AI生成の懸念事項

AI生成技術の懸念事項でアメリカではストライキが起きている。

彼らの容姿、声、動きだけをコンピュータに記憶させ、あとはAI で生成してしまえば映像ができてしまう。

安価でできてしまうので、彼らの俳優としての仕事がなくなる、俳優としての仕事の危機を感じてのストライキだ。

彼らの言い分はわかるし、その報酬のガイドラインは今のうちにきっちりしておいたほうが絶対にいいと思う。
どっかの国みたいに先延ばし先延ばしにして、にっちもさっちもいかなくなる前に。

それはさておき、元声優志望として、ちょっと思ったことを書いていこう。

その彼らのいう俳優業がなくなる、という懸念は多分、
大丈夫だと思う。それは後ほど説明する。
むしろフェイク画像、フェイクニュースのほうが問題は大きい気がする。

過去にもテレビ側が捏造やヤラセなどが発覚して大問題になったが、それが今や誰もが生成、発信出来る時代になった。

そもそもコンピュータそのものは打ち込まれたプログラミング通りに動くものであるから、コンピュータそのものは嘘はつかない。だからなおさらタチが悪い。嘘をつくのはプログラミングをした人が、ということになる(その意図は無かったそしても)

例えばプログラミングの時点で、赤色を黒色として映像化する、としてしまえばそのプログラミングで作った画像は全て赤色の物が黒色として生成されてしまい、それが世界に広まっていく。

そのものが本当は赤である、というのはパソコンやスマホを通してではなく、実際に現場に言ってみないとわからないのである、そういうことになる。

これからはますますリアル、現場が貴重で重要になってくるだろう。

さて、先程の俳優業はなくならない、という話だが、それはやはり舞台や映画などは総合芸術だから、といえばいいだろうか。
先程の俳優の容姿や動きだけをとって、後はクリエイターが動かす、というのは所詮、独りよがりのものに過ぎなくなるからだ。

はじめは物珍しさから大ヒットするかもしれない。でもそのうち、絶対飽きられてくる。

所詮独りよがりの造り物ということに、先の展開が読める通り一遍のつまらないものになっていくと見透かされてしまう。
これは理屈ではない、人間の本能というか六感が、そう感じ取ってしまうのである。

映画や舞台などの裏話が好き、というひとならばいくらでも聞いたことがあるだろう。本当はここはこういう場面ではなかった、とかここはこう変更された、だとか。

もうここしかない、というところで偶然雪が降ったとか雨が降ったとか、あるいは俳優がセリフを忘れてしまい、アドリブで言ったセリフがそのまま採用された、だとか、ここはこの役者さんの完全なアドリブだとか。
あるいはここのシーンでは小道具さんが忘れてしまい、急遽そこら辺に合ったもので代用したら以外にこのシーンにマッチしたのでそれをそのまま使用することにしただとか、数え上げればキリがない。

私事で恐縮だが、とある芝居をやった時、ちょっと粋がっているけれど本当は心根の優しい役の男性が、どこかへ行くのに歩くというシーンがあった。
季節は夏。私の出番はないので、前でそのシーンの稽古を見ていた私が突然ひらめいた。
「このシーン、アイスクリーム食べさせながら歩かせたい」
都合によりチューペットみたいな形の物になったけれど、私の提案は見事採用されたわけだ。そして夏という季節感と、役の性格のリアル感がより増した、という効果もあったわけだ。

このように現場では(もちろん監督が全て、という現場もあるが)個々のアイデアが採用される、ということがたくさんある。役者だけではない。音響さん、証明さん、大道具さん小道具さん、他のスタッフの方々、皆で作っているという一体感がある。
そこが舞台が総合芸術と言われるゆえんでもある。

AIで作られるとそれらが全てなくなってしまうのである。

このシーンでこの人にアイスクリームを持たせよう、という発想は、生成者が思いつかなければ絶対に表れないし、多彩なアイデアは当然、人数が多いほど出され、完成した昨品の重層感も増す。

AI生成のみの映像ではいかにも売れそうな設定のものは出来上がるかもしれないが、どこか薄っぺらいものを感じてしまうはずである。

私はそう思うのだが果たして・・・・


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