見出し画像

「ただいま」と

ドアを開けると、リビングの扉を開けて桃花が出迎えた。同棲した記念に作ってあげたエプロンを着けている。
「お疲れ様。カバン預かるね」
桃花は直輝からカバンを受け取ろうと手を差し出した。直輝は無言でカバンを渡す。伸ばす手は重く、動かすのでやっとだ。
靴を脱いで玄関マットを踏んだ時、親しみのある香りが直輝の鼻に届いた。
「味噌汁、あるんだね」
「うん。今日はナオくんの好きな物をたくさん作ったよ」
桃花が張り切った顔で微笑む。直輝も揃えて微笑もうとするが、上手く頬が緩まない。
くたびれたスーツ姿のまま、直輝はエプロンの桃花を見つめていた。最愛の桃花の健気な姿と柔らかい瞳は、疲労に染まり果てた心身に届くものがあった。
「ん?どうかしたの?」
不思議に思った桃花が訊く。それに対して直輝は「なんでもない」と言う。けれどその顔は、何でもない顔とは遠かった。
「今日はお仕事、どうだった?」
それを聞かれ、直輝はドキッとした。聞かれるだろうと覚悟はしていたが、いざ聞かれると何と答えればいいのか見つからない。
「まぁ、普通だよ」
言葉に迷った直輝は、こんなありきたりなセリフしか出なかった。
そんな直輝の奥に隠れたものを、桃花は見逃さなかった。
「普通?何も無かったの?」
「え…、うん。なかったよ…」
取り繕うとしても上手くいかない。言葉が空振る度に、桃花の顔に曇りが現れる。
「大丈夫?何かあったの?」
核心をつかれた。直輝は何も言葉が出ずにいた。せっかく帰ってきたのに、暗い雰囲気にはしたくなかったから。
しばらくの沈黙の末、直輝は重たい口を開いた。
「少し、自信がなくなってさ」
「どうして?」
「毎日仕事をして、少しでも生活がよくなるように、僕なりに頑張ってた。でも、このころミスが重なったり、注意されることが増えてきてさ。改善しようとしてるんだけど、それも中々反映されなくて…」
ひとつ言葉が出ると、堰を切ったように溢れてくる本音。とめどなく溢れ落ちていく言葉たちは、一体どこへ行くのか。
「僕がひとつ覚えた頃には、周りの同僚たちはさらにもうひとつ覚えてる。そう考えるとさ…、僕ってこのままで良いのかなって…、桃花に…、申し訳なくて……」
セリフが終わった後に来たのは、冷たく頬を伝う無数の涙。口に入り、寂しさの味で口腔を染める。
桃花は静かに耳を傾けていた。
そして泣き出した直輝に、そっと寄って両腕を肩に回した。
「いつも、本当にありがとう」
甘い匂いと柔らかい身体、しかし強く締め付ける腕に、直輝は目を開けた。
「私は嬉しいよ。こんなに私のために頑張ってくれてることが。本当に嬉しいよ。でも無理をしちゃだめ。それで身体や心が疲れちゃったら、元も子もないからね」
言葉が贈られる。ひとつひとつの言葉に、ふるふると震え、涙腺に響く。涙は線を描き、桃花の肩を濡らした。
「ごめん…」
「いいよ。泣きたい時にはいくらでも。ナオくんはいつも、ひとりで闘ってるんだもん。泣くことは悪いことじゃないよ」
そう言って桃花は、直輝の背中をぽんぽんと優しく叩く。子供を宥めるようなその手つきは、直輝の心に落ち着きと体温を与えた。
直輝は目を閉じ、桃花に震える声で問いかけた。
「僕は、桃花を幸せに出来てるのかな…」
それを聞いて、桃花はさらに抱き締め、何度も頷く。
「もちろんだよ。私は凄く幸せ。ナオくんが私を大切にしてくれてるから。だからこそ、ナオくんには自分も大切にして欲しいな」
桃花は直輝の頭を撫でる。直輝の肩から力が抜け、ぐったりと重心が桃花に寄る。
「ごめん、重いよね…」
「大丈夫。もたれていいよ」
直輝の胸には、同じテンポで鳴っている音が伝わっていた。その音は鼓膜に伝わり、直輝の呼吸をゆっくり深く、落ち着かせた。
それから二人は、その身を寄せあい、体温を共有していた。強ばっていた直輝の身体から力が抜け、眠るように息を吐いた。
「ありがとう」
「うん。元気出た?」
「うん」
それを聞いた桃花が、再び直輝の頭を撫でる。
「私は、いつもここにいるから。どこかに行く時は、ナオくんも連れていくから。大丈夫だよ」
その声は、直輝の脳裏に母との記憶を蘇らせた。桃花の慈悲が、母にもらった慈悲と重なったのだ。
「ごめんね。弱音なんて言っちゃって」
「もう、謝らないで。さ、ご飯食べよ。今日は伝えたいことがあるから」
「そうだね」
泣き濡れた頬を拭いながら、桃花と直輝は立ち上がった。直輝の目には、桃花が少し、大きく映った。
「あ、言い忘れてた」
食卓に向かおうとする桃花を、一度直輝は呼び止めた。
「ん?どうしたの?」
桃花の声に、直輝が口を開く。
「ただいま」
「おかえり」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?