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ヨガについての覚え書き。

ほんの数年月1のレッスンと時々エクストラに通っているだけの素人の現状について。
しかも鈍感な自分を棚上げし、よくある「すっきりした」とか「リフレッシュできた」という体験談にはそんなすぐに何が判るのかと疑問しか思えない偏屈な人間の戯れ言的な話(^^;)
ヨガだけでなく坐禅のことも混じってくると思う。

《きっかけ》
坐禅会に通っているお寺でレッスンが開かれていて前から興味を持っていたからだが別の思惑があった。

坐禅に結跏趺坐という坐り方がある。
ヨガではその姿を蓮の花に例え蓮華坐(パドマアーサナ)という。
「あぐら」に似てはいるが両足先を反対側の太腿に乗せるという、普通にできる人もいるが体の硬い自分にはあり得ない姿勢だ。
これができなくても何ら支障はない(あぐらでも椅子でもいい)のだが、この姿勢の美しさに憧れてしまい、坐禅を続けるならとストレッチなどしていた頃に僧侶で作家の玄侑宗久さんが結跏趺坐のためにヨガをしたと知ったことが大きい。
そう、つまりはじめは結跏趺坐のためだった。
先生ごめんなさい!!
でも「全てのアーサナ(ヨガのポーズ)はパドマアーサナに通ずる」説もあるから許してもらえるかな(^^;;

レッスンに行く上での気がかりは女性ばかりだったらどうしようということ。
何気に男性ならそう感じる人もいると思うが、当時の自分には対人恐怖的感覚があって尚更だった。
結果的には男性も数人いて一安心したのだが、自分だけだったら架空の急用を思い出して逃げていたかもしれない(笑)

《ヨガ@お寺》
前置きが長くなったがレッスンのこと。
お寺に先生を迎え本堂で行われる。

坐禅会で慣れてもいるが本堂という空間。
TVなどで見ることのある高名な寺院などと比べれば広くはないのかもしれないが、天井が高く御本尊や仏具、天井画などで調えられた荘厳な雰囲気な場(このお寺のなぜか門ではなくここに据えられた仁王像は圧巻で大好き)。

受付を済ませ畳の上にマットを敷きストレッチなどで体をほぐしながら開始を待つ。
参加者は十数名ほど。
ほのかにお香の薫りのする静かな雰囲気だからか落ち着けて他の人のことはあまり気にならない。

定刻となり御本尊へ礼拝しご住職の言葉があってレッスンがスタート。
あとは先生のガイダンスに従って身心を観じる静かな時間。

難しいポーズをする勝手なイメージがあったが、ここではシンプルなものがほとんどで一応は難なくできる。
先生の声に沿って、任せるようにして体を動かしていく。
先生の誘導のおかげか内面に意識が向かうのは同じでも坐禅とはまた違う感覚がある。

《寝落ち?瞑想?》
レッスンの後半、仰向けのシャバーサナという姿勢で静かに過ごす時間がある。
ヨガニドラ(眠りのヨガ)と言い、他のヨガ体験談でもよく「寝落ちした」とか「ゼロになった」と言われたりしていてこれに特化したアプリもある。

何度か通って慣れてきた頃、これをしていた時「何も考えていない」と感じた。
終わりを知らせる鐘の音(先生の配慮かと思うが3回鳴らされる音がだんだんはっきり聞こえてくる)に気づき、「寝ちゃってたかな?」と思ったが少なくとも寝てはなく、普段のようにあれこれ雑念などが浮かんでいるのにそのどれにも反応したり煩わされたりしていなくて、ちょっと何かしたら消えそうな淡い感じで捉えどころがないが、快・不快どちらでもない凪いでいるような感覚。

これって瞑想に入っているということだろうか?
坐禅をしていてごくごく偶に感じることのある淡々とした感覚に似ている。
実は瞑想(坐禅での禅定)というものが、これを書いている現在もいまだによく判らない…(^^;)

《脱力すること》
ある日のレッスン、片腕を上げていく動きの途中で「腕ってこんな重かったか?」と感じた。
内側に意識が向いていたのと、それまでにした動きなどで余分な力が抜けていたからかと思う。
おそらくは頭(意識)の力も。
先生の「アーサナをしながらも必要以上の力を抜いて」の意味がほんの少しだけ判った気がした。
が、ふと気づくとつい伸ばそうとか倒そうと力が入っている。
スポーツの経験で速くて大きな力を出すためには必要ない部分の脱力が重要と判っていたしそれなりに自信もあったはずなのだが…
つい体育会系的に「おりゃ~っ」となっていたことは否めないし、これまでの来し方でいつの間にか余計な力みやこわばりが出来ているのかもしれない。
力を入れるのは簡単なのに抜くことは本当に難しい。
坐禅もそうだが一般的なエクササイズなどとは違う逆のベクトル。
単に省電力モードということでなく必要なことに必要なだけの力をということで、さらには体だけではなく意識外で身心に入っている力を抜くことなのかもしれない。

《手放すこと》
もう1つ難しさを感じているのが、求める・追いかけるのを手放すということ。
例えば今でもあの時シャバーサナで感じた感覚をまた感じたいとそれを追っている自分がいる。
あの感覚になれればその先に何かあるかも。いまだに判らない瞑想への入り口ではあったかもしれない。
そのためには気持ちをこうすれば、などと勝手に意識が働いてしまう。
そのせいかあれ以来あの感覚はほんの瞬間的・断片的にしか感じられていない。
どうやらそんな頭で考える意識や期待があるとうまくいかないようだ。
それまでは先生のガイドに委ねていられたはずなのに、いつの間にかこんな意識が生じている。
実はこれももしかしたら脱力と同じことなのかもしれない。

《効果など》
鈍感なせいではっきりとは書けないが、それでもレッスン後には何やら身心が開いていて、時々で度合いは異なるが無駄な力が抜けたような心地良さを感じる(しばらくの間だけど(^^;)。

始めと終わりに唱えるマントラ。
他の方のを聴いたことがないが何やら身心に響いてくる(まだ研究段階だがサンスクリット語(マントラの言語)を唱えることには脳にいい影響があるという)。
玄侑宗久さんが暗誦することに意味があると言っていることもあり、時々すき間時間などに唱えてみている。

姿勢や脱力を意識するようになったのは確か。
普段、仕事や何かしていても時々自然に整えるようになった。
何となくだが、無理に背筋とかに力を入れるのではなく呼吸のしやすさ・通りやすさを目安にするといいように感じている。

それとこれは坐禅も含めてのことと思うが、日常でも常にではないが余計な考えに煩わされることが少なくななった(気がする。少なくとも行き詰まっていた頃と比べれば)。
いつだって頭には何かしら浮かんでいるが、それらは割と(というかかなり)同じことの無駄な繰り返しが多いと実感できたからかもしれない。

《感謝》
呼吸法のことでも書いたが、指導者の人柄などにはやはり影響を受け依拠するものがあると思う。
先生のことをある人が「涼やか」と評しているが、まさにそのとおり陰の努力やはからいを感じさせず当意即妙で軽やかな方。
レッスンでは真摯で質問にも丁寧に答えてくれたりと気づきをいただいている。
個人的にはこだわりの少なさからか天然キャラに感じるところもありがたい(^^;)

坐禅もヨガもきっかけは病気という負のことだったが、それがなければ意識したり始めようとは思わなかったはず。
そのはじめに、本当に偶然にも出会えた奥様、ご住職、先生にとても感謝している。
丁寧に運営していながらも来るものは拒まず的なゆる~い関係性でもある場を提供してくださり、そこに集まった人々による“じかん”。
この場と集まった方々にも感謝している。

《余談など》
こうして書いていながら、こんなふうに書くことに意味はないのかもと感じている。
言語化には頭を整理する良さもあるが、単純化・限定化を招くことでもあり兼ね合いが難しい。
それでも何かの思いに従って書いてきて、その上で改めて感じるのはブルース・リーの“考えるな、感じろ。”
結局それ!?(^^;)
これは格闘技だけではなく全てにおいての至言に思える。
つい物事を第一印象などで善し悪しと評価し決めつけがちだが、時にはそうした頭での価値判断を外して感覚を大事にすべきなのかと思う。

仏教で言う六根。
超勝手な理解だが、眼耳鼻舌身意という器官がありそのどれかが何かを感受して意識が生まれるのなら、六根の1つでしかない意とそこから生じる意識だけを重要視しすぎる必要はないのかもしれない(結局全てが識(意識)になっていくから6分の1とはならないのかもだが)。
と言ってもほんの短時間以外は余計なことばかりが浮かびそれにかかずらわってしまっているのだが(^^;

ここまで書いてきて自分が鈍感で集中力もないくせに細々気にする神経質な人間にに思えてきた…(^^;
元々はそんなキャラではなかったのに(文章がくどくどしてるのは前からだが)…
たぶん、病気のせいと坐禅・ヨガのおかげだ。
今でも前にはそんなところもあった「行け行けゴーゴー」的な方が楽と思ったりもするが、状態や状況に気づける感度は大事だと思う。
気づいて判った上でスルーしたり、前よりは今すべきことを見られるようになってきたかと思う。

初めに結跏趺坐のためと書いたがもっと求めていることがあった。
病気でままならない状態をどうにかしたい。
坐禅は「何かを得ようとするものではない」と云うが当時は救いを求め少しでも楽にありたい思いしかなかった。
今でもこの気持ちに変わりはないが、これまで続けてきて少しだけこの言葉の意味が感得できたように思え、ほんの少しは変われたかもと感じている。

「ストレスの多い時代」と言われる。
だがいつだって思うようにならないし、苦しみがあったはずで、時代的にももっと暗い時期もあると疑問に思っていた。
ただ、確かに便利にはなった(なりすぎた?)反面いろんな物事のスピードが早くなり日々何かしら評価し判断することが多くなったのは確かで、何より情報を目にすることが多くなった(つまり見落としていることも多いのかも)。
いい情報・良くない情報のどちらもが否応なしに入ってくる。体験していなくとも情報を目にすることでスルーしきれず何かしらの影響を受けてしまっていることもある。
もしかしたら、少なくとも自分はオーバーフロー状態だったのかもしれないし、病気の原因ではなくとも要素の1つではあったかと思う。

これも勝手な理解だが、坐禅やヨガはこうした情報や頭に浮かぶ感情や思考、周りの環境などを受けとめた自分の中に生じていることと捉え、とりあえず保留しようとする。
ただスルーするのではなく、よく感じ、見ながら自分を保つ。

そうは言っても、いまだに脱力と手放すことは難しいテーマだ。
またしてもブルース・リーの格言を引くと“月を指す指にとらわれず月を見ろ”
そのとおりだなとは思いながら、月だけを見ていたらつまづいたりすることもあるのではと考えてしまう自分がいる。
同じように、例えば脱力しようとすればどこかに抜こうとする力(意識の)が働くはずで、それはすでに脱力ではないのではなどと偏屈思考は止まらない(^^;)

もうかれこれ3年(ヨガは2年)経つがこれが今のところ。
ちなみに前と比べればかなり柔軟になってはきているが結跏趺坐も未だできていない(^^;)
どうやら長くなりそうだし、元々鈍感で不器用なほうだ。
でもこれらには競争や締切があるわけではない。
自分なりに(この自分なりというのもよく判らないが(^^;)やっていこうかと思っている。

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