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第6回「コミック ――それはどこから生まれたのか?」

「ONE PIECE」に「名探偵コナン」、「ドラゴンボール」に「ドラえもん」……、世界が注目する漫画やアニメを生み出す「コミック」は、クールジャパンの代表格で、もはや日本が誇るメインの「文化」になっています。かく言う私も、学生時代に創刊された青年コミック雑誌を今に至るまで、なんと50年間も愛読しているんです(笑)。

ただ、そんなコミックのルーツが江戸時代にあることは、みなさまご存じですか? さらに驚くことに、現代で花咲く広告手法の一つ、各メディアの特徴を活かした、企業ブランディングや商品訴求をしていく「タイアップ広告」も、この時代にすでに展開されていたのです。今回は、それを検証していきましょう。

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(注1)絵入りの大衆向け読み物「黄表紙」のはじまりといわれる『金々先生栄花夢』。作者は恋川春町(1744~1789)で、狂歌師、浮世絵師としても活躍。黄表紙は、安永期(1772~1781)から文化年間(1804~1818) にかけて大流行した。

まず、アニメやコミックのルーツですが、これは、「黄表紙(きびょうし)」(注1)と呼ばれるものです。いわば、大人向けの絵入り娯楽小説 で、内容的には、江戸庶民の生活をテーマに、「おかしみ」と軽い風刺を効かせたもので、読書好きな江戸っ子たちに大ブレークしました。
そして、この黄表紙を舞台にして、化粧品、薬、歯磨き粉、出版物などの広告が、アイデアあふれる手法で展開されていたのです。これぞ、粋で洒落た江戸の広告手法「えどばたいじんぐ」。では、さっそく、その実例を見ていきます。

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『腹内窺機関』の表紙

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中扉のタイトル

病魔と闘う!痛快SF「名医物語」

ここで注目したいのは、『腹内窺機関(はらのうちのぞきからくり)』(注2)という作品で、今から200年近くも前、1826(文政9)年のものです。
ストーリーを簡単にお話しすると、こんな感じになります。
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あるところに、毎日忙しく走り回っている竹庵という名医がいました。この竹庵先生は、患者の病気を直すことにいつも真面目で一生懸命。ある日、そんな彼のもとに神の使いが現れ、不治の病を治すという魔法の「枕」を授けるのです(図1)。

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図1)神の使いが魔法の枕を授けるシーン

この「枕」は何とも不思議、これを使って患者に添い寝をすると、患者のお腹に潜入することができるのです。竹庵先生は、さっそく不治の病にかかった患者とともに寝て、そのお腹の中に潜り込み、病根を探る旅に出ます。

竹庵先生は、医者の身分を隠し、太鼓持ちと称して、病根を探り続けます。なにしろ、病気どもは医者が大嫌いです。ついに、竹庵先生は患者の体を弱らせた病気をつきとめます。
調べてみると病根の親分である「痛之介(いたのすけ)」は、「疝気(せんき)」という下腹部・内臓を侵す病気の源。その痛之介一族郎党を相手に、信州・東山堂の妙薬「疝癪湯(せんしゃくとう)」を隊長としたあまたの薬の軍隊が攻めこみ大合戦となる。
妙薬「疝癪湯」を前にして、痛之介一族も早々に退散!見事、患者を救います。

そして、この物語の大団円には、信州上田・東山堂「疝癪湯」の大看板が描かれ、「この薬があれば、万人にひとりも治せずこと無し」とある。
最後はお約束の、めでたしめでたしで物語は終わります(図3)。
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まず、このストーリーで、お気づきの方がいるかもしれません。そう、これは、アメリカの大ヒットSF映画「ミクロの決死圏」(1966年)と、よく似た話なんです。
病気を治療するために、医者がミクロサイズまで小さくなって、患者の体の中に入り込む……という「ミクロの決死圏」は、公開当時、そのストーリーの斬新さで話題となりましたが、同様の話が、日本の江戸時代に、すでに「黄表紙」として創作されていたとは、何とも痛快です。
そしてこの事例は、町人文化の隆盛を誇った江戸における戯作者(注3)たちクリエイターの発想力の高さを、何より物語っているともいえるでしょう。

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(図2)『腹内窺機関』本編の中に「仙女香」の広告

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(図3)『腹内窺機関』最終頁に「東山堂病根の親分の背後に奥方と腰元、竹庵と「仙女香」の噂話疝癪湯」の広告大看板。巻末には書籍広告


アイデア勝負! 劇中の「タイアップ広告」

この戯作者は敵討ちや合戦ものが得意でした。そこでなんと、流行りの病気と薬の合戦を趣向とした、つまり、新しい作品のネタの工夫をして見せたのです。
物語に登場する信州上田の「東山堂」は、江戸にも支店を持つ当時の有名な薬店。この作品は、ここで、「東山堂」の企業ブランディングをしています。さらに、妙薬「疝癪湯」は、東山堂主力の看板商品なのです。これこそが見事な「プロダクトプレイスメント」(注4)。ストーリーに合わせて、絵とセリフを巧みに使った、劇中タイアップ広告の原型なのです。広告とはいえ、すっかり楽しませてもらいましたね。

また、前述のストーリーのほかにもまだ、本文中に「仙女香(せんじょこう)」という化粧品の広告も出てきます。
竹庵先生が、病根の親分・痛之介に近づき、まずは奥方や侍女たちに、「江戸で一番のお顔の薬は“仙女香”に限ります……」「今度来るとき持ってきましょう……」などと取り入っているのです(図2)。なかなか、やりますね、竹庵先生も(笑)。

これらのセリフは、ストーリーの流れと関係なく、何げなく入っていますが、しっかりと宣伝文句なのです。このさりげなさが、江戸っ子たちに受けたのですね。
きっと、これを読んだ読者には、「フムフム……。仙女香かあ~」と、その 製品名が自然と脳裏に焼き付けられたことでしょう。

これこそがタイアップ広告の本質的な狙いである、メディアの特徴を生かした「超・自然体な訴求」なのです。物語に広告が自然に溶け込んでいますね。お見事!
現代では、医薬品医療機器等法(薬機法。旧・薬事法)というものがあり、医療・医薬の広告については、表現的に規制されることが多いのですが、こんな、愉快な発想の広告は歓迎したいですね。

江戸文化の権威ある研究者は、「この時代、書籍を広告媒体としたのはおそらく、世界で初めてではないか…」と指摘していますが、このように自由奔放、アイデア勝負で、粋と洒落の効いたエンターテインメントにできたのが、江戸の広告作法「えどばたいじんぐ」の特徴なのです。

コミックのルーツが、江戸時代の黄表紙にあり、しかもそこには漫画を使った「タイアップ広告」が掲載されていた……。200年前のニッポン人は、素晴らしい!
こんな独創的な展開を、世界に先駆けて実施してきたニッポン人であることに誇りを持って、現代社会でも、さらにこんな面白い広告が登場するといいですね。


注1)黄表紙は草双紙(くさぞうし)の一種で、1775(安永4)年、恋川春町(こいかわはるまち)作・画の『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』が「黄表紙」というジャンルの始まり。あらすじは、江戸で一旗揚げようという、田舎者の青年の夢物語を面白おかしく描いたもの。黄表紙は最初、1話10頁程度(判型・縦18㎝×横13cm)だったが、だんだん長編となり、数冊合わせて合巻(ごうかん)と称されるようになる。草双紙の“草”とは草競馬や草野球といった、本格的ではない亜流の、という意味。赤本、黒本、青本、黄表紙、合巻など子どもから一般庶民まで対象にした読み物の総称である。
注2)『腹内窺機関(はらのうちのぞきからくり)』南仙笑楚満人(なんせんしょうそまびと、別名為永春水) 作、春齋英笑(しゅんさいえいしょう、別名春川英笑)画 1826(文政9)年刊の合巻。
注3)戯作(げさく)とは主に江戸後期に発達した大衆向け俗文学のこと。正統ではない、戯(たわむ)れに、という、自ら卑下した言い方。社会風俗や、現世の茶化しや風刺も効いて、大ヒット。恋川春町以来、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)、山東京伝(さんとうきょうでん)、式亭三馬(しきていさんば)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)など人気の戯作者が次々、登場する。
注4)プロダクトプレイスメント(product placement)とは、映画やテレビドラマの劇中で企業名や商品名が登場し、宣伝広告するもので、企業タイアップ広告の一手法。

◆参考図書
・『江戸の本屋(上)』中公新書568/鈴木敏夫著/中央公論社/1980年刊
・『江戸戯作の研究―黄表紙を主として』井上隆明著/新典社/1986年刊
・『江戸コマーシャル文芸史』井上隆明著/高文堂出版社/1986年刊
・『黄表紙解題』森銑三著/中央公論社/1972年刊
・『新日本古典文学大系83』木村八重子ほか校注/岩波書店/1997年刊
・『江戸戯作草紙』棚橋正博 校注・編者/小学館/2000年刊
・『江戸の情報力』市村佑一 著/講談社/2004年刊
・『草双紙事典』叢の会編/東京堂出版/2006年刊
・『絵草紙屋 江戸の浮世絵ショップ』平凡社選書/鈴木俊幸著/平凡社/2010年刊
・『歌麿・写楽の仕掛人 その名は蔦屋重三郎 展覧会図録』サントリー美術館 編集・発行/2010年刊
・『江戸に花開いた「戯作」文学 NHKカルチャーラジオ 文学の世界』/棚橋正博著/NHK出版/2013年刊 


<執筆者プロフィール>
坂口由之(さかぐち よしゆき)
アドミュージアム東京学芸員。1947年、北海道生まれ。多摩美術大学卒業後、1970年㈱電通入社、クリエーティブディレクターの後、1997年広告美術館設立のため学芸員として参画。2002年「アドミュージアム東京」の開設時に企画学芸室長として運営に携わる。2007年(公財)吉田秀雄記念事業財団に勤務。現在はアドミュージアム東京解説員として勤務。日本広告学会会員


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