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初等教育に怒る

どこかのエライ人 テレビでしゃべってる
今の若い人には 個性がなさすぎる
僕等はそれを見て 一同大笑い
個性があればあるで 押さえつけるくせに

THE BLUE HEARTSのロクデナシII(1987)より

教育は教える、育てるから成り立つ。
教育と聞くと、僕は何か上から優越的に教えるという踏ん反り返った姿を連想してしまう。教育者という肩書きでメディアに出ている面白みのない人たちが意気揚々と現在の教育について語ってらっしゃる。卑しく、見るに耐えない。1987年から全く変わらない。
子供たちのために、私たち大人(20歳以上とする)は何ができるだろうか?

先人の知識、経験を伝え、思考させること

私たち人類は、過去の先人たちが残したものを伝達することで命を繋いできた。科学、歴史、技術、社会ルールなど大いに伝えるべきだろう。ただ、芸術は異なることは「子供を殺す大人(芸術から考える)」で先述した通りだ。
つまり、私たちは子供たちに教えること、育てることはできない。

できることは伝達であり、育っていくための土壌を作るサポートに過ぎない。

次に初等教育の背景を考える。
現在の教育システムは高度経済成長期のシステムをそのまま移行している。大量生産するための大きな労働力が緊急に必要だった当時は、労働可能な一定基準を満たす人材を大量に育てることが目的であった。それに対し、現在(2019年)は、テクノロジーで代替できない人材が求められており、時代の潮流とミスマッチ。

3つの問題点

1. オール3を求める
三者面談であなたも言われたことがあるだろう。「国語は良いだけど、理科がね...」そして、良い部分よりも悪い部分に多くの時間が割かれていく。真面目なあなたは「国語だけじゃダメだ、理科も頑張ろう」と思う。そうして、平均的な子供の誕生だ。
2. 過度な規律による洗脳
服装、髪型などに過敏になる教員。運動会や卒業式での過度な練習。1人でも規律が守れなければ、連帯責任。規律を破った子は奥で丁寧なご指導を受ける。体罰ではないらしい。集団に過度に合わるという強迫観念を子供たちに植え付ける。人と違うことはリスクであり、違ったものはイジメに合う。
3. 退屈な教員たち
あなたには「この先生のようになりたい」と思える人がいるだろうか?これを社会学者の宮台真司氏は感染と呼び、これを目指す感染動機が内側から湧き上がる最大の力、内発性を与えるという。(宮台真司著「14歳からの社会学」より)  つまり、

単に知識を集めても「単に役立つだけ」のクズであり、すごいものに感染して、それを目指すことで知識を血肉化させ、人格を構成していくことができる。

このように子供の感染の対象になり得る大人が現在どれだけいるだろうか...

提案

1. 授業のコマ数を減らす
子供と教員の拘束時間を減らすことで、お互いに自由な時間ができ、コミュニティの幅を広げることができる。それにより、イジメも深刻化しないのではないか。(SNSによるイジメの対策も必要)

2. 教員採用試験廃止
現在教員になる人は「安定だから」「就活したくない」というモチベーションの場合が多い。面白く、尖った感染させるような人材は稀だろう。親を除いて子供に最も身近な教員が退屈で子供の感染対象にならない大人という状況は危険ではないか。
一般の面白い大人が教員になれなくても、関わる機会を増やす機会は増やせるはずだ。

3. 学習塾との差別化
受験に特化した塾の講義の質が益々高くなり、面白い、尖った人材も学習塾に方が圧倒的に多い。学校の教員に講義の質をもはや求められていないだろう。
では学校はどう差別化を図ればよいだろうか?

学校側は基礎的な授業+多くの大人との交流、そして子供たちが主体的に動くことができる機会を提供してあげるのはどうだろう。学校は地域に根ざしており、塾にないインフラも整っているため、法人やNPO団体なども喜んで協力してくれるはずだ。

今回、私は自由に勝手気ままに語り、その中で重要である「イジメ」や「入試」の視点はすべて省いた。そのため、突っ込みどころ満載である。
このnoteには「キライ」がないため、コメントで意見や反論をして頂けると嬉しい。大歓迎だ。
最後までお読んでくれた全ての方に私の全力の「スキ」を届けたい。







私は変態です。変態であるがゆえ偏っています。偏っているため、あなたに不快な思いをさせるかもしれません。しかし、人は誰しも偏りを持っています。すると、あなたも変態と言えます。みんなが変態であると変態ではない人のみが変態となります。そう変態など存在しないのです。