おっさんずラブ-リターンズ最終話の台詞について

本来は別の内容のものを書き始めていたのですが、最終回の内容について別途書いておく必要があると思い、こちらを書きました。

何かを書きたいと思うことも、書かなくてはならないと思って書くこともありますが、どちらも何かものを書くことへの義務ではなく、自分の意思で書いていました。そのため今回のことは、義務的な気持ちで書かなくてはならず非常に心苦しく、気の進まないことです。しかし、次回に投稿する内容がまた別の感想の記事になるため、全く触れずに別の記事の投稿を行うことは、私の心情や考えに対する経緯を曖昧にするものと思ったため、こちらのnoteにて明記をしてから、別の記事を今後投稿させていただきます。そのために書いています。

X ですでに言及はしていますが、「おっさんずラブ-リターンズ」最終回における、黒澤の台詞についてです。

実は余命一ヶ月ではなかったことが発覚した黒澤(演・吉田鋼太郎)が、家の売却を依頼した和泉(演・井浦新)に対し、恥ずかしさやどうしようもなさの募りにより発した台詞である。

「和泉ちゃん、消して。私のボデーを透明にして」

この台詞ひとつで、私が今まで見続けていたおっさんずラブという作品が終わった、と思った。

春田と牧のどれだけ幸せな様子を見ても、喜びとして受け取れなくなってしまった。最終回がどんな話だったのかも、覚えていられないくらいだ。ここまで倫理観の欠けた制作側の対応に、全てを踏み潰されたような気持ちだった。

この「ボディを透明にする」という台詞を、なぜ使おうと思ったのだろうか。

まず「ボディを透明にする」という台詞は、実際に起きた殺人事件の犯人が実際に発した発言が元となっている。この台詞を検索して検索結果にまず表示されるのは、この事件のことだろう。遺体を消してしまう際に、犯人が言っていた実際の言葉だ。人殺しの際に実際に言われたことを、台詞として安易に使用してしまうことはなぜできてしまうのだろう。
事件には必ず被害者遺族がおり、さらにこの犯人には発覚していないが、他にも殺人事件を起こしていた可能性があり、実際に発覚している事件以外にも、この人物によって命を落としてしまったかもしれない人と、その憤りや悲しみを表にすることのできない家族がいる。そして加害者側にも、この犯人によって人生を傷つけられている加害者家族が存在するということも、全て見過ごされている。

そのうえで、この1990年代に起きた事件のこの発言が、現在も一部の人たちには聞き慣れたものとして浮かぶこと。これが、実在の事件の発言をベースとしていることと同等に、問題のあることなのである。

「ボディを透明にする」という表現を現代にも広めているのは、この事件をベースとした映画、園子温監督の映画「冷たい熱帯魚」(2010年)である。

園氏は映画関係者の女性たちに性加害を行ったことで、現在も性加害問題の渦中にある。氏は事実無根であると訴えを起こしているが、現に告発者は多数に存在しており、問題は解決していない。また氏の性加害を告発した方は自死により亡くなっており、また氏に関連する性加害を告発した方も同様に亡くなっている。現在も声を上げることのできない被害者が傷つきながら存在していること、問題は解決されることなく存在していること、さらに実際に人が亡くなっているということも重なっている。
こうした性加害に対して反対の意思を示す第三者の人たちも存在する。こうした人たちは、性加害に対する反対の意思と同様に、被害者へ寄り添う気持ちを持ち、共に傷つ区ことがある。氏の名前や作品がおもしろおかしいものとして扱われることで、自分たちの主張やを踏み躙られるように感じ、深い悲しみや憤りを感じる。

どちらのことがベースにあったとしても、現実に傷ついた人/傷ついている人が存在し、そして実際に人の死が関わっていることに変わりはない。

これらの事実を踏まえて当該台詞に戻る。この台詞が、たとえ俳優がアドリブで発したものだとしても、脚本に存在したとしても、放送するまでの間に問題ないと判断されなければ、このようなことにはならなかったのである。

誰もチェックをしなかったのだろうか、またチェックをしたうえで問題ないと判断したのだろうか。二次加害が起こらないとどうやって判断したのだろうか?

どのような場合においても、「たまたま誰も知らなかった/気付かなかった」ということでは済まされない。事件のことは調べればすぐに出てくることであるし、映像作品に関わる人間が園氏の作品や氏の現在の状況を「何も知らなかった」ということも、制作側が映像作品や、映像界で起きている現実の問題に全く無関心であるということに他ならない。とにかく、この表現が適切であるかということを考えてすらいない、ということに酷く絶望感がある。

発せられた台詞や演技が適切か不適切であるかは、役者のアドリブを中心とした作品であるからこそ、より慎重に扱われなければならない。そして今回の台詞は、前述のとおり物語の展開やストーリーに即して必ず言わなければならないものではなく、むしろコメディの場面で発せられた台詞だ。これを「笑える」ものとして考えられる制作側の意向には辟易する。

(もちろん、もし俳優が自分の意思であの台詞を言ったとしたら、当人にこの問題に関する意識が低いと思わざるをえないことは確かである。しかしこの台詞を放送するかしないかという決定に多くの人間が存在していたにも関わらず、そのまま放送してしまったということに対しての疑念がまずある。)

これは「誰がやったのか、誰のせいなのか」という責任の所在を求めるものではなく、「なぜ誰も疑問を持たず、現実の人を傷つける表現かつ人の死に関わっている内容を「おもしろい」と思って放送したのか」ということにある。

すでにこの最終話の放送前、8話のタイトルが「余命1か月の家政婦」であったが、こちらも現実に人が亡くなった実話をもとにした作品「余命1か月の花嫁」からのオマージュであることが明白であった。現に人が亡くなっているという事実を軽んじて、余命と絡めて使ってしまったように思えてならない。
今作の「おっさんずラブ」はオマージュの多用を行う一方で、そのオマージュを行うことで何が起こるのか、どのように受け取られるのかといったことまで考えが至っておらず、このような深刻な問題を含んでいる台詞を無遠慮に放送したのだろうと思う。

奇しくもこの最終話が放送された前後にて、ミニシアターを代表する映画館のユーロスペースにて、園氏の性加害に加担したとされる坂口拓氏の映画「1%er」が公開した際に、この性加害問題が解決していないこと、また問題の渦中にあることに対して批判が集まり、公開を取りやめたばかりだ。ユーロスペース側も、性加害の有無に関する事実のヒアリングだけではなく、上映を行うことで二次加害を生むことを考えたうえでの判断を下している。

「おっさんずラブ」においては、テレビ朝日に対し、DVD やBlu-rayなどのパッケージ化の際における当該台詞の修正および削除、またTELASAやTVerでの再放送を含む配信での台詞の修正および削除を求め、またこの台詞が使用されたことについての経緯、考えについての説明を私は求めています。

このような意見を述べることで「嫌なら見なければいい」、「自分の好きなように作品をコントロールしようとするな、オタクの希望を叶えるために作品はあるわけじゃない」という反応が出ることも承知しています。
しかし、「嫌なら見なければいい」ということは映像作品やフィクションの力をむしろ無視した発言だと思います。当事者は「見なければいい」かもしれませんが、作品が存在することで、作品を見た人たちの中に、そのような表現をすることは何も加害を生まないのだ、人の死を笑っても構わないし無視してもいいのだ、という考えが生まれていくこと、それが風潮となって社会的に浸透するということは起こりえます。作品やフィクションの力を知っているからこそ、こうしてわざわざ意思表明をしています。
また「作品をコントロールするな、オタクの希望を叶えさせるために作品はあるわけではない」という意見については、作品に対してどう思ったのかを述べること自体は自由であるべきだと思いますし(私の意見に反対であり、最終話の台詞が素晴らしいと思うこともまず自由です)、今回の場合はオタクの希望というより、多くの人を傷つける表現に他ならないものであることから、客観的な視点で提言しています。社会的に明白にまずいと思われる表現であったために提言しており、「なぜそのようなことになったのか、なぜその表現に至ったのか」ということを知りたいと思っています。

なお本件に関しては、すでに上記とほぼ同等の内容をテレビ朝日問い合わせフォームより直接行っておりますので、このようなnoteでの意思表明ではなく直接意見を言うべきだ、とお思いになられる方には、すでに私からの一意見は表明済みであることは報告いたします。

以上として、この度問題提起をした当該台詞の件については述べさせていただき、「おっさんずラブ-リターンズ」についての別の投稿を次回は行いますこと、ご了承ください。


*こちらの記事は意思表明のため、個別の返信については返信しない予定です。重ねてご了承ください。


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