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大切な誰かとの距離を感じた時に生まれる複雑な感情に、透明でおだやかな蓋をする。

誰かの変化や、誰かの心が離れていってしまう予感がしたときの、悲しみや寂しさ、怒り、その複雑な感情に、透明でおだやかな蓋をする。

以前の私は、目の前からいなくなった人は死んだも同然だ!と息巻くほどの、かなりの喪失過激派だった。
それは物理的な距離に限らず、目的や信念の違いから生まれるような心情的な距離でもそうだ。

今生の別れとの区別はつけど、心や考えが離れていくことで生じるすれ違い、それで生まれる距離、それすらも死なのだと、歪に考えてきた。

でも、今思えば結局、その鬱陶しさすら覚える激しさの裏にあったのは、
長くて短く、狭くて広いこの人生の中で、もう2度とまた寄り添い合うことは無いのではないか。という恐怖心で、離れていった人を想う、もどかしさだった。

私が見る範囲こそが世界で、その人の人生だと思っていた私は、視界から離れていく事がある事実に耐えられなかった。
たしかに、私の知らない世界が無数にあることなんて重々承知していたし、ピッタリと同じ考えを持っている人がいるなんてことも毛頭思っていなかったけれど、

それぞれの人生の進め方がある中で、
数年前に想像していた今よりもはるかに多様な生き方を選び、進む人たちがいる。
そして、少しずつではあるけれど、多様な考え方、生き方が生まれ、認知され、許容されるような世の中に変化してきた。

私はその、決して早いわけではない、でも力強い流れ(ここでは個人の人生とも言えるけれど)その中で生まれる生き方や信念の違いに触れた時、まるで自分だけテレビ画面の外にいるような疎外感を感じてきた。

それを埋めるかのように、出会ってきた沢山のモノ、知識を、両手めいいっぱいに広げた中にギュウギュウに押し込んで、何があっても決して離すまいとしてきた。
その詰め込んだモノたちを駆使して、大切な誰かをなるべく理解しようと努めてきた。
実際そうできていたかはわからない、でも、その人が心を許し、寄り添い合える距離に居てもらおうとしてきた。

しかしその無謀とも思える行動の根源にあったのは、自分の目の前で生きとし生けるモノを愛したり、理解し、守ろうとするような心ではなく、
日々変化し、流れてゆくモノを許せず、
互いの言葉や行動が影響し合うであろう範囲から出ていってしまうことへの醜い拒絶反応、傲慢で寂しいものだったと気づいた。
今思えば、過剰に影響し合い、互いを一つにさせるような、そんな恐ろしい感覚だったような気すらする。

それが不可能だと、そんなことはわかっていたはずだった。
それでも、どこか希望を持っていた自分がいた。
自分の恐ろしい感覚に気づいた今でも、それが拭えず、そうであったら幸せだろうなと思ってしまうのも事実だ。

でも、雲の後ろから強く輝き、見えなくとも存在がわかる月のように、本質は見えずとも存在を見ることはできる。
同じ考えを持たずとも、聞くことができる。
理解することはできなくとも、分かることはできる。

もちろん、これからも互いの違いや変化、距離を感じる時は来るだろう。
でもその時に、悲しみや、寂しさ、怒り、時には嬉しさ、それらが束になって複雑なカタチで心に現れたなら、それから抗わず、透明でおだやかな蓋をしよう。

この複雑な感情をじっくり眺め、決して縛り付けず、隠そうともせず、透明な蓋をして大事にすることができたなら、
今度こそ、大切な誰かを、大切にできるような気がするから。

凄く、凄く、嬉しいです。ペンを買います。