は<生けるもの>にしがみつく、彼は風に歩調を合わせようとする。こんなものに、わたしはなりたくない。
131

 ここで言われている「観察者」が私はよくわからない。おそらく、私が考える「観察者」よりも一つ踏み込んだ、言うなれば「省察者」のようなものに対する批判(?)であるように思われる。しかも、おそらく私はこのような存在である。私はよく、私の横をすり抜ける風のような誰か、駆け抜けていく何かを追いかけよう、と呼びかけている。とも言える。なので、私はカフカに「お前のようにはなりたくない」と言われている。しかし、私はしがみついているというよりはしがみつけないよねえ、と笑っている。これは無理やり笑っているだけかもしれないし、そもそも笑っているのがデフォルトで、追いかけているからそれに失敗が見出されて無理やり、失敗を隠すように笑っているように見えるのかもしれない。それはわからない。
 まあ、いろいろ言えそうで、それゆえによくわからない。ずっと「わからない」と喚いてしまいそうなアフォリズムである。もちろん、これは良いアフォリズム、素敵なアフォリズムのほとんど絶対的な条件である。少し前も書いたが。

生きるとは、生の中心にいることであり、わたしが生を創り出したときの眼差しで生を見ることである。
131

 私はこれを読んだとき、意外な気がした。これはおそらく「生命の木」の話に繋がる話である。私はカフカがこんなにも踏み込んだことを言うと思わなかった。だからびっくりしたのである。
 しかし、私は疑っている。これは、カフカ自身が自分の記述を成り立たせるために作った藁人形なのではないか、と。まあ、なんとなくなのだが。

われわれは、一人一人の人間が彼自身の生を生きるのを(あるいは彼自身の死を死ぬのを)見ている。内面的な正当化なしにはこうした営みは不可能だろう。人間は誰でも、正当化されない生を生きることはできない。これに惑わされて、人間はその生を、さまざまな正当化によって基盤固めするのだという考えがでてくる。
140

 「正当化」は後から必要になるのである。しかも、それが必要になるのは誰かに「正当化してみよ」と呼びかけられるから、さらにはそれになぜか応答してしまうからである。このことを知らない人はこういう勘違いをするのだろう。ただ、これはおそらく「人間」がそういうものによって可能になっているのであるから、なんというか、逃れようのないことであると思われる。だから、そのことを引き受けつつ、まだ言えることを見つけようとした結果がこれであるように思われる。

人間には二つの大罪があり、他のすべての罪はここから導かれるーーつまりく性急さ>と<投げやり>である。性急さのために人間は楽園から追放され、投げやりのためにそこへ戻らないでいる。でもひょっとすると、大罪は一つきりかもしれないーーつまり<性急さ>である。性急さのために追放され、性急さのために戻らないでいる。
149

 これはたしかにそうかもしれない。が、他人からこのように言われたとすれば、世間から見れば失敗に見えることに対して私が言及したときに、さらには失敗をそれではないものであると語ろうとした場合にこのように言われたとしたら、私はきっと、「お前もな」と言ってしまうだろうと思う。もちろんこれも「性急さ」として解されるだろうが、そうしてしまうと思う。そのことを踏まえると、こんなことを言ったところで何になるわけでもないのである。しかし、それが言われた。それの方が重要なことであるように思われる。しかも、このようなことは結構あると思うので、それらの比較こそがこのアフォリズムを意味づけることであるように思われる。

鳥籠が、鳥を探しに出かけていった。
154

 よくわからない。し、特に豊かな展開を予感させるわけでもない。しかし、アフォリズムとしては素敵なものであるように思われる。なぜなのだろうか。

よじ登ることなしにバベルの塔を建設することが可能だったら、それは許されていたことだろう。
155

 「よじ登ることなしにバベルの塔を建設する」ということを私は地面の上に何かを作り、これまでのものをその上に乗せるという形での建設として考えた。その場合、天に届いたとしてもそれはずっと前の何か、作られたものがそうなるだけであるように思われる。ここに私は、すごく深い含蓄を感じた。が、それが何であるか、それがまるでわからない。わけではない。が、私はそれを語れない。これは秘密にしたいからそうなのではなくて、ただ単にそうなのである。まあ、簡単に言えば、このことによって喚起されるイメージをうまく、整序することができないのである。
 言いたいことは多くあるが、今日はとりあえず勘弁していただきたい。あまりにも大きい不足はなにゆえに「勘弁してほしい」のかさえ語らせない。

豹どもが神殿に押し入って、供物の入った甕を飲み干してしまう、これが何度となく繰り返される、おしまいにはその予測がつくようになって、これが儀式の一部となる。
156

 これはすごく人間学的であるように思われる。ただ、「なんかすごい」としか言えない。
 一つだけ書いておこう。デリダが「原暴力」という概念で言い表そうとしていることを支えるのは人間もしくは人類に共通する、「儀式」を作り、それに参加する力であるように思われた。さらにルジャンドルの「ドグマ」に対する千葉雅也の解釈を参照すれば、このアフォリズムは私たちの「儀礼」に対する二つの形態の関係性を一つの形態をもうすでに表現されたことにすることによってより明瞭に表現したものであると言える。ここで細かい話はしたくないので詳細を知りたい人は『ドゥルーズの21世紀』に所収されている千葉雅也の議論を参照してほしい。私も参照する。帰ったら。サイゼリヤに居るので。

ほんとうの敵対者からは、限りない勇気がお前のなかに流れこんでくる。
157

 これは尾崎豊が「倒すべき敵がいねえよ」(原文ままではない。意訳。)と言っていたことに似ている。つまり、尾崎は「ほんとうの敵対者」がいねえよ、「勇気」が流れこんでこねえよ、と言っていたということである。このような表現は他の人(私が知っている人で言えば、ラップスタア誕生に出ていた頃のTohjiが居る。他にも居る気がするが具体的な名前が思いつかない。フーコーは「ほんとうの敵対者」がいないのはなぜか、について考えたと言えるかもしれない。)にも見られる。
 もう一つ、これを書いた人は外からこの対立を見ている。だから「勇気」が見える。このことは結構重要なことである。なぜなら、当人たちはおそらくそれを「勇気」とは呼ばないからである。このような傍観者的な立場に立つことでやっと「勇気」はそれとして表現される。「人間讃歌は「勇気」の讃歌ッ!!人間のすばらしさは勇気のすばらしさ!!」だとするならば、「狩りに行く」と言って、もっとおぼこく言えば理由を述べて、「家を出て行く」ことにした「彼」はより外から見られていたのである。だから、あそこで述べられていたのは「人間」の「家を出て行く」ことの不可能性ですらあるのである。言い換えれば、「彼」は幼児になり、「狩りに行く」ことは児戯に等しいものになるのである。おそらくはこうも言える。だから、あそこでの記述はなんだか朗らかであり、あれを書いた人は微笑んでいるのである。
 
 ここまでで結構満足した。が、結構残っていた。ので、駆け足で書いて、そろそろサイゼリヤを出ようと思う。

お前の立っている大地が、両足が覆う以上の大きさではありえないという幸運を、理解すること。
157

 ただ、見せかけでも「大地」が「両足が覆う以上の大きさ」であることは重要なことであるように思われる。例えば、橋においても渡っているところは一部分だが、橋が橋として安心できるものであるのはその一部分以外の部分があるからであるのだ。ただ、たしかにここでの橋を人生の道だとすれば、そのような部分は可能性になり、「こうもなれたのに」ということになってしまうこともあるだろうから、ここで言われているように「幸運」と言えるかもしれない。

どうやって世の中のことをうれしく思えるだろうか、そこへ逃げてゆくとき以外に?
158

 これは反転しうるだろうか。つまり、「世の中」から「逃げてゆく」ときには「世の中」の外?内?どちらでもいいが「世の中」以外のどこかのことを「うれしく思える」のか、そしてそれを問えるのか?

否定的なものを行なうこと、まだわれわれに<課せられて>いることである。肯定的なものは、すでに与えられている。
159

 これまた長くなりそうなアフォリズムである。
 もう、今日は限界である。疲れすぎた。なので、ここからはメモしたもののうち、ここまでのリズムに沿うものを残しておこうと思う。コメントしたかったらしてもらったらいい。私はしない。疲れたので。夜風に吹かれて帰る。バイクで、家に。

 いや、コメントのないメモを公表することはおそらく許されていない。私がこんなことをしてられるのも「エピグラフ」という作法があるからなのである。なので、残りはまた今度しよう。

 いや、する。一つ一つ、鋭く言い当てる。頑張る。

以前のわたしには、なぜわたしの問いに答えがもらえないのかがわからなかった。いまのわたしには、どうして問うことができると信じられたのか、わからない。といってもわたしは、全然信じてなぞいなかったわけだ、わたしは問うていただけなのだ。
162-163

 たしかに、問うときには大抵答えも用意されているものである。

われわれの時間観念だけが、われわれに<最後の>審判をそう呼ばせるのである。もともとこれは即決裁判なのだ。
165

 私は昔、ラーメン屋に行ったとき、足が不自由そうな人が店内から出てきそうだったので扉を開けて待っていたことがある。その時、その人は「ありがとう」と言ってくれた。その時私は、嫌な気持ちがした。しかし、私はこの気持ちがよくわからなかったし、別にその人にぶつけるようなことでもないと思ったので、会釈をしてその場は和やかに終わった。そのよくわからない、しかし嫌な気持ちはおそらく、「ありがとう」と言われてしまうと「即決裁判」ではなくなることに由来していたのだろう。私はすでに良い気持ちになっていた。良いことをしたから良い気持ちになっていたかはわからないが、良い気持ちになっていた。それが否定されたように思ったのかもしれない。つまり、「良いことをしたから」という因果性を呼び込むこと、そして同時に時間を呼び込むことによって「即決裁判」が消えてしまったと思ったのかもしれない。

蛇の仲介が必要だった。ーー悪は人間を誘惑することはできるが、人間になることはできない。
169-170

 たしかに。メタファーとして豊かすぎるなあ。私にその力はないよ。私は結構頑張っちゃったせいで、しかもおそらくこのメタファーの構造についてはもうすでに語ってしまったせいで、私の培養場はもう枯れている。今日はもう。他のところはまだ元気かもしれないけれど。済まないねえ。
 こんな嘆息では満足できない人が多いかもしれない。そういう人は自分なりのコメントをしたらいいと思う。し、私のどれかに対するコメントとしてそれを深めたり、それによって私のコメントの浅さに微笑んでくれてもいい。

足に踏まれてできた深い凹みのついていない階段の踏み板は、それ自体から見れば、荒涼とした、木っ端の継合わせにすぎない。
173

 これも「鳥籠」のアフォリズムと同じ種類のアフォリズムである。素敵なアフォリズム。良いアフォリズム。

理論的には、完全な<幸福の可能性>というものがあるーー自らの内にある<不壊なるもの>を信じ、かつそれに向かって懸命に努力しないこと。
177-178

 ここで言われている「完全な<幸福の可能性>」には二つの条件がある。一つは「自らの内にある<不壊なるもの>を信じ」ること、そして「自らの内にある<不壊なるもの>」に「向かって懸命に努力しないこと」である。私は前者についてはクリアしている。後者についてはどうだろう。私は自分の「癖」を「自らの内にある<不壊なるもの>」であるとみなしている。しかし、それをより享楽しようとしているので、これが「自らの内にある<不壊なるもの>」に「向かって懸命に努力」することであるとするならば、半分はクリアしていて半分はクリアしていないことになる。
 しかし、もし「ひたすら深く深く頭を垂れる」ならば、後者の条件をこのようにクリアする以外に道はないように思われる。もちろん、ここで「怠惰」や「努力」は二重化されているとみなしてもいいが、それはここまでの議論を妨げるわけではない。ここでのカフカの亀裂、つまり二重性はおそらく「ひたすら深く深く頭を垂れる」ことにある。そして、「向かって」ということがこれに対比されているとみなせる。

同一人物のなかにさまざまな認識があり、それらはまったく別々であるのに対象は同一である。そこで今度は、同一人物のなかに別々な主体があるだけだと逆推理せざるをえなくなる。
178

 前半部分は端的に言ってカントの「統覚」の話だと思う。後半部分は「逆推理」というよりもむしろ「順推理」で次元が一つ上がった、つまり「対象」を見る主体を想定して、その主体像とは異なる主体像として「同一人物」のなかにある「別々な主体」を想定したということであると思われる。それを「逆推理」と呼ぶためには「対象」をそれ自体として自立させる必要があり、それは言うなれば砂時計の真ん中として「対象」を考えるということであるが、その場合もその砂時計の上と下は固定されていてもはや砂時計ではないので、言語の砂時計のような性質は無視されざるを得ない。が、言語は「表現=理解の基本形式」(これは私が考えていること。テーマであり、誰かの用語ではない。このようなことを考えている人がいないわけではない。例えば、佐藤信夫や永井均、レイコフなどがパッと思いつく。し、これはおそらくカント的な哲学である。)にもぴったりくっつく、というかそのように想定するしかないと思うので、アフォリズムによってそれを乗り越えることはできない。少なくとも私がそれをできていないのでここでの乗り越えは不可能である。
 まあ、「対象は同一である」と言われている時の「対象」がそもそも「物自体」のようなものであると考えることもできるが、その場合はウィトゲンシュタインが「私的言語」に関する議論で指摘している(というよりもむしろそこから永井均が指摘していると言った方が良いと思われるが。)「現実性」と「言語」の均衡関係によってその「物自体」も二重化されざるを得ない、ということが前半部分の前半部分すなわち「同一人物のなかにさまざまな認識があり、それらはまったく別々である」ということから導かれるように思われる。これを否定するならもはや「同一人物のなかに」という想定や「同一人物のなかにさまざまな認識があり、それらはまったく別々である」という想定が不可能であるように思われるのでここでの問題は解決されない。まあ、これもまた「わたしは問うていただけ」になりそうだが。

彼は自分の食卓から床にこぼれ落ちたものをむさぼり食う。そのため彼はたしかに、しばらくの間は他の誰よりも満腹するけれども、上の食卓で食べることを忘れてしまう。そのため今度は、こぼれ落ちるものまでなくなってしまう。
179

 どうして私以外の人も「食卓で食べることを忘れてしまう」のだろうか。それとも、これ以外の理解があり得るのだろうか。あいにく、私はこれをメモした時も今も、それを見つけられていない。

楽園において破壊されたといわれているものが、もし破壊されやすいものであったとすれば、それは決定的なことではなかったことになる。しかしもし破壊されることのない<不壊なるもの>であったとすれば、われわれは誤った信仰のなかに生きていることになる。
179

 これはおそらく「ほんとうの敵対者」の条件は「破壊されやすいもの」でも「破壊されることのない<不壊なるもの>」でもいけないということを言っている。そして、この条件はどちらも満たされなければならないのであり、そうでない場合「われわれは誤った信仰のなかに生きていることになる」ということが言われている。
 このアフォリズムの理解自体はこれで充分だと思われるが、「<不壊なるもの>」についての議論の続きであるとすれば、「癖」は「破壊されやすいもの」でも「破壊されることのない<不壊なるもの>」でもないものとして保たれる必要があるということになるだろう。つまり、「癖」に「向かって懸命に努力」することというのはそれを「破壊されやすいもの」であるとしたり「破壊されることのない<不壊なるもの>」であるとしたりすることになるだろう。そう言われてみれば、少なくとも私は理解できる。し、「汝自身を知れ」に関するアフォリズムについても「汝自身を知れ」は「お前を、<お前がそうであるもの>にするために」と方向付けられても「<不壊なるもの>」と「<お前がそうであるもの>」の差異は保たれるということであると理解できるだろう。

 さて、一応終わった。疲れた。最後にカプチーノでも飲んで帰ろう。

 ちなみに、完結!みたいな雰囲気が出ているかもしれないが、カフカのアフォリズムは続く。まだ全然途中であるから。しかも、ここまで書いていたことに限っても「あのことば[=「汝自身を知れ」を指す:引用者]はだから、汝を見誤れ、汝を破壊せよ、という意味、つまりなんらかの悪ということである」ということの意味は全然よくわかっていない。さらに言えば、私はどのような文章にもコメントできると思われているかもしれないが、私はコメントできるメモを拾っていただけであり、それゆえに全部にコメントできるのは最初から必然であったことになる。コメントしなかったメモもある程度ある。し、後半は特にそうである。疲れていたので。しかも、そこでは「悪」が論じられていたから、私は選択の結果、あたかもいい感じにできたのである。別にそんなふうにするつもりもなかったのだが、そうなっていた。だから、注意を促しておいた。私は選択とレトリックによってまるで自分が有能であるかのように演出しているよ、と。
 最後に、私は哲学について次のように思っている。これは私のアフォリズムである。

哲学者はつまらない議論に参加しない。

 まあ、これもドゥルーズが(おそらく)『哲学とは何か』で言っていたことなんだけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?