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望むもの

自分のやりたい事や叶えたいものって何だろう?って考えたとき。自分のやりたい事や叶えたいものを実現する為に、一番働きかけることが出来る存在は、自分しかいない。

私は、●●をやってください!(キャパオーバーな作業を他者に頼むとかでは無い)って誰かに懇願するって事が嫌いだ。

まるで、自分が喧嘩に負けて第三者に、自分を負かした相手を倒す様に懇願するみたいで、何とも情けないからだ。

それは、自分の勝負事から逃げて、自分では戦わず、誰かにすがる無力な自分に甘んじて、自らが傷付き、成長し、前に進むことを放棄しているのだから。

自らの思いを実現することが可能なのは、自らの強い意思と、その強い意思がある故に、行動することによって、自らの思いを実現するのであって。自らが望むものは、誰かが叶えたりすることは無い。現在の日本に住む皆が抱えている民意も、結局は自らが動かない限りは、永遠に変わることは無い。自らが傷付いてでも、次に託すことが出来ない様な臆病風に吹かれ続けている様な存在であるなら、明るい未来や夢を持つといった事をすること自体が無意味であると思う。

自分の望む未来って何ですか?それは都合よく、
誰かが叶えてくれるものでしょうか?

自分の所属する団体が、いくら名が通っていようと、あなたの名が通ってなければ、あなたは無名でしかない。友人が特殊な技能を持とうが、あなたに技能がなければ、ただそれだけだ。
この日本の悲しい所として、私が思う事が、ほとんどが金魚のフンの様な生き方を望むことである。しかし、本当に自らは、その様な生き方を選択しないといけないほど無力なのか?
いや、違う…。考えることを放棄し、自分が何をするべきか、どんな可能性を秘めてるか、傷付いても未来を変えるという気持ちが無いからだと思う。

他人にすがった所で、自分の望む未来は永遠にやってこない。

人間は結局は死ぬ。自分が死んだ後にまた生を実感することなんて、私は無いと思う。だって、仮に輪廻転生があるとしても、来世で"自分である"など実感する事は無いからだ。気休め程度の意味を持たない言葉や空想で、人間は豊かにならないと私は思います。

「死について思考することは出来ない。思考出来ないことについて語るべきでない。」これはウィトゲンシュタインの言葉であります。まあ、死んだら思考出来ない。つまり、認識出来ないから、思考出来ないって事でしょうがね。死の後は考えることは出来ないって誰だって理解出来る自明な事ですよね。

ならば、今について沢山考え行動し、未来に託す方が有益だと思うのですよ。

書きたいことをパパッ!て書いたので、まとまってなくて長くなりましたが、「あなたの望むことは何ですか?それを叶える為には何が必要か?」とか、そんな事を伝えたくて書きました。

今までなんですが。何故、虚像でしかないものに恐れて、戦うことを恐れたり、他人に依存し、他人の価値観に同調し、同じもの同士で徒党を組んで、それがあたかも正しいように振る舞ったり、自らの力では一切戦わず、ブランドで自分を飾ることで自分が偉くなったと意味の無い勘違いをする人達を見て、色々感じたからです。

彼等彼女等は、それ以上それ以下でもないから、自分には何が出来、何を考えることが出来るのだろうか?って、色々思います。

ではノシ

ーーーー終わりーーーー