人権の価値

先日 Xでのやりとりで(=Twitterと書きたい衝動にかられるねえ) AIが進歩して十分な知的処理が可能な時が来た時、人と何が違うのか という趣旨の投稿をされているところに私は「意思ではないか」と返信を書いた。つまり私たちがコンピュータの「人権」を認めた、時人とコンピュータの差はなくなると思ってそう書いたのだ。

その時ふと、黒人奴隷の解放に関して思い浮かんだ。相手に人権を認めることは、自分たちが特別で無いことを認めることに等しい。弱い自尊心しか持ち得ない多くの人には、やはりそれは受け入れ難いことなのだ。これは会社上層部と一般社員、普通の子といじめられっ子の関係でも同じなのだとも思う。

うちの子は無類の「王将好き」で、食事の機会があれば、「しょーしょー、しょーしょー」 と言って行きたがる。 

そうして連れて行った翌日保育園に送っていくと、クラスルームに入ると真っ先に駆け出して、仲のいい子に、「昨日しょーしょー行った!」と第一声話し出すのを見た。 我が子がいつの間にかコミュニケーションの枠に入ってることに成長を感じると同時にこんなことも考えた。

結局親は枠組みを与えるだけで、彼の心を動かして成長させていくものは、こういう友達の言葉態度なのだと。

だとすれば彼にとって、その人生経験において、人に「何の条件でも無い、受け入れ、愛された経験」というのがどれほど重要かということが身にすまされる。

親以上にこうしたコミュニティの中でその経験を積むのはとても大事なことだと思った。

よく自己肯定感なんて話をする。私自身も自分がそこにいるためには、自分が役に立たねばと躍起な気持ちになってきた人間だ。けれどそこで仮に卓越できえたとしても、本来望む調和とはどんどん遠いところにいくだけだ。そんなことを思い起こさせてくれる。

人権の項が憲法にある。様々な規定があるが、25条が一番重く感じる。

1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

その人のありよう、能力に左右されず生きる権利を保障するということ。

かなり前にやっていたドキュメンタリーの一節は今も強く心をとらえる。

福祉を志した若者が精神を患った施設で実習を行う。どんな理想に燃える人でも、人の素晴らしさみたいなものに気づけなくて、そこで絶望するという話。

でもある指導者は、学生が気づくことにフォーカスを当てる。そこで生活される方が食事をとるとき、「パン、パーン」 と手を打つのをみて、「あ、あの人生きてる」と気づく。

25条がそれと存在して、世の中に受け入れられることが、どれだけ社会としての幸せを作り出しているか、なぜ人権が大事かということをここで述べたいと思う。

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