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#3(株)ドンドンアップ 代表取締まられ役 僕の話

#3 (株)ドンドンアップ 代表取締まられ役 僕の話

今日も今日とて一回地獄🥶その後天国へ😇

倒産1000本ノック? 月1億円の資金ショートの10年間をいかにサバイブしたか?

第3章。今回のnoteは、ヤバい経営者代表 自分の事について書きます😅

プロローグ、目次、からのようやく第三章 少しずつ周りの人にも読まれ始めてきて特に本社のある岩手県盛岡市では若干バズってるようです

本当に喜んでもいいのでしょうか?😅

この執筆がドンドンアップの また僕自身の人生をどう変えるのかまだ全く先が見えない😵

全開リスケ中の銀行の人達やこれまで投資してくれた会社さん、ご迷惑をかけているお取引先さんも読んでるみたいだし🙇

当然、色んな重要案件も進んでる。

初対面の人にはツイッターやFBのQRがついている名刺渡してるし、メールのフッターにはこのnoteのURLも載せてある🥶

特定の個人や会社を誹謗中傷する意図は全くないのですがそれでも誰かが気を悪くされる可能性もなくもない。

でもファーストペンギンで僕が生贄になって、その経過を読者の皆さんが見て
「オッ 素っ裸 作戦イケるんか?」
ってことを検証していただければ幸いです🤪

ただチョー絶うれしいことに無料で公開しているこのnoteで投げ銭サポートで10500円も頂いて本当に感謝感激です🙏🙏🙏


でもどうですか? 読者の皆さんはイメージできるでしょうかこの感じ?
継続中のチョーヤバい日々の出来事をさらけ出す感じ?

吉と出るか凶と出るか?
フー ゾクゾクします😅

でもまースーパー天然ポジティブ思考でドMな僕はマアマア?イヤ吉が出るって確信してるんですが。。。

ドンドンダウンの話や事業の話、失敗談はまだしも自分自身の事を書くのはそれ以上に抵抗があるのですが一応🈲

「なんでその状況に10年も耐えられるんですか?」とか

「どうやってドンドンダウンという古着屋の仕組みを思いついたんですか?」ってすごく聞かれるので書くことにしました。

だって一言で説明できるようなものではないし、もし一言で言い表さなければならないとしたら

「30年間コケ倒した結果全てが繋がってドンドンダウンとドMな自分が出来上がったんです」としか言いようがないので

だいぶ「過去の武勇伝や自慢話っぽく聞こえる話」も入ってくるので耳障りな方は第4章まで飛ばしてくださいませ。

いよいよ第4章から「コケ倒し5選」究極の自虐ネタ投下が始まるので😱**

小学校の時から虫取りや釣りが好きだった。(今も)

なにも取り柄という取り柄は、なかった。

勉強は、出来なかったし、スポーツも並

ずっと小学校3年から高校卒業までやってた剣道もたいした成績も残すこともなく

唯一のとりえは、体が小学校から中学卒業するまで学年で
一番柔らかかったぐらいのこと

小学校の時は、小太りでひょうきんでは、あったので人気?は、あるほうだったと思う。

チョッと他の人と違ったのは引っ越しの多さ。

もう亡くなった親父の仕事の関係で引っ越しが多く、東京府中で生まれて、山口県の徳山市に引っ越して、それから広島県の福山に行って最後に東京に帰ってきた。

その後もアメリカに6年いたので生まれてから「6年以上同じ所に連続して住んだことが無い」ので子供の時は友達と別れたりさみしい想いもしたし😭

やっぱ子供って残酷だから転向したての頃は「方言で」からかわれたり結構キツイタイミングもあったけど今思うと「新しい環境に適応する能力」はそこで結構磨かれたのではないかと

親父の倒産

子供心に「ヤバー」と思ったのは建築会社をやっていた親父の「会社の倒産」と「夜逃げ」😱😱

まだ小学生3年だったから他の事はあまり覚えてないけどそのことは今も鮮明に覚えてる
ホントに文字とおりの「夜逃げ」だったから。

なんか平日の日中から家の中がザワザワ、遠くから親戚が何人かやってきて総出で引っ越しの準備。

夜中にサッと家財道具詰め込んでそのまま他県に
小学校3年生の学期の途中だったし友達に別れを告げることもできず(泣)

その時の夜中の車中の雰囲気は今もボヤッと覚えています😢

たぶん当時の「破産」とかって今とは法律も状況も全然違っていて だいぶエグイ感じだったんじゃないかと思います。

親から「言ってはいけない事項」を説明されたり、母親が学校の先生に何やら口止めしているのを見たり。

とりあえず子供心に「なんか とてもヤベーことが起きてる」ってのは、まともに感じました。

なんかこれがどれだけ自分の人生に影響したかわからないけどやっぱ今の
自分の存在の原体験としてはなんか関係がある気がします。

でもだんだん親父の背中を見て育って成長していく中で
「親父しんどかったんだろうなー」とか
「こけたけどスゲーなー」って

その後はバブルもあって大手ゼネコンの第一下請けの偉いさんで復活して
いい時もあったようだからまあいいんじゃないかと👍

んでもやっぱり事業してただけあって親父が寝たきりになって、そして亡くなる直前まで他の事は特に話さない親父だけど僕が来ると必ず毎回
「アキ 商売はどうや?」
って言っていたのを思い出します🙇

中学では、ますます勉強がきらいになって成績もスゲー悪くなって
やさぐれたりしたことは、全然なかったけど
(不良)にも人並みにあこがれ、中途半端につぱってみたりもした
スクールウォーズ全盛だったころだから(時代のせい)😎

でも、中二の後半ぐらいから
(あれ?なんかおかしいぞ、このままでは、高校もあやういかも)
なんて思った⚠️

そんで、気持ち入れ変えて自分なりにがんばって勉強した。

何とか日大の付属の高校に受かった。

高校で(ある本)に出会って僕の中でなんか変化が起きた。

その本にどういう経緯で出会ったか忘れたけれど** **「竜馬がいく」という
幕末の志士(坂本竜馬)の本を授業中読みまくった。

あまりにもメジャーすぎて公言するのは少し憚られるんだけど

単純な僕は影響を受けまくった😍
(今でも毎年一回は高知の桂浜の龍馬さんに会いに行くぐらい)

まあ今となっては諸説あって真実のフォローアップはしてないんだけど明治維新の立役者で(薩長同盟)を終結するためにもっとも活躍した人ですよね?

また、(海援隊)というものを志し武士(浪人)でありながら(貿易商社)
を起こした。

この(世界の海援隊)に強烈にやられた。

若い時 読んだ人はわかりますよね?
やられるんですよ若い時は特に 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」
今で言う幻冬舎の #箕輪さん
「 # 死ぬこと以外はかすり傷 」とか
#OWNDAYS田中社長「 # 破天荒フェニックス 」とか
#SHOWROOMの前田社長「 # 人生の勝算 」
とか

若い時に読んだら完全にやられちゃいますよね?

「まあ僕もやられちゃってますけど。。。」

そしてもう一冊ヤられた本
ここ最近は、よくテレビでも見かけるようになってすっかり大スターの # 落合陽一 さんの著書も大好きですが、当日高校生だった僕のヒーローは、実は、偶然にも 落合陽一さんのお父さん 落合信彦 さんでした。

「アメリカよ! あめりかよ!」という落合信彦さんの自伝

それこそ僕なんかより数十年昔に船でアメリカに渡ってからのサクセスストーリーなんですが、今でこそ少しアメリカンマッチョな感じもしなくもないですが当時の高校生には、スゲー刺激的で完全にノックアウトされました💪

「竜馬がいく」
「アメリカよ!あめりかよ!」
この2冊の本の影響で僕の価値観の中に(世界をまたに駆けて活躍する)という事がものすごくカッコイイ
ソートー イケてるという感覚が強烈に根付いた。

勉強は(試験の時だけ)スゲーがんばった。

ただ、人間そんなにスーパーにいきなり変われることなく、相変わらず中途半端な高校生活を送っていた。

そんな時僕はバイクにはまった。

バイトにあけくれ、高校生の時にコンビニの深夜アルバイトをしこたまやり
(そういうのをあまり気にしない風土がまだあった)

カワサキGPZ400FⅡというバイクを買った。


冬と春休みは、親父の仕事の関係もあって建築現場で土方をやりまくって
お金を稼ぎ、夏休みは、バイクで50日ぐらい野宿しながらのツーリングにでて日本中回った。

二学期に入っても学校に盲腸で入院したといって帰ってこなかった🤪

こんな事を高校二年も三年も繰り返し結果的に僕の「旅狂い」の始まりになった。

この旅の途中にとにかくアメリカに行きたいと強く思うようになった。

このころ相変わらず中途半端な僕が思っていたことは、
(俺には、才能がない、運動も勉強もたいしたことないし、頭の回転も
悪いから、特別面白いトークも出来ないし、でも女の子には、もてたいし
自分の存在価値も示したい)

そんな僕ができること?

(人がやらないことをやること)と考えた。

ガキで、独りよがりで、バカな僕は、周りの連中に

(スゲー人になりたかったら戦場に飛び込んで写真とればいい)とか

(コロンビアの麻薬組織に潜入して写真とればいい)

(要するにそれは、やるか、やらないかだよ)

なんて、のたまいていた。

ツーリングをして(旅)の話を面白おかしく みんなに話すとスゲー
うらやましがられたし 一時でも人気物になれた。

当時は、今みたいに高校の時から彼女がみんないるとかあんまりなかったし
尾崎豊が猛烈にはやっているような時代背景だったから、今みたいにネットもスマホもないしみんな悶々としていたから、僕が当時してたことは、
みんなすごくうらましがってた。

これが僕を調子にのせた😵

才能がなくてもやれば出来ることで人がやらないことをやればウケルって
こと

アメリカ

また、坂本竜馬の世界の海援隊に強烈にあこがれていたことと合致して
アメリカに渡る結果となった。

19歳になるチョト前のことだった。

大学受験に失敗したあと専門学校に一瞬行きこれも三ヶ月で挫折
バイクのレースにはまり、すごい狭い世界では、あるんだけどいい成績が
でた。

そんで、調子にのってアメリカに渡ってバイクのレサーになるなどとキチガイじみた事を言い出した。

そんな時に僕のおじさん(親戚の中でもソートー不評で不良な叔父さん)
(昭史、だったら俺の奥さんの妹がアメリカ住んでるから紹介してやる)
と言われた。

すぐ、飛びついた

この僕のおじさんの奥さんは、ベトナム人
当然、妹さんもベトナム人

当時は、今みたいに気軽にアメリカに行けるような時代じゃなくて
飛行機代なんかも当時の一番安いディスカウントチケットで、大韓航空
(韓国、アラスカ、経由 21時間かけてロサンジェルス着、)
38万円もした。

お金ないから、またしても建築現場で土方をやってお金作った。
当時は、景気が良かったから仕事もたいして出来ない小僧の僕でも 
身体は、シンドかったものの月に40万ぐらいは、稼げた。

僕んちは、そんなに裕福なうちじゃなかったので、はなから親にお金を出してもらおうなんて考えは、なかったのだが やっぱり親は、親

結果的には、かなりの援助をしてもらった。

友達がたくさん成田空港に来てくれて 万歳三唱をしてくれた。
(今じゃ、アメリカ行きなんて当たり前すぎてこんなことないと思うけど)

渡米

目的地、僕のおじさんの奥さんの妹さんの住んでいるところは、
バージニア州ノーフォーク アメリカ東海岸だ。

僕のもってる飛行機のチケットは、アメリカ西海岸のロサンジェルスまで
そこから、目的地のバージニアまで6800キロ😱

お金節約の為(グレイハウンド)というアメリカの長距離バスで向かった。

当時このバス、もし英語が話せて行き方がわかっていても ほぼ、乗りっぱなしで西海岸から東海岸まで丸4日ほどかかる。

でも、僕は、英語がまったく話せない😱
マジで「ハロー」がギリギリレベル

しかも、若いし 怖いもの知らずで 事前の下調べも ほとんどなく行ったものだから あっちこっちで乗り継ぎを間違って、三日でいけるものを2週間かかって目的地バージニアにたどりついいた。

スマホもネットも なにもない時の海外は、やっぱハードルは高く 今で こそアメリカは、住み慣れて危険を察知さえすればべつだん どってことないけど当事を振返ると僕のあまりの脇の甘さに(ぞっと)する🥶

バージニアのノーフォーク、アメリカの海軍の基地として知られている
また、かの有名なポーツマス条約が締結されたところの隣の街だ。

ここから、僕の唯一の頼り 親戚のベトナム人のおばさん探しが始まる。

英会話ブックを片手に片言ともいえないような英語で何とか探しあてた。

白い結構ぼろい家だったように思う。

チャイムをならしたら白髪のきたないジイサン(失礼)が出てきた
「風貌は、ロッケンロー 今の内○祐○さんみたい」

僕が、とにかく そのおばさんの名前を連呼すると なぜかそのじいさんが
突然、怒り出した
🤬

ナニ言われているかさっぱりわかんない

ただ、よくよく聞いてみると俺のたよりにしているおばさんは、そのおじいさんの「息子の嫁」だったらしく、そのおばさんが いかに悪い女だったかってことを全く英語のわからない僕にとうとうと訴えて 結局のところ離婚して出て行ったっという感じの話だった(たぶん)

大ショック!

ここから僕のアメリカ生活は、始まった。

たよりにしていた人は、いなくなっていた

英語も話せない

住む家もない

お金もチョッとしかない

仕事もない

でも、日本に帰ることは、出来なかった。

友達みんなに大見得きって出かけたし、空港で万歳三唱してもらったし、 カッコ悪すぎて戻れなかった。

安いモーテルにとりあえず、なにをするわけでもなく3週間泊まった。

お金ないのですごい節約は、してたのだけど たまに、モーテルの向かいの
中華レストランに飯を食べに行った。

チャイナガーデン

(チャイナガーデン)という名前の大きなチャイニーズレストラン

ある日、そこの会計のところに(Help Wanted)というポスターが貼って
あった。

仕事の募集だと直感的にわかった。

すぐに、やりたいと申し出たら、訳のわからないうちに採用された。

バスボーイという仕事だ。
フロアの掃除から始まり皿洗い、フロアのテーブルセット、閉店後の便所掃除、朝9時から夜中2時まで、休憩一時間半、週休半日と言う毎日が始まった。

これで日当が25ドル(日本円で3000円相当)だった。

その後も しばらくモーテルに住んでいたのだが中国人の社長が自分のお母さんの家の手入れをするという条件付、月150ドルで そのバーちゃん家の一室に住むことになった。

そのバーちゃん年寄りだから、朝早いし、細かいし、仕事前から
あれやれ、これやれと まー色々と朝っぱらから こき使ってくれた。

その上、週に「半日」しかない 休みも家にいると社長に呼び出されて自分のうちの掃除しろだ、プールにブラシかけろとまさに(奴隷)生活だった😱

でも、良かったのは、毎日、職場でただ飯が食えること👍

中華だからうまいし、いつでも食えるしこれは、本当に助かった。
結局3年間は、アメリカにいるにも関わらずほぼ中華しか食べない生活だった。

でもねーきつかったよこの期間は・・
アメリカに家族で移住してきて一代でレストランチェーンを築いた本当のたたき上げ社長だったから、全てがありえないぐらいえぐかった。
今は全然感謝しかないけど🤞

最終的にあんまりに自由がきかなかったので結局社長のお母さんのお家を出て次は勤めてた 中華レストランの寮に転がり込んだ。

ここの経験は本当に今の僕の一生の宝になった。

僕が勤めていたチャイナガーデン 田舎だけど かなり大きなレストランで従業員も100人以上いた。

実は中華料理店なのに働いてる中国人は全体の2割くらいで残りは、ベトナム人、カンボジア人、フィリピン人、ネパール人、タイ人、インドネシア人、サウジアラビア人 etc  
なんとなくオリエンタル ルッキングな人が働いていました。

そして寮に転がり込みこの マイノリティーの集団と職場も寝食も共に過ごしました。

寮と言っても平屋のクソおんぼろの建物でここに10を超えるナショナリティーの奴らが一緒に生活をしてた。

でも、なんだかんだで彼らは同じ人種 数名以上でグループができていて、なんとなく派閥もありました。でも日本人は僕一人 居場所もないので彼らの部屋をグルグルグルグル

派閥のない僕は、色んなナショナリティーの連中の部屋を毎晩のように渡り歩き、お酒飲んでヘタクソな英語で色んなトピックスについて語り合いました。

この経験のおかげでリアルな人種別の パーソナリティー、ナショナリティーを感じることができ、実は今それが僕の海外ビジネスの大きな糧になり
一生の宝になりました
🙏 (ホントに役に立ってんですよねー)

そんでバイク

初めから買うつもりでその分 土チンでためてアメリカにきたので
仕事決まってからすぐに買った
かっこよかったねーKAWASAKI KZ650

なんにも具体的に考えてなかったくせに一応バイクのレーサーになるなんて思ってたから練習は、朝や休憩時間、暇さえあれば練習したな

でも、一年で挫折

とにかくこけまくって修理代がもたなかった。
最終的にアメリカ一台目のバイクは、一年で廃車・・・
その時、現実に負けた😭

アメリカに来て三ヶ月ぐらいしてからかな、タダ同然で行くことが出来る
移民専用の英語の学校があるって聞いて そこにいけるようになった。

社長は、しぶしぶだったけど

英語の勉強は、アホなりに頑張った、あまりにも仕事がつらかったし、一刻も早くウエイターに出世して地獄から抜け出したかったから

英語には、本当に苦労した(やっぱ学生時勉強して単語力あるやつ成長早い)

なんたってアメリカって国は、(移民)が当たり前の国だから英語は、話せてあたりまえ、お客さん扱いしてくれることなんてない。

しかも、観光じゃなくて仕事してんだから・・

仕事には、やはりたくさんの人の利害関係や感情が絡むからどこに行ってもいっしょ

英語が話せないから言いたいこともいえない

あらぬことで言いがかりつけられたり、ものすごい理不尽なこと言われても弁解することも、反論することもできなかった。

これね、ほんとにくやしい😤

無理やり気持ちを表現すると(のど)からパンチだしたいくらい・・・😤😤😤

少し、気も狂ったな😵

アメリカ行く前に絶対に日本語話さないと決めていったから

よく、叫んだりしてた

だから、英語は、がんばった。

一年後には、ウエイターになれるぐらいまでには、話せるようになった。

いったんビザの関係で日本に帰国

ホントうれしかった、なんというか(おれは、この世で一番ハッピーで最高に楽しい人生を送っている人は、いない)なんて本気で思ってたぐらいだったので🤣

まさにサウナと水風呂の快感

この頃の環境のありえないぐらいの落差のおかげで
僕の今のスーパードM体質が出来たと思う。

でも、元来働き者の僕は、すぐに建築現場にいって2ヶ月仕事して、
お金稼いだ。

そしてまた、渡米

この時は、バージニアのコミニティーカレッジに入った。

2年間通った。

アメリカ三年目ぐらいからやっと余裕がでてきたかな。

ウエイターにもなって月に1000ドルほどは、稼げるようになったし、
最終的には、マネージャーにもなった。

車も買ったし、遊ぶのも面白くなってきた。
学校も楽しかったし

起業

同時にようやく(人生について)考えるようになった。

全くアカデミックではない僕でもなぜか本だけはめちゃくちゃ読みました。

周りに日本語の本 売っていないので(当時ネットも無いし)ニューヨークに車で8時間かけて行って日本の本屋さんでいっぺんに50冊ぐらい買ったりして店員に驚かれてた。

そして、フリーマーケットで商売を始めた。

月に二回ぐらい車でニューヨークの問屋街に行って(子供のはやりグッズ)を仕入れてきてフリーマーケットで売った。
まさに「子供ダマシ🤪」
これが、結構売れて(って言っても一回100ドル程度だった)

気をよくした僕は、日本からも(歌舞伎Tシャツ)なんかを送ってもらい売ったりもした。

またこれもよく売れた㊗️

このバージニアのノーフォークってとこは、人口の大半が何らかの形でアメリカ海軍と係わっている人が多く、アメリカの基地がある日本に駐在してた人がたくさんいたから
(OH! KABUKI!)なんて言いながらよく買ってくれた(一枚35ドルもしたのに・・)

商売って面白いなって こん時 思ったのが全ての始まりだった気がする。

その頃の生活は、大学行って、ウエイターやって、フリーマーケット
やって、さらに、週に3日ほど(ウィンタイ トレーディング))という
中国人の経営する(貿易会社)で働くことになった。

これが高校生の時に感動した坂本竜馬の(世界の海援隊)とバチッと噛み合った。

(トレーディング)って言葉の響きがなぜかすごくカッコイーっと感じた

こん時に全て決まった

(僕は、世界の貿易商社になる)って思った。

今、考えればアホだなー ガキの誇大妄想だなー と思いますがその時は、少なくとも本気だった😤

(ウィンタイ トレーディング))では、いろいろな面白い体験をさせてもらった。

ニューヨークの国際展示場で「卸売りのブース」出したり、中国雑貨の小売直営店立ち上げたり、とにかく全部が新鮮だったし勉強になった。

でも、現実は、21歳ぐらいの若造、お金もないし、なにしていいかわからないし妄想ばかりが膨らんでた。

アメリカでは、日本とは、比較にならないぐらい中古品を使うことが一般的で、フリーマーケットやガレージセール、ヤードセール、リサイクルショップがところかしこにあった。

もちろんお金のない僕は、可能な限り全ての生活用品をリサイクル品でそろえた。
古着、家具、家電はもちろん 枕や布団、食器まで本当にすべて

また、フリーマーケットでお小遣いかせぎをしていたのでこれもなじみが
深かった。

昔からアメリカへの憧れも強かったし、アメリカ人は、見向きもしないボロボロの服やジャンクも僕の目には、すごくかっこよく見えた😍

少しづつビンテージの服やアンティークの置物や看板、ジッポのライターなんかを集め始めた。

ここで、やってきたことがつながり始めた。

もしかして これ日本で売れるかも?

それで、僕の幼馴染に電話して相談してみたら

「いける、いける、古着も日本ではやってるよ」
と言われ
「じゃービンテージ古着屋一緒にやろう!」
ってな感じでこの 電話がウチの原点になりました。

カッ、カルイ!

でも、ここで全てがつながった、アメリカ、フリーマーケット、古着、輸出、商売、自分の将来

小さいながらも(世界の古着貿易商社?)が始まった

唯一の後悔は大学卒業できてたらなーってこと😢

その後、ビックショット、インディアンリバーロードというショップ名で最初はアメリカのビンテージ古着屋、ジャンクな雑貨のお店を始めました。

当時、バブルが終わりかけの頃、まだまだ景気がよく、また爆発的なビンテージ古着ブームが始まる直前期 

とにかくアメリカで仕入れてきたものは売れに売れた。
高校生ですら数万円するビンテージジーンズをバンバン買って行った。
また、景気がいいこともあって若くて頭悪くて勢いだけのうちの会社に金融機関がドンドン融資をしてくれたおかげでお店はドンドン増えて行った。

その当時お店は幼馴染で共同代表してた友達に任せて僕はもっぱらアメリカ中を回ってビンテージを集めた。

ラグ屋と呼ばれる古着商社を回って朝から晩まで古着のピックをしたり、
フリーマーケット回ったり、最悪の治安だった NYハーレム街 のスニーカーショップを回ったりと デッカイワゴン車 で 野宿や モーテル暮らしで
それこそ ほぼ365日休みなく朝から夜中まで古着を集めたおした。

そんな生活を3年ぐらい続けたけど仲間を連れて 朝から晩まで 365日  全米を回り続けるなんて (楽しかったけど) 狂った生活も限界を迎えてきた😱

古着商社

そこで考えたのが「古着商社」
元々、アメリカ中にあったラグ屋と呼ばれる古着商社。全米から古着を集め何百というアイテムカテゴリーに仕分けしたものを世界中から来るオーダーによって出荷する会社だ。

大きいところはそれこそ「甲子園球場●●個」ぐらいの大きさでそこに数百人の外国人労働者働いている。場所によって人種は違うけれど多くはスパニシュ、メキシカン、マイノリティーな外国人だった。

これまでこういった古着商社から仕入をすることが多かったけど そもそも坂本竜馬さん信望者で外国かぶれの僕はそこで「世界の海援隊」って妄想に憑依された。

アメリカ中で古着を集め、ビンテージ古着は日本へ出荷して その他の古着は、メキシコ、南米、東南アジア、中東、アフリカなどに輸出するって言うビジネスだ。

オーこのビジネスモデルマジでヤバい!仕事で趣味の海外にバンバン行けそうだし、本業のビンテージ古着からぶれていないし、よそから買って日本に送るよりも自分とこで直接集めて売った方が利幅が圧倒的に高い」

「うーん聞こえはいいんだけど ビジネスそんなに甘くない」
後々気づいた事でした
😱😱😱

メリーランド州ボルチモアで始めた「古着海援隊」
これはヤバかった。

当時ボルチモアは、って言うか今も?常に全米で治安ワースト5に入るところだった💣💣💣

サイズが大きい倉庫で 労働者が集まるところは、ダウンタウンはずれの  スラムの隣接している所ぐらいしかなく だいぶビビりながらも若くてアホな僕は強硬した。

当然、働き手は全員スラムのアフリカンアメリカンの人達
別に僕自身は、全く人種差別もないし国籍や肌の色で云々なんてことは一切ないけれど  なにせデカイし 筋肉ムキムキだし とりあえずフィジカルに怖いもんは怖い🥶🥶🥶

結果、ほとんどの奴らはイイ奴らだったし、古着の仕分けをやってくれる  おばさん達は、やさしくって、よく南部系の黒人の家庭料理のお弁当を分けてもらったりして10人ぐらいの所帯で和気あいあいやっていた。

んが やっぱり事件は起こる! しかも日本では絶対にありえんレベルの奴が

正直ここで全部書くとそれだけで本一冊になるぐらいの事件はあった。
強盗にも何度も入られた😱

朝、倉庫に行ったらシャッターが少し空いてて なんか様子がおかしい。
明けたら全部事務所が空っぽになっていた。OA機器は当然のことホウキさえもなくなっていた。

また違う時、面白かったのは倉庫の裏壁に小さな穴が開いていたので
「ん?おかしい」って思い しばらく気をつけて見てたのだけどその小さな穴が日に日に大きくなっていく。

明らかに誰かが夜な夜な来て何かで壁を削っているのだ。それで最後の最後そろそろ穴が開くなってところでコンクリートで埋めてやった🤪

なんか、そういうところ カワイクて「イヤー悔しかったんだろーな」なんて 今でも思い出すと笑ってしまう。

またある時、警察から電話がかかってきて
「おたくの従業員が薬と喧嘩で捕まってるんだけどボスはイイ人なので必ず保釈金を出してくれるって言ってるんだけど実際どうなんだ?」なんてのがあったり

傑作だったのは、うちの黒人の従業員マイケル。

デカくて 筋肉ムキムキで 見た目はかなり ヤバイ のだけど すごく優しいくて、面白い奴でとっても頼りにしていた。

30超えてるんだけど 若干天然ボケでおつむも少々弱かったけど 人が  イイ。

そのマイケルがある日僕のとこに来て
「ボス俺は独立するからやめさせてくれ」って言うから
「分かったチョッとさみしいけど頑張れよ!」って送り出してやったんだけど この「独立」がすごかった。

なんと会社のチェックブック(小切手)を拝借してすべて自分の私物の決済を僕のチェックでやっていた。

なんか支出が多いなっと思って明細を気にしてたら電気屋やらスニーカー屋やらでイッパイ買い物してる。
「スゲーうれしかったんだろーなー」ってチョッと笑っちゃたけど。。

さらには、どっかのタイミングで倉庫の合鍵を作ってたみたいで 夜な夜な 倉庫の在庫を他の人に転売してた。

これだけ聞けば ありがちの タダ の「悪い人」なんだけど 本人を呼んで 追求したらあっさり
「ゴメン ボス もう二度とやらない。でも俺はこのビ・ジ・ネ・スがなくなったら食っていけない。心を入れ替えて働くからもう一度雇ってくれ」って悲しそうな顔をして言うのだ。

その顔を見てなんかもう怒るって言うよりは笑いそうになってしまった。
なんかメンタリティーが子供みたいな感じで本当に憎めない奴だった🤣🤣🤣

おまけで言うと ある日、このマイケルが出勤してこないことがあって心配してると本人から電話がかかってきて「弟のヘンリーが刺された」 **Oh No ! **😱😱

まだまだ色々あるんだけど。。。

って感じで「古着の海援隊」は本当に苦労しっぱなしだった。

とにかくバカバカ仕入れてバカバカ売る。っと言うか全く仕入が追いつかない程 売れた!
古着バブルだったし事業計画なってあったもんじゃない。

若干23歳。どこの企業にも就職もしたことない 経営ド素人の僕らの会社だったけどそれこそ「若気の至り」なんか「俺才能あるのかも?」なんて 致命的な勘違いをして店舗を増やし続けたし当時は
一生それが続くって思ってた」

**当然そんな時代はずっと続くわけもなく

古着ブームは終わった**

ドンドンお店を閉店したりで残ったのは莫大な借金だけ😱😱😱

ゲエエー

がギリギリ倒産せず

その後もトレンドの波に翻弄されながら、新品のセレクトショップをやったり、アジア雑貨のお店もやったし、ブランドの委託屋もやった。

そんで、それこそ両指を超えるぐらいお店をだして、それ以上にお店をつぶした。

結局、ドンドンダウンって僕の人生の縮図みたいなもんです。

今まで、やってきた仕事一つ欠けても今のドンドンは、ないので。

新品の洋服屋

ビンテージ古着のブームが終わって潰れる瀬戸際 今度はアメリカからの新品衣料の平行輸入がブームになった
「フー セーフ」

同世代の人は、なじみがあるかも知れないけど ナイキのエアマックスとか爆発的に流行っていた頃の話
僕自身は当時やっぱりビンテージ古着から新品の洋服に変化していくことが結構つらくて(やっぱり人間て変化に弱い)

ただここで変化できなかったら確実につぶれたナー

インディアンリバーロード、イエローパラダイスガレージ って店名で東京
だけじゃなく福島、郡山、盛岡、金沢 なんかで展開してた。

一応セレクトショップって感じでやってましたが服屋は、服屋でもホントに服屋の常識では、考えられないようなバカバカしいイベントをたくさんやり倒して(結構周りのセレクトショップにはだいぶ嫌われてたことも)😭😭

真冬の盛岡の街の中を流れる北上川の橋の下🥶🥶🥶
吹雪の中、宝船に改造したボートに 福袋を大盛りにして「伝説の福袋」という旗を掲げ  大黒様に扮した僕が釣りをして 橋の上から僕を写メしたら 割引、もし僕が魚を釣った瞬間を 写メ したら福袋タダ みたいな企画をやって橋の上が僕の写真を撮るギャラリーで埋まったりした💪

その結果、雪の降る元旦の明け方から数百メートルの行列ができた👍

そんなクレージーな企画をやり倒した結果、当時インディアンリバーロードと言うセレクトショップは 行列 作りまくりで 大げさではなく ショップバックは岩手の街に溢れまくって 自分で言うのもなんですが伝説のお店なんて言われるぐらいまでになった🎉🎊

他にも色んなお店もやりました。
「ココシュ」っていうアジア雑貨屋さんも結構大きくやったり、一時期は、タイやインド、ネパール なんかに行ってオリジナルの商品を作ったりもしてた。最後には、店舗の隣にカフェまでオープンさせたり。

ただ、悩んでたのは、うまくいっても 多店舗しようとしてアウェイに出店して自分の目を離れると 全部ダメ になっちゃうってこと、要するに再現性が低く事業規模が拡大できない業態でした。
(ソリャそーですよねーチェーンに狂ったイベントなんか出来っこない!)

でも、たくさんの企画をやったことで「お客さんが何をしたらどう動くのか?」「実際にどのぐらいの反応をするのか?」ってのが わかるようになりました。

ビンテージ古着屋さんやって、アメリカで古着商社やって、新品セレクトショップやって、服のメーカーもかじって、アジア雑貨屋さんやって、ブランド古着ショップやって、仕入れや、古着の販売、衣料生産で世界中まわって

そんな経験が全部 合わさった上で さらに数々のイベントから数少ない
成功事例を凝縮させて いかに人に頼らずオートマチックに表現するか?
これらが全部合わさって
今のドンドンダウンオンウエンズデイの仕組みになりました。

前から必ず「リユース古着」は、くるって確信してたし、今後事業を大きくしていく上で 大事だなって考えてたのは、マーケット規模そのものが ドンドン大きくなる分野で なおかつ まだ競合が少ないく、そのマーケットのスタンダードが決まってないところ。

ここで圧倒的にすごいビジネスモデルができれば絶対に日本一になれるって考えた。

、新しいビジネス思いつくときは、いつもそうなんだけどとにかく何百もネタを集めて熟成発酵させる。

コケてコケてコケ倒した結果 最後に「ブリッ」って出てきたものがドンドンダウンオンウエンズデーというヘンテコリンナ古着屋でした。

その時は、ビジネスモデルそのものをネーミングで表現するっていう
コンセプトと なんかで「当たる店名の三原則」って本を読んだら
「覚えやすい、言いやすい、なじみがある」って言う事だったから その二つの条件を鑑みて100以上 名前を考えてドンドンダウンオンウエンズデイって名前にめぐり会えた時、初めの一店舗を出す前に
「あーこれで日本一になれるな」ってマジで思っちゃいました
🤪

でも、最初は、ひどかったなー実際

当時のうちの連中は、アパレルかぶれだし、俺が一生懸命説明しても、全然わかってくれないし、そんなかっこわりー店やるぐらいならやめるっていうやつもたくさんいた😵😵😵

それこそ こんな感じ
「は~ドンドンダウン オン ウエンズデー、ださい、ゼッテイ売れない」

しかも、やっぱり本当に勇気がいった。だって最初から値段が下がり続けて全部100円になっちゃったらお店スグつぶれちゃうので。

最初にトライアルで出したのは、青森八戸のお店。当時インディアンリバーロードって言うセレクトショップをやってたんだけど あまりにも町と そのビルに 集客力がないので やめようとしていた矢先

「もし、この最悪の場所で結果でたら、全国どこでやっても成功するな」
って

まー最初からたいした売上じゃなかったけど、ドンドンダウンオンウエンズデイにした翌月から売上3倍になった🎉🎉🎉

よし!これで日本一だな
僕って単純

自分の人生を振り返ってみると「引越の数、親父の倒産、旅、いい本との出会い、外国での暮らし」が結果的に起業するべくして起業した自分を創ってくれた気がする。

まあ、うまくいくかどうかは別にして
他の有名なベンチャ起業の社長なんかも大体パターンは一緒だから もし、これを読んでくれている起業したい若い人がいたら
「環境適応、結構つらい事件、読書習慣、旅、海外」は、やっとけばいいんじゃないかな。

注意!うまくいくかどうかは別にして 起業家の素地としては大事な条件ではないかと。。。

コケ倒しの僕に足らんかったのはやっぱり「アカデミックな素養かな」🤪🤪🤪マー要するにアホだらら

最近の若い人の性能の良さには 只々ジェラシーしかない。
今の時代、圧倒的優位性は 悲しいかな「年齢」にある気がします。
経験や人脈、資金はもちろんオッサンのほうが分が いいのだけどアイディアと行動力と誠実さがあれば今の時代簡単にそんなもん集まるし オッサンの全てを凌駕するパワーがある気がする💪💪💪

僕はこけまくりだし そもそも古着屋さんで お洋服屋さんだから元々は
「ビジネス ビジネス」って感じではなくて

全ての業態を全部潰した後、ようやく 「ドンドンダウンオンウエンズデイ 」という 変な古着屋が メディアに ムチャクチャ取り上げられて

VCがどうやらとか、色んな ビジネスコンテストでピッチしたりとか、上場がとか

そんな感じになって35歳過ぎて初めてスーツ着たぐらいなんで ずいぶんと 遠回りをした。

就職もしたことないから社会性に欠けてたし、なんならホリエモンさんじゃないけれど最初の頃は、VCさんやら 金融機関に行く時もだらだらのTシャツに短パンサンダルで行ってた😵😵😵

「イヤだって人間ココっしょ」なんて胸をこぶしで叩きながら言っちゃう
タイプだったから🤪

当然、面と向かって僕に文句言う人はいないんだけど実際はみんな頭の
いい人たちだから 体よく あしらわれていたことも ずいぶん経った頃に
気が付いた。

最近は、20代でビジネスモデル創り出して たくさんピッチして 投資家からすんごい金額調達して 一気にスケールしていくって神業を 軽々こなしていく性能はオッサン舌を巻くばかり
ジェラシーまくりだけど

やっぱり一番大事なことは最終的には「胆力」に尽きるって思います。

どんなにITやAI、テクノロジーの環境が変わってもやっぱり事業は人と人とのつながりだから笑顔で清濁飲み込む気概を僕の「倒産1000本ノック」から少しでも感じてもらえば嬉しいです。

さてクソ長々と僕の耳障りな武勇伝を語って来ましがいよいよ次は
僕の事業の「こけたおし5選」
究極の自虐ネタが始まりますのでこうご期待🙏🙏🙏

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プロローグ、目次、今回が本編第3話になり5回目のnote投稿です!

これからも読者の方にハラハラドキドキ綱渡り経営のリアルを

テクニックも心持もチョーリアルな僕の実体験をとうしてお伝えできれば幸いです。ラッキーにもカンボジアで行われた「ホリエモン祭」で登壇させてもらい幻冬舎の伝説の編集者の箕輪厚介さんと対談する機会がありました。

その後、出版の相談をさせてもらったところ「面白いっすね!とりあえずnoteに書いてみて」って言われた事をまともに間に受けてnote始めました。

30章以上は、書き続けてあわよくば幻冬舎で出版してもらって🤪箕輪さんやホリエモンさんに帯書いてもらえるようにがんばります!

恥部をさらけ出し倒しなのでフォローやスキもらえると癒されます

フォローよろしくお願いいたします🙏🙏🙏


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