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「恋の始まりに絶望し、恋の終わりに安堵出来たら。」(本当にどうだっていいシリーズ)

「人を好きになる事は、希望のスタートか、はたまた新たな絶望の序章なのか」

 私は常に後者だと唄っているのだが、中々どうも世間がその意見にキャッチアップしてくれなくて頭を抱えている。私はこう言う人間だからこそ「巷にはびこるキュレーションサイトでバズる明るい記事書くの夢なんだけど」と言う素っ頓狂な事を言えるのではないかと最近自覚してきた。嘗て教育業界で生きて行きたい半面に「丸の内OLやりたいんだけど」とほざき続けてきたのと、理屈としては同じ。明らかに自分の現在手元にあるものと真逆の物を欲しがる性格だ。新たな恋愛が世界をポジティブにする事は間違いないと思っている。それは何をポジティブにするのかいうと、消費意識。購買意欲。然しそれ以上に私の何を変えてくれると言うのだろう。私の心をポジティブにしてくれるものなのだろうか。「決してポジティブになったことはない」と、はっきり申したい。ところではあるが、悔しくもはっきり申すだけの自信は無い。正直申し上げて好きな人に会える事を糧に仕事を1日こなす、ことは何度もあったが、如何もそれもなぁ。余り肯定したくない。

 圧倒的に私には自信が無いので、「人の事を好きになる」とまず「いつか裏切られる事が怖い」と言う意識を抱いてしまう。きちんとした恋愛をした事が無いからだと指摘されれば「じゃあきちんとした恋愛って何ですか」という文句を付けて事態は泥沼化する。結局始まってもいないのに、私には初めから終わりしか見ていない。理屈は色々あるけれど、「こんなに単純な事でこの人の事を好きになっていいのだろうか。会ううちに意識のずれが生じたり、はたまたヤリ捨てられて終わるのだろうか」と言う懸念がまず湧く。いや、此処までは誰もが通る道なのかもしれない。然し、徐々にそこで振るいをかけて行く勇気を、世の中の女性諸君は持っているだけなのかもしれない。私がその懸念を立たせた時点で「はい終了です」と関係性を丸く収めてしまおうとしているだけか。殊更に私には可愛げが無い。相手を立たせることは技術力の問題だが(その技術も無い)、計算して甘える事はまず無理だ。至極当然のことだが、甘えたところで好きになった相手が自分の根底を解決してくれるわけではない。弱みを見せたところで嫌われたら終わりだ、付け込まれたら身も蓋もない。と言うよりも予め弱みしか見せていない所はあって、その弱みを「これは私の問題なので、私が何とかします。だから大丈夫です。」と、言い切ってしまう嫌な強さがあるので、男性を寄りつけないと言うのは確かだろう。尚且つ、今度は逆に人の心配を始めたら、相手の事を取り付かれたかのように心配してしまう。(今日書いた境界が付かない話にまさに直結する)それは自分でもちょっと厄介だと自覚する部分があるので、境界が付かなくなると思うなら初めから関わらないほうがお互いの為だろうと思う。そういう面を総合すると、はじめる前から考えこみ過ぎて嫌になり、「はい、もうだめです、恋愛したくないです」という事で話が終わる。自信が無いから他人を信頼できず、自信が無いから「こんな私を好きになるとか、この人可哀想」と思うし、逆に自信が無いからこそ、虚勢張ってひとりでも大丈夫ですと大声をあげたりするのだ。まさに「こじらせ女」のテンプレート的過ぎて、自分でも書いていて呆れる。

 結婚なんてもう夢のまた夢だ。「結婚したいの?」と聞かれれば、「したいよ。(それは就職活動に勝ち残り正社員にならないとこの先生きていけないよと脅されまくった大学三年生の時期と同じ感覚で)」と答える。もう30までに結婚を決めないと、到底結婚など無理だろう。そういう世間の目と社会システムの事を加味した時に、「結婚したくない」と答える勇気はない。そこいらの派遣社員が30越してひとりで生きて行くだけの保障など今の日本には無い。そして親は私より早く死ぬ。ADHD持ちの、精神科通いのこの私がここまで生きてこれたのは完全に親の庇護があったからのほかならず、この先庇護してくれるものがいなくなって、経済的にも精神的にも頼れるものが無くなった先に生きていける自信ははっきり言って無い。そういう事を加味して、「結婚したい」という答えが出てくるのだから、ならば割り切ってお金の為に結婚すればいい・・・と言う発想にもなれないのもまた厄介だ。完全にこりゃ癌だな。

 いやしかし、私はちょっと前まで、お金の事なんてどうでもいいから元あいかたと結婚したいと思っていた。この人と一生一緒に居たいと思っていた。となると、一言で言ってしまえば「もう散々傷ついたから、結婚相手を見つけるだけの勇気が全くない」それだけだ。結果的にもう、私は今は元あいかたと結婚をしたいなどと思っていない。思っていないどころか、私は今元あいかたにLINEをブロックされている。はっきり言ってこれは私に非が無い。私に非が無い出来事の証人だっている。その場に一緒に居た人が証人になってくれるだろう。

 ここまでくれば段々話が見えてきただろうか。

 此処から先はあえて話を濁す。

 ◇

 「ダットンとアーロンの吊り橋実験 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8A%E3%82%8A%E6%A9%8B%E7%90%86%E8%AB%96をご存じだろうか。


 普通の橋の上と、揺れる吊り橋の上で、仕掛け人の女性が実験対象の男性にアンケートを依頼し、「結果に興味があれば連絡下さい」と連絡先を渡す。そうすると、吊り橋のうえで連絡先を貰った男性は、まんまと後日その女性に連絡をしてしまうと言う結果が出た。これが何を言いたいのかと言うと「非常事態時で心が興奮状態にある場合、人と言う物は人にドキドキしてしまい、恋に陥りやすくなる」ということだ。聞けば単純明快。自分が困っている場合に誰かに助けてもらったら、仕事や学生生活の行事でも何でもいい、そうしたら助けてくれた人に、『例えそんな気はなかったとしても』気付いたら恋をしているなどと言う話はそこらへんにゴミのように落ちているはずだ。この実験とはずれるかも知れないが「異性に恋愛相談をしていたら、相談相手の事を好きになってしまった」と言う話。これはフロイトの言う転移に近い現象なのかな。とかく、人間と言うのはその気が無かったとしても、窮地に手を差し伸べてくれた人間に弱い。こればっかりはこの私でも、どうにも避けられなかった。本当にあの時ありがとうございます。と言う異性に出会ってしまった。酒の所為と言うよりもむしろ、吊り橋効果実験に近い状況でそれをやられた。前提として、共通の話題はいくつかあったけれども、それをさらに凌駕するこの状態…。

 事の後「あの時は色々とありがとうございました。またあの話とかこの話とか続きを聞きたいので、ぜひお会いしたいです」と言うメールは勿論打った。あまりその時の、まさに「吊り橋の上に居る状態の時の事」は言わなかった。返事は一応返ってきて「僕もまたお会いしたいですよ。今度はだれだれさん抜きで」と返ってきた。要するに2人で会いたいって言ってくれたってことだ。そこからまた「あの時飲んだモヒートがおいしかったので、また連れて行って下さい」的な事を明るく返したんだと思う。私が明らかに「大丈夫ではないけれど大丈夫だと言い張る状況」を見ていたので、明るく返しておくぐらいしておかなきゃなぁという配慮をしての事だ。実際吊り橋の上に居る時には御世辞ではなく「隣の奴はどうでもいいけど、みるくさん、貴方の事が心配ですよ…」と言われたので、少なからず心配されていたと思うが。(今思うと本当に吊り橋の上に居た時の私の状況を見たら少なからず心配はするだろう。かもしくは、「こいつまで頭がおかしい」と思われるかのどちらかだ)然しそこから先の返事は無い。まあ、仕事はフリーランスですし、会いたいと言っても暦通りの生活を送る人間とは時間の都合を物凄く付けにくい仕事である事は全然否定をしない。元あいかたがそうだからということの以前から、私の周りにはフリーランスの人間がいた。彼らとは中々うまく日程が合わず会えないし、会えないどころか連絡がさっと途絶えることも良くある。だからどうなんでしょうかね。と言う最終的に無責任な一言を投げつけて終わりにしたいが。笑

 だから、その一瞬の吊り橋状態は、結局吊り橋状態にしかすぎず、時間が経てば経つごとに薄らいでいく記憶なのだろう。あの時はああだったけど、今はもう時間経ったし関係無いし、嗚呼そんなこともあったな、で終わられている可能性が高いのだ。そういう可能性の先に、私は行く勇気が無い。仕事柄名刺をさっさと渡す癖はあるだろう。それ以前に彼らは仕事柄話を合わせるのが得意な人種だ。色々な人に会う機会も多い人種だ。と、私は私を否定するだけの要素を幾つでも並べられる。もううんざりだ。やっぱりスタート地点は絶望でしかないのだ。こんな状況に陥らなければもう少し、話が共有できるいい知り合いとして付き合えたかもしれないのになぁ。と愚痴る。

 そして私に花粉症の症状以外に何ももたらさない春はもう此処に来ているし、仕方ないので私は3月になると決まって聴いている気がするX JAPANとThe Prodigyを聴いている。もうやりきれねえよ。

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