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気持ちの無駄遣い。(本当にどうだっていいシリーズ)

 人よりも気を遣っても、気の遣い方がずれてて、気を遣えないひとみたいになっている。気がする。

 明日の洋服からなにから、気を遣う必要なんてそんなに無いはずなんだけど。普通にしていればいいって言うけど、普通にしてきた結果、今までの人生うまく行ったことないんだから、普通にしてたらダメなんだろうなあ。困った。ひとは自分のことそんなに細かく見ていないだろうし、気にしすぎてるのもわかるけど。ああ嫌だな。裏で何を言われているかわからない。変な人だと思われている。協調性の無い人だと思われている。どうにもできない不安がぐるぐるうずまいてしまう。仕事が出来ないのは当たり前だとするなら、せめて愛嬌ぐらいと思っても、どっちもできなくって、しんどい。

 気にすることなんかないのだけれど。

 ここ最近、やっぱり物を書く事が後ろめたくて仕方ない。人に言わなければいいし、勿論言うつもりもないけれど、世間から見たら物を書く人なんて、暗くて変な人というイメージはいまだ抜けないものだろう。会社員やOLをしながら活躍する作家が多いのは事実としても、やっぱり文章を書くなんて、周りの人間に簡単に言えるような事ではない。趣味が物を書くことなんて、口が裂けても言えない。普通にね。仕事している人の周りでは。いや、でも、友達の前でも言いたくないな。最近は。

 物を書くこと って結局、こう。やっぱ恥ずかしいよね。自分の気持ちをアウトプットするのなんてさ。感受性がいいとか想像力があるとかそういうのじゃなくて、如何に人前で服脱げるかって話だもん。猥褻行為。卑猥だよね。自分の日記を心の中身を他人にあけすけに覗かせるなんて。趣味文章を書くこと なんて 私は露出狂ですって言ってるようなものですし。

 但し、これがちょっとした職業であるなら別かなと思ったりする。所謂ライターさんとかコラムニストとか。規模は問わないけど、仕事として、クライアントがいて、文章を書くなら、それはそれでむしろやりたいかもしれない。少なからず何かしらの需要に応えている訳だから。自分が書きたいように書きたい事を書くのなんて、需要も供給もあったものじゃない。見えたものじゃない。期限も納期も決まっていない、誰にも求められていない、自分の脳内を、苦しみながら露出するなんて、悪趣味だ。

 物書きでいたいとそりゃあ思ったさ。でも、自分になにもないから、悪趣味を悪趣味として開き直れるだけの無根拠な自信というものがなくなってきた。悪趣味を悪趣味だと認めれば認めるほど、世間と乖離して行く。世間と乖離している感覚を持てば、周りとの上手い距離の取り方を忘れて行く。うっかり文章を書く事が趣味ですなんて行った日には最後だ。追放だ。世間に評価されない文章に存在価値は無い。評価?誰が評価するんだ。そもそもかっこ悪いと思っていないのか。物書きは、世の中に対する後ろめたさを持っていないのか。自分は世間一般から外れた人間で、見下されるべき存在である後ろめたさを持っていないのか。持っていないとしたら、その物書きは偽物だ。

 私は後ろめたい。本物ではないけれど、後ろめたい。はずかしい。どうしてこんなこといちいち書かないといけないのか。ここ1年割と近しい人には「物を書くんなら、それが趣味なんじゃないの?」とよく言われるけど、こんなこと趣味のはずがねえだろ。気持ち悪い。軽々しく趣味だとか言わないでくれ。第一私がまず、他人が趣味で書いたような文章は信用したくない。


 結局は自意識の強さからくるもんで。誰も見てないつうのに。


 やっぱりまだ向き合えないんだよな。昔からの自分と。だから、書く事に対してもネガティブなことしか言えない。散々書くことへの悪口言ったけど、いや、取り消す気もないけど、だけど、本当は、寝る・食べる・恋をする というのが人間の基本であるなら、私の場合そこにどうしても「書く」が付随するはずなんだ。「恋をする」につきまとって、「書く」が付随する。


 やっぱり、言葉を並べないと、気持ちは伝えられないと思うから。

 100回のセックスより、1通の手紙。長い手紙。秩序だった手紙。論理性のある手紙。

 頭が固いとか、それでもまだ私にそう言う?


 夜になると自意識が暴走する。朝見れば結局何を着ても割と違和感はないのに、夜は全然何を選んでも似合わないと思ってしまう。


 だから夜に文章は書いちゃだめ。って思っているけども。

 私は言葉に食われる人間らしいから。だから迂闊に、文章なんか書いちゃだめなんだ。

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