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〈鑑賞、解釈、レビュー、批評〉新海誠監督作品「だれかのまなざし」を観て 理想の「普通」

※読む前に上記作品を視聴することを推奨します。7分弱の長さなので気軽に観れるかと。


 自分の人生が作品として見られた時、人はどう思うのだろうか。

 新海誠監督作品の「だれかのまなざし」には「普通」が流れている。普通の家族、仕事、住宅、街並み。近未来的な要素もあるがそれはその時の普通なのだと思う。親子関係、自立といった内容で、観ている人からすればなんとなく既視感を抱く。直接の経験はしていないけれど、新鮮さを感じない。この作品にはそういった普遍性が内在する。きっとそれは誰もが誰かに見られていることを意識していないからだと思う。もちろんあーちゃんは一会社員として上司に見られているだろうし、お父さんも会社員としても、父としても見られているだろう。しかしあの「偉く」怒っている上司も、父親に対して恥ずかしがっている、すこぶるに可愛らしい部下の姿も知らないだろうし、あーちゃんも、仕事で頭を下げている父の姿は知っていても、自分のことを心配してくれている父の姿を知るのはもう少し後だろう。その両方を知っているのはミーさんであり、私たちである。しかし私たちが見ているのは、ミーさんが見ているものであり、もしかしたら私たちが見ていないところでは、あーちゃんは探偵として事件を解決していたり、お父さんも人知れず地球を守っていたり、ミーさんも素晴らしいその声の運命力から、地球侵略のためにやってきたものの、男の子に一目惚れをして、語尾が「だっちゃ」の宇宙人としてラブコメディを展開しているかもしれない。

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 そんな彼女たちが自分の全てが誰かに見られていると分かったらどうするのだろうか。きっと怖がったり、恥ずかしがったりするのだろう。誰かに何かをされるよりも、知らない何かに見られ続けるというのは気持ちが悪い。そこには温度も確かな触感もない。

 あーちゃんはカラフルで雑多な部屋を片付けるだろうし、お父さんも娘の為に買ったお弁当を隠して照れるだろう。なんとも愛らしい。彼女たちの「普通」は無くなり、見るに堪えないものになるだろう。

 では私たちの人生が何かに見られているとしたらどうだろう。死んだおばあちゃん、飼っていた猫、見知らぬおじさん等々。きっと私は恥ずかしがるのと同時に申し訳ないと感じるのだと思う。私の人生はあんな綺麗な淡い色ではないし、にんじんさん、さくらんぼさんのリズムで可愛く一人遊びをしていなかっただろう。私が食べている鮭はあんなに美味しそうではない。無論、感動的な曲が陳腐とも思われるタイミングで流れたりしない。素敵な声でナレーションされたりもしないだろう。つまりこの作品は「理想の普通」なのだ。この中には普通の暖かさ、美しさがある。私たちは決してそのような生活は送れず、見続けることしかできない。

 とりあえず、今日の帰りの電車でつり革にしがみついて耐えている人がいれば、見ているだけでなく、席を譲ってあげようと思った。きっとそんな私の行動は、だれかのまなざしであっても理想の普通であると思うから。

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しらたま

エッセイや短編小説、詩などを手癖とその気に任せて書いています。 如何なる反応も嬉しく欲しています。
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