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Aさんへ ⑨(④)

Aさんへ

今日の夜ご飯は豆腐ハンバーグでした。
完食し、秒で「お腹すいた。」と漏らした長女から声なき声
「次回は豆腐でなくビーフ100で。」
を受け取った次第です。

*******

『ピュリフィケーション』

(また始まった…)

両手で顔を覆い天を仰ぐ。
大袈裟に漏らしたため息は当然、火花を散らす二人の耳には届かない。

**********

タカシが玄関をあけると食料品が(チョコレート、アイスクリーム、謎にお萩。『今夜のソノコは圧倒的に甘味を欲している。』)乱雑に詰めこまれた袋を二つさげ
「遅くなってごめんね。」
ソノコは疲れた顔でタカシを見上げた。

「おかえり。お疲れさま。」

両手から袋を取り上げ待ちわびた上唇を包む。吐息が下唇にあたる。目を閉じていても包んだ唇の口角が上がったことを唇から認識する。

着替えもせずジャケットだけを脱ぎエプロンをつけ、手際よく三人分の夕食を並べていく。「どうしても今日はお肉が食べたかったの。」
無機質なダイニングテーブルが華やかになる。息吹く。
料理をしているときのソノコはセックスのときより生き生きしている。認めたくない事実をタカシは渋々認める。渋々とは言え、ソノコと出会い初めて手にした幸せは渋々を丸っと上書きする。

空腹を刺激する匂いが部屋に広がる。
牛肉の焦げ茶色、中心部の赤、胡椒の黒、クレソンの緑、ジャガイモの薄黄色、人参のオレンジ、櫛形レモンの黄、アボカドのグラデーション。
楕円形の大きな皿の縁に照明が当たり、丸くべっこう飴のような光りの玉ができる。
トマトの赤、オニオンスープの黄金色、スープの表面に浮かぶクミンの、黒に近い茶色。パセリの濃緑色。

エプロンの水色。細い首筋に浮かぶ血管の青、うなじの産毛の茶色、化粧がはげた肌のそばかすの薄茶色、赤に近い濃いピンク色の唇はその下にある乳首の色に似ているとタカシは思う。

テーブルに夕食を並べているソノコの腰に腕を回すと
「疲れた?大丈夫?甘えたくなった?お腹すいたわね。リョウくんそろそろ来るわね。」
振り返り、はげた化粧の代わりに疲労を纏いながらもソノコは優しくタカシを見つめる。
ソノコの乱れた髪を耳にかけ、頬を撫でなにも答えずキスをする。下唇を甘く噛む。空っぽの腹を満たすより先に、今すぐソノコの中を一番奥まで自分だけで一杯にしたいと思う。ずっと。自分だけでソノコを埋め尽くしたいと思う。溶けそうに甘いため息を「タカシくん」と細く震える声を耳元で聞きたいと思う。ずっと。

ステーキをはじめとする金曜日らしい夕食が辛うじてゆげを狼煙、ソノコが「眠い。」と呟き始めた頃、インターホンも鳴らさず鍵のかかっていない玄関から自宅に帰ってきた主のような態度で挨拶もなくリョウが入ってきた。

「おかえり。リョウくん髪切ったね。かっこいいね。今日お休みだったんだね。」
タカシが声をかけると、言葉とは裏腹になにひとつ浮かない口調でリョウが
「んー。女ウケがいい髪型にしてくださいってたのんだんだー。今後モテが止まらんかもしれん。」
答える。間髪いれず

「チャラ。」

キッチンから残業疲れと空腹でイライラしているソノコの本心から漏れた声が、流れ落ちる水道の音に混ざり切れず二人の耳に届いた。
タカシは苦笑いを浮かべあごをなでる。

先ほどの口調とは裏腹に水を得た弟がすかさず噛みつく。
「はあ?今なんつった」
「別に~。」
「チャラっつっただろ」
「聞こえてるじゃない」
「あのな、お前みたいにチャラチャラチャラチャラしたやつに言われたくないんだよ。あくびちゃんみたいな顔しやがって」
「ねー。もうやめない?」

天を仰ぎ沈黙していたタカシが間を割くがリョウは腕組みをしてソノコを睨み、ソノコは「あくびちゃん!?」とタカシの仲裁を無視して大声をあげ目を丸くしリョウに詰め寄る。

「ひどい!あくびちゃんはチャラくないわ!あくびちゃんをバカにしてるわよね!あくびちゃんはすっごくキュートだし一生懸命生きてるのよ!」
「はい?お前なに言ってんの。俺はあくびちゃんのことは何一つバカにはしていない。そしてお前ごときがあくびちゃんを語るな。ほんとにずれてるよな。あー、とんちんかん!」
「とんちんかん!?今度は一休さんに似てるって言いたいの!?」

怒りのあまり赤を通り越した、ほの青白い顔色で滅多に聞くことのない鋭利な高音で尖る。

「ソノコ。その話前も聞いたから。違うから。大丈夫だから。 」
愛しいひとをなだめ、ながめ、タカシの心の内には「鬼の形相」という言葉が浮かぶ。

「前にもね、とんちんかんだね。って先輩に言われたのよ!先輩って言ってもカガミ先輩は父に近い歳だわ。不自然に真っ黒に染めた髪をツーブロックにしてるの。カラスみたいに黒々した髪よ。一度食事に誘われて断ったらそれから手の平返したみたいになって。もう!そんな話はどうだっていいのよ。とにかく!とんちんかんだねって。ロープレの後よ。『パッションが感じられるし起承転結もがありながらフローも悪くないトークだね。コアも押さえてるし。でも何て言うのかな、フィーチャーの部分で時々ロジックがぶれるね。ファジーになるときがある。ファジーとも違うな何て言うかー。とんちんかん?』って。無意味に英単語乱用。言いたいだけじゃない。挙げ句とんちんかんて。とんちんかんてなに!?
私はね、デスクに戻ってすぐググったわ。
何が出てくると思う?
掘り下げたらとんちんかんちん一休さんばっかり出てくるのよ!一休さんはかわいいお顔をしてるわ、でもね、あの子は男の子じゃない!
一休さんに似てるってひどい!とんちんかんって言われたあとにクライアントを回る私の気持ちがわかる?
一休さんばっかり浮かんじゃうのよ!?虎を屏風から出してくださいってあの知恵は素晴らしいわよね。とか橋の真ん中を渡る機転は見上げちゃうわ。とかそれでお師匠さんの大切な水飴はさぞかし美味しかったんだわって考えてたら歩道のポールにぶつかって転んだのよ!
もう、しっちゃかめっちゃかよ!
そんなんでお客様のところに行ったら『疲れた顔してるね。大丈夫?』って。
お客様に大丈夫?なんて言われちゃう営業ってどうなのよ。商談が成立するはずがないわよ!でもね、私だってこう見えて一生懸命生きてるのよ!」

愛しいひとをなだめることをあきらめ、ぼんやりとながめ、お師匠さんとは和尚さんのことを言いたいのだろうとタカシの心の内には「満身創痍」という言葉が浮かぶ。

「お前さ。さっきからなんの話をしてるの?俺は今お前のとんちんかんぷりに鳥肌がたったよ。
腕、ほらこれ腕。
脱線にもほどがあるだろ。いよいよお前の天然も末期だな。もう俺は心配しかないよ。
心配しかない。もう。あえて二度言うが。しかもそんな父親に近いような歳の胡散臭い男から誘われて。全身隙だらけ。チャラさも末期だな。
そして一休さんにもあくびちゃんにも失礼だ。謝れ。
ついでに、その、なんだ、役職名が何だっけ?
あー、先輩か。先輩ね。
役職が先輩のカガミ先輩だかカラス先輩にも謝れ。お気持ちお察ししますと弟が言っていたと伝えろ。」
「なにそれ!リョウくんが先に謝りなさいよ!」

両者がもはや何に怒っているのか、不毛な攻防が続き、常、二人のケンカを見慣れているとは言えほぼ一日中パソコンと向き合っていたタカシは肩に重みが増すのを感じる。

「タカシも大変だな。これに付き合って。心中お察しします。まじで。」

リョウが呟いた。
ソノコの涼やかな目をにらみつけながら鼻で憤然と笑いお悔やみをため息に混ぜた。ソノコの頭の中からカチンという音を聞いたタカシが「リョウくん。」と強い声色で呟き、何かしらの気持ちを燃料にして静かに燃えているリョウの、緑がかった瞳を見据える。
「はー?じゃあ、なに?リョウくんはどういう女の子がいいわけ?リョウくんは」
勝ち気で男勝りなソノコが無自覚な天然さのオフェンスで白く華奢なアゴを突きだしリョウに詰め寄る。

すぐそこ。

伸ばさずとも届く距離にいる近い、近くて誰より遠い一生触れることのないその細いアゴを掴み唇をふさぎたいと、それをふさぐのは手の平ではないと、自分がいま握りしめているこの手ではないと、リョウはソノコから視線をそらし、ついさっきまでの口喧嘩とは声色の違う冷えた音で苦々しく握り潰したゴミを捨てるように呟く。「ソノコ。うるさい。黙れ。」

「はい。もうやめ。ご飯にしよう。お腹すいたよ。」
タカシは平静を努めて笑うと、リョウの肩に手を置く。誰とも目を合わさず華やかなテーブルを一瞬見つめリョウがドスンと音を立ててソファに座る。ソノコが鼻を鳴らしてキッチンに戻る。
タカシは壁の時計を確認し、ステーキを眺め、そして、恋人ではなく弟の背中を見つめる。

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