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楽しむことは思考することにつながるということである

タイトルは國分功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」の一節。

この本には決断主義の危うさが書いてある。

決断した人間はどうなるか?彼はある内容を選び取り、決断した。決断したのだから、その決断した内容をただただ遂行していかねばならない。決断は決断された内容への従属をもとめる。決断を下した者は、決断の内容に何としてでも従わなければならない。そうでなければ決断ではない。簡単に破棄できるなら決断とは言えない。したがって、先に述べた通り、決断したものは決断された内容の奴隷になる。

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」

決断主義の危うさについて初めて教えてもらったのは千葉雅也さんの「勉強の哲学」。

決断は、実はアイロニーを徹底した場合に起こる。アイロニーでは、絶対的な根拠を求める。そしてそれに永遠に到達できないのでした。何かを選ぶにあたり、アイロニカルな態度を突き詰めるならば、究極の、真にベストな選択をしたいことになる。絶対的に信頼できる人を選びたいということになる。ですが、比較にベストな解はありません。絶対に根拠づけられた選択はありえない。そこにある転機が訪れるー。
 
絶対的な根拠を求め続けていて、到達できない……この無限に先延ばしされた状態を、一点に瞬間的に圧縮し、絶対的な無根拠への直面にしてしまう。そして、「絶対的な無根拠こそが、むしろ、絶対的な根拠なのだ」という逆転現象が起こる。
 
(中略)
 
実際的に言えば、これは要するに、「決めたんだから決めたんだ、決めたんだからそれに従うんだ」という形で、まあ「気合い」で、ただたんに決めるのだということです。

千葉雅也「勉強の哲学」

ここでタイトルのメッセージに戻る。

人は決断して奴隷状態に陥るなら、思考を強制するものを受け取れない。しかし、退屈を時折感じつつも、物を享受する生活のなかでは、そうしたものを受け取る余裕をもつ。これは次のことを意味する。楽しむことは思考することにつながるということである。なぜなら、楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることであるからだ。人は楽しみを知っている時、思考に対して開かれている。しかも、楽しむためには訓練が必要なのだった。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。これは、思考を強制するものを受け取る訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」

絶対的な正解を求める恐れに駆動され、アイロニーを中断できなくなると本当の意味で「本気」になれない。

好奇心・探究心がアイロニカルな方向に行きすぎると思考が深まらない。幸せも感じられず生きづらくなっていく。


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