知的な真摯さとは何か

 傲慢なことを言いましょう。

 私はどんな哲学書を読んでも「ああ、俺が表現できなかったやつだ」と思います。「まったく新しい考え方だ!」とは思いません。
 しかし、考えてみればすぐさま疑問に思うように、「まったく新しい」のが本当なら、どうしてそれが「まったく新しい」と理解できるのでしょうか。「まったく新しい」と言いうるためには少なくともその「まったく新しい」ということと対比して「少し古い」とか「とても古い」とか、そういうことを引き合いに出すことが求められます。しかし、もし「まったく新しい」のだとすれば、その対比はすごく運が良いわけではない限り的外れな対比だと考えられるのではないでしょうか。どうしてその運が良いことがそんなに頻繁に起こるのでしょうか。それは「まったく新しい」のではなく「新しい」だけのことを「まったく新しい」と誇張するからです。ただそれだけです。
 それに対して私の感想の真摯なこと。「表現できなかった」というのはまったくの事実です。その表現以前の何か、何というかイメージのようなものが一致しているかどうかは知りません。もちろん一致していると思っていますが一致しているかは知りません。しかし、「先に表現された」というのは知っています。私は後追いすることになったのです。表現力不足のために。このことがどうして真摯ではないのでしょうか。「まったく新しい考え方だ!」の方がどう考えても真摯ではないでしょう。もちろんその宣言、歓声?がそれからその「新しさ」を探究することに向かうためのものなら大いに真摯でしょうが、それを言い放って何か理解したような顔をしているとすれば、それはかなり真摯ではない。もちろん、「表現できなかった」というのも、言い放つだけなら真摯ではありません。しかし、「表現できなかった」というのは「表現できた」と対比されます。その対比の前提には「表現しようとしている」ということがあると考えられます。つまりそこで既にある程度は真摯なのです。それに対して「まったく新しい考え方だ!」にはそのようなある程度の真摯ささえありません。そこで基盤になるのは「新しいものがいいものである」ということでしかありません。それが正しいのか私は興味がありませんが、真摯ではありません。
 さて、一段落につらつらと五百字も書いてしまいました。しかも同じことを繰り返しているだけです。しかし、表現はこのように繰り返されているのです。私も繰り返しているし、哲学も繰り返しているし、文学も、藝術も繰り返しています。その繰り返しに身を置くことが「表現しようとしている」ということなのではないでしょうか。私はだから「真摯」だと思うのです。なにか、自分の中に「表現できない何か」があることを認めることが真摯だと思うのです。私は悟りは好きですが悟るのは嫌いです。それは「表現できない何か」を「表現できない何か」として表現することがその表現だと信じてやまないように思えるからです。そんなのつまらないし「真摯」じゃないでしょう。
 じゃあ「真摯」って何か、と言われると、さて、わかりません。それぞれ考えればいいのではないでしょうか。知的に誠実だとか、哲学的に独立しているだとか、そんなことはどうでもいい。君は君の表現でこの「真摯」ということ、私がこの文章をかけて書いたことを書き直せばいい。書き直す連関の中で「ああ、私はこれを表現したかったのだ」と短文に思いを馳せることになるでしょう。おそらく。私が「ああ、俺が表現できなかったやつだ」と思うのはそういうことなのです。あっぱれ、と素直に思うことなのです。負け惜しみとかではないし、先を越された悔しさや虚しさでもない。しかしただの感謝でもない。そんな複雑だが素直な感情。それが「ああ、俺が表現できなかったやつだ」なのです。
 
 そもそも私たちは感激するよりも通り過ぎます。この話は同じ話なので繰り返しません。皆さんが繰り返してください。で、「ああ、俺が表現できなかったやつだ」と思ってください。この文章を読んで。まあ、そんなに良い文章になっているかはわかりませんが。

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