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【国を持たない最大の民族 クルド人①[クルド人とは]】

前回は、一時帰国を経て感じた思いを文章にしてみました。


今回からは、数回に渡って「クルド人」をテーマに綴っていこうと思います。

以前の投稿でも触れましたが、一時帰国中にフィールドワークの一環として埼玉県の川口市と蕨市を訪れました。両市は外国人居住率が全国的にも高いことで知られています。人口60万人を超える川口市には総人口の約6%に当たる約3万6000人の外国人が住んでいます。そのうちの半数は中国人ですが、JR蕨駅が最寄り駅となる川口市北西部の芝地区周辺には、多くのクルド人が居住しています。
日本で暮らすクルド人は現在約2000人ほどですが、そのうちの約1500人が川口市周辺で暮らしているといいます。

なぜそれほど多くのクルド人が日本に住んでいて、コミュニティを築いているのか。そもそもクルド人とはどこの国の人達なのか。それらを今後数回に渡って書き綴っていきます。

(埼玉県川口市にある芝園団地。全2500世帯という大型団地で、世帯の半数を外国人住民が占めており、そのほとんどは中国人である)


【クルド人とは】

まず、クルド人はどの地域に住んでいるのか。

彼らはトルコ、イラク、シリア、イランなどに広がる「クルディスターン(クルド人の地)」に古くから住んでいた。多くは山岳地域に住んでおり、総人口は2500万人から3000万人ほどの規模を持つ。それほどの人口を有しながらも彼らは国を持っていない。そうしたことから「国を持たない最大の民族」といわれている。

第一次世界大戦後、その地を支配していた欧米列強からそれらの国が独立する際、民族や言語の違いを無視する形で国境線が引かれた。それに伴ってクルディスターンは各国に分断され、クルド人は自分達の国を建設することができなかった。その結果、クルド人は各国で少数民族となり、差別や迫害を受けるようになった。

以下、その歴史をもう少し深く掘り下げてみる。


【サイクス=ピコ協定】

第一次世界大戦時、イギリスはオスマン帝国の解体を目論み、内部から潰すために三枚舌外交と呼ばれる政策を行った。これが結果として、現代にも続くアラブ地域における紛争の火種となった。
三枚舌外交については以前の記事でも触れている。



【フセイン・マクマホン書簡】
イギリスはアラブ諸国に向けて、もしオスマン帝国に対する反乱を起こせば、アラブ人国家建設を認めるという「フセイン・マクマホン書簡」を交わす。
【バルフォア宣言】
その一方で、長引く戦争によって戦費に窮していたイギリスは、パレスチナにユダヤ人国家を建設することを条件に、ユダヤの金融資本ロスチャイルド家に戦費の支援を要請した。これを「バルフォア宣言」という。
【サイクス=ピコ協定】
この矛盾した二つの約束に加え、イギリスは連合国フランスと、戦争も終わらないうちにオスマン帝国領の分割を定めたもう一つの協定を結んでいた。この秘密協定は「サイクス=ピコ協定」と呼ばれ、イギリスが現在のヨルダンとイラクを、フランスがシリアとレバノンを統治し、パレスチナは国際管理下に置くという内容だった。また、パレスチナは国際連盟からの委任とされていたが、実質上の植民地となる。

イギリスとフランスが一方的に引いた国境線によって、クルド人居住地域がトルコ、イラク、イラン、シリア、アルメニアなどに分断されてしまった。そして、それぞれの国で少数民族として差別や迫害を受けることになる。


【オスマン帝国の崩壊】

1918年11月、第一次世界大戦が終わった。

終戦後の2年間に渡って、連合国(イギリス、フランス、ロシアの三国協商を核とした諸国)はオスマン帝国に対する講和条約を検討してきた。この条約を「セーブル条約」という。これは戦争中に連合国の間で取り交わされた秘密協定(サイクス=ピコ協定)を反映させたものであった。すなわち「オスマン帝国の分割と解体」を目論んだものである。
西欧列強は中東地域を占領し、これらを一方的に分割して独立国にした。しかし、この独立は形式的なものであり、実質的な植民地であった。

この条約の内容は領土の割譲、主権の侵害といった非常に過酷なもので、屈辱的な不平等条約だった。しかし、オスマン帝国のスルタン(皇帝)であるメフメト6世は、自らの保身と財産保証を秘密条件としてこの条約に調印してしまった。

(第一次世界大戦前のオスマン帝国領)


(大戦後に締結されたセーブル条約によって分割されたオスマン帝国領)


これに反発したトルコ人は、国民軍を指揮するムスタファ=ケマルに期待を寄せる。国民軍は条約締結を拒否し、同時に領内に侵攻してきたギリシャ軍を撃退した(ギリシャ=トルコ戦争)

ムスタファ=ケマルが指揮する大国民議会は満場一致でスルタン(皇帝)制の廃止を可決し、これをもってオスマン帝国は滅亡することになった。
そして1923年にセーブル条約を破棄し、改めて連合国側とローザンヌ条約を締結することで領土と主権の回復に成功し、同年10月29日に「トルコ共和国」が成立した。

(ローザンヌ条約によって領土と主権を回復したトルコ共和国)


しかし、西欧列強によって分断されたアラブ地域の国境線は変わることがなく、これが結果として以降のアラブ世界の紛争へと直結していくことになる。



次回も引き続きこのテーマについて綴っていきます。


【参考文献、引用】
日本で生きるクルド人 鴇沢哲雄
サイクス=ピコ協定 百年の呪縛 池内恵
https://www.y-history.net
https://en.wikipedia.org/wiki/Territorial_evolution_of_the_Ottoman_Empire

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