赤裸々エッセイを書いているつもりはない。思ったことを書いているだけだ。

昨夜のこと。

昨夜公開された渋澤怜さんのnoteを読んで、なんとも言いがたいもやもやした気持ちになる。いわゆる赤裸々系エッセイ・さらけ出した系エッセイがすごい、って言われることについて「どうなの」って話。

渋澤さんのエントリー自体、他の筆者の方のnoteを読んでの感想文から入るので、それにまた私が感想文を付けるのも微妙だ。私が今ここで何を書こうが微妙だしもう煎じ所ではなく出がらしにしかならんだろう。

ちなみにさっきの渋澤さんの文章の中で「いいな」と思ったんはここ。

でも、それはひらりささんの冒頭の文章と大して変わらぬ主張だし、二番煎じというか、n番煎じというか、この手あかのついた主張をもう一度言いたいわけじゃ……いや言いたかったから書いた。誰もがやり込んだゲームをもう一度プレイするのと同じだ。私はプレイしたかった。しかし私は「え?! そこで3連鎖するん?!」「何今の敵のかわし方?!」「ほほう今のは新しいコンボ技であるなあ」「あ、そこはスルーするん、ははーん」って、思ってほしいの。コントローラー握る私の後ろから画面覗き込んでてほしいの。

あー。凄い、素晴らしいな。渋澤さん。それめっちゃいいですね。って素直に思って、勝手に感動した。感動をありがとうございます。

という渋澤さんの言葉に力をいただき、私もこの話題について書いてみたい。だって、書きたいから。

私が昔書いた文章も「よくそれだけ書けるね」「さらけ出せて凄いね」と言われたものだ。自分にその自覚はない。さらけ出せば読まれるという計算以前に、書いているうちにどんどんどんどん心から色々なものがはがれ剥けて出てくるんだよね。

現存のnoteにあるもので、最後に書いたいわゆる「さらけ出し」系エッセイはこれ。3年前の4月末。「彼氏ができたけど、どうやって付き合えばいいかわかんないし、そもそも他人から見たらいいじゃんって言われるかもしんないけど、なにがいいのかわかんないし、『仕合わせそう』って思われるのも嫌だし、そもそも私みたいな女が人並みの『仕合わせ』など享受する資格はない」とか言ってる。それまでの私は恋愛が怖くて、恋愛から離れる為の理屈をこねて生きてきたんですね。「どうせ近づいても手が届かないから会いに行くのやめとこう」とか。「誰かに会いたくて寂しいと思っても、誰も何もしてくんないから自傷して睡眠薬飲んでおとなしくしようぜ!」とか。そんな考え方で頭固めてきた私に彼氏ができるも、思考の転換が出来ず、新たに入ってくる価値観に心身が迷子になったのを吐き出した話です。この話、今読み返してもぐっとくるので自分では好きな話です。まっとうな事を言っていると思います。

別にさらけ出した文章って言われても、当時の私にさらけ出した記憶はあんまりない。やっぱりない。「ああそうですね」って感じ。もちろん「さらけ出したのが読みたいんだろ」的な計算はあったけど、その計算だけに基づいて書いた訳でもない気がする。自分で書こうと思っていた内容を超えて出てきたものが「さらけ出し」ている所じゃないかな。書いているうちに爆発が起こって文字に現れてくるもんですわ。きっと。だから「さらけ出してて」という言葉はあまり適した褒め言葉でもないな。私にとっては。それこそ「ああ、消費されてる」とか思っちゃう。

>此処まで書いて再認したが、もう、私の思考回路は、綴られた文章の中でしか華が開かないのね。逆に言えば、文章の中では、華を開かせていいのね。女子会でなんてまず通用しないな。こんな思考回路。何処の誰に相談するにもできないから、ここぞとばかりに、文字に起こす。

まぁ、こういうことですよ。さっきの本文から引用したけど。ここぞとばかりに、ですよ。でも「ここぞとばかりに、」って書いてることは「さらけ出す」事を計算してるってことに入るのだろうか。でも、確かに読み手は意識してたね。読んでもらいたかった。

最近そういうさらけ出した感じの文章を読んでも「さらけ出してて凄い」とは思わないかわりに「事細かに自分の心情や周りを取り巻く環境とかが描けてて凄い」と思っちゃうな。人に伝わるように編集されている事に凄みを感じる。私にゃ無理だ。佐々木ののかさんも嘉島唯さんも好きな文章書くなぁと思うんだけど、彼女たちどちらも人に伝わるように文章を組み立てている所が何よりも凄い。書き手として当たり前のことなんでしょうが、その当たり前さが凄いです。

私は書いていると頭の前がぐんぐんぐんぐん何かに押されて突っかかっていく感覚に見舞われる。ぐんぐん前に前に頭の中が前に行くから、一歩引いて全体を見ることが苦手なんだよ~。みんなそんなもんかなぁ。

などと完全ひとりぼっちでこんな事を考えていたら同居人が帰宅する。こういう考えをしている時に同居人に帰ってこられると、完全にスイッチが切れる。私が書くための原動力にしている感情は「ちょっとのセンチメンタルさ」であり「怒り」であり「孤独」であり何よりも「周囲との違和感」である。原動力を見つめるのにも集中力がいるし、「考えるモード」の私には結界が張られている。ひとりにして欲しい、いつ泣いても喚いても気にしないでほしい。「同居人と一緒にいる団欒の時間」は「私がものを考えてアウトプットする時間」のほぼ真逆にいる。真逆でもない気がするけど、恐らく遠い所にいる。家を出てから3年、書く回数が著しく減ったのは、この時間の捻出が出来なくなったからだ。やっぱり2人暮らしだとなかなか自分をそのモードに連れ出すのも難しい。書くモードは結構暴力的なモードでもあるので、2人でいる空間でそのモードにスイッチ切り替えるのも申し訳ない気がしてしまうし。そんなモードの時に頭を撫でられ様なら多分「お前死ね」って普通に言っちゃいそう。

ちなみにこの同居人が3年前につき合い出した人その人です。

そう言うわけで、ここで一度「赤裸々エッセイ」についての思考は置いておく。

「ただいま」と言われて、私は携帯を置く。同居人はその場に腰を掛け、パソコンを机に出して充電器につなぐ。そして次に発した言葉は

「あのさぁ顔合わせの料理、よくよく見ると顔合わせにゃ足りない気がするんだよね。やっぱ単に宴会用のコースかなこれ。」

マジ何この現実に引き戻された感。
ここで両家顔合わせの飯の話してるんですよ。前のnoteにも書いたのだが、私はとりあえず4月に同居人と入籍する。詳しいことは端折るが来月入籍する。来月入籍するのに顔合わせ会の話を今している事が世の中的には有り得ないんだろう。でも、うちはそうなんだ。たった2時間、東京都内で行う両家顔合わせとはいえはっきり言ってレストラン決めるのも全然楽しくないし、めんどくさい。両親が嫌いな訳でもなく、親と疎遠な訳でもなく、何なら毎日家族でLINEしてるわってくらいだけど、こんな作業何も楽しくない。思えば生きてきて1度も家族でコース料理を食べる事なんて経験した事ない気がするし、正装で行かないといけないレストランに行った記憶もない。それがいきなり両親を招く立場でこんなことしろって言われても訳がわからないし、自分の親に対してはその必要性さえ感じない。(然し両家顔合わせ、なのでそこはウチだけの問題ではないのだ)
だって何を着るかも考えなきゃ行けないし。誰か決めてくれよと言いつつ、ひざ丈のワンピースとか嫌いだから着たくない。この件について何度2人で「あーーーーーーーー」って言って頭を抱えたかわからない。おととい散歩の休憩で立ち寄った大塚のプロントで同居人と会場を検索していたら「もうお腹痛いし相当疲れた、必要以上に疲れたもう寝たい」とほんとに具合悪そうな顔しててそれはそれで引いた。
とか言いつつ昨晩の私は私でドレスコードの話となると「もーいーよー皆でTシャツGパンでバーミヤンで宴会でいいよーサイゼでいいよーーーー」と叫び出す。なんならTシャツも友達から誕生日に貰ったコム・デ・ギャルソンのTシャツ着るし、Gパンもユナイテッドアローズとかでかっこいいの買うから、そんな顔合わせ会をやりたいものだ。しかし私が良くてもそういう訳にはいかないな……。

とりあえず同居人が開いたレストランのWEBサイトを見ようとパソコンをのぞき込む。そうすると、私の頭上にもう一人の私が現れるのを感じる。「うける、こいつら結婚の顔合わせの準備とかしてるよ。有り得ねえ」って冷めた事を言っているのを感じる。「このパッとしない2人が結婚するんだって。世の中が結婚式上げる意味が分かんないとかいいながらも立派な顔合わせプランとか考えてるよ、バカみたい」って言ってるのを感じる。「だってしょうがないじゃん、そういう状況なんだもん」と私が言うともう一人のは私は「え、3年前まで彼氏なんかできやしない、寂しければ自傷して睡眠薬飲めばいいって言ってたのはお前だよね?下手な恋愛してダメな男と寝て、都合がいい女やってたお前が?結婚?うけるー」って言い返すんよね。あーめんどくさい。こういう感情と戦う自分が凄いめんどくさい。もうそれはそれ、これはこれ、でいいのに、何処か過去の自分に遠慮しているのか配慮しているのか、忖度しているのか……。差を埋められない。

結局「彼氏ができた」のフェーズでも「結婚する」のフェーズでも、自分が自分を客観的に見て「お前にそんな資格あるの?」と思う癖は何も治っていなかった。30歳の女が結婚する、だからなんだ?って話。この世の事象のほとんどは「だから何だ」で済まされることばっかりなんだけど、自分に対してこれほどまでだから何だ?なんて思うもんなんだ、と逆に感心する。

どうしても結婚に纏わる付帯業務について考えてる自分に凄くイライラする。どうして自分が世の中に迎合したことをやらなきゃいけないんだという気もするし、実際に当日周囲の無関係な通行人から向けられる目も意識しちゃう。マジで無駄な意識だと自覚しているが。会社の上司に結婚を報告する理由もよくわからない。よくわからないけど届けを出せば慶弔休暇と僅かながらの祝い金が出るらしい。そう言われると手続き上報告する事もやむを得ない。貰えるものは貰う。

ただ、こんなことを書いている私に対して「でもそう文句言ってること自体仕合わせなことなんじゃないですか?」という人たちが絶対にいるのだ。いるのはわかる、わかるけどムカつく。言われたら殴りたいくらいムカつく。私の今のもやもやを完全スルーして聞いていないんだなって思ってしまう。いわゆる社交辞令か。仕合わせって言うなよ人のこと勝手に。勝手に私の感情を支配しないでくれよ。
「我々は結婚式を全くやらんし、俺の実家は千葉でお前の実家は茨城南部、近い、だから費用負担も考え事も極めて少ない、ラク。だから耐えろ」と思っているけど。社会の在り方を基軸にして自分の現在地を割り出してる節は認めるけど。

「と言うわけで周囲を殴りたいもんは殴りたい」と同居人にゆったら「そこまでは思わないけどでも違和感はある」と概ね同意してくれた。「金があっても結婚式なんて言う無駄なイベントやりたくない」と言うくらい結婚式に無頓着な同居人が「一応親の為に」なんて言って料理について考えているのは偉いなと思った。(でもこの人、レストランとかのコース料理なんであろうと何となくこだわるな、とか、「いいレストランとか場所を提供するのは好きだ」って言ってたのを思い出して、それは元々の性分かと思うと偉いなの気持ちは薄くなった)

彼氏ができた・プロポーズされる・結婚する という華やかな文言の裏には、どこまでもどこまでも華やかさとは裏腹の感情が付きまとうものだと思う。それは各人が抱えるものであり、世間一般にそんなに出回ってる感情でもない。寧ろないものとカウントされている気さえするんだ。「こんなに祝ってくれる空気の中裏腹なことゆったら、空気読めないと思われるかな」とか、思うんでしょうね。私もちょっとは思うけど。でも、空気読めなかろうが何だろうか、私はもやもやしているし違和感にまみれている。どのフェーズに至ってもその違和感からは逃れられなかったよ。そしてきっとこれからも。

「赤裸々なエッセイ」を書いて「自分をさらけ出した」文章を書いていた私が、両家顔合わせについて決めるのがめんどくさいだとか、客観視した自分が自分を貶めるとか、そんなこと書いて正直誰が面白がるんだって話だよね。
いま、もっともっと前みたいにさらけ出してさらけ出したものが面白い!とか言われると、もう私何も書けなくなるわ。大好きだった男の子とセフレ状態で、でもずっと片思いしてて空回りしてた事、死にたくなってオーバードーズしようにもできない事、何だかんだ不器用なりに器用に生きる事が出来たこと、いろいろあるけど。
それに比べて今の自分について書いても何も面白くないんだろうし、やっぱ「さらけ出してた」時の文章で人を喜ばせてた事は「売春してた事」と同じだったのかなと感じる。(昔から自分についてガンガン書いた文章を人に見せて人からの慰めを得るのは寂しくて身体売ってるのと同じじゃないか、みたいな事を言ってたんです)思っている根底の事は大して変わらないのに。
別に昔の自分の言ってる事は正しいと思うし、それを否定はしない、でも今は書けない。マジで何?今の私にとっての赤裸々って。同居人とのセックスは相性悪いから好きじゃないとかそゆこと書けばみんな喜ぶの?!とか思ってしまうのである。そんなに同居人とのセックスに思い入れもないけど仲良いよ。それが何か?


などと半休を取って巣鴨の喫茶店で久々に文章を起こす。半休がただの生理休暇に終わったらどうしようと思ったけど、意外と身体が持ってくれた。多分会社に居たら退屈過ぎて余計死んでただろう。文章を書く時間が有益であったかどうかはわかんないが。

ああ。もう17時だよ。

※後から少し携帯で書き足しました。

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