会社やめた日記

ヘルメスをやめた。
はじめての転職である。

新卒からほぼ丸9年勤めたので、
せっかくなので辞めた直後に日記を書いてみる。
ふりかえると、、長いようで、長かった。そのままの9年間だったと思っている。
あとで読み返しやすいよう、できるだけいい加減なことを残しておこう。

※書き終わったが、長すぎる。ほぼ10時間かかった。
これは人に読ませるものではない。自分の記録用とすることを心に決めた。


▼デザイン

一口にデザインといっても、
グラフィック、プロダクト、インテリア、映像、服飾など
いろんなものがある。

僕のいるグラフィックデザイン業界だけでも
駅張りポスターのような広告系、
パッケージ、販促物などのブランディング系、
雑誌、カタログDMなどページもののエディトリアル系、
企業の経営戦略にも関わるコンサル系などと、結構幅広い。

僕はいろんなデザインに携わってみたかったので、
多ジャンルのデザインに関われる会社に在籍できたのは幸運だった。

パッケージデザインや企業ロゴデザインなど、
やりたかったことを多く経験できた。
特に「おもしろパッケージ」については、
自分の中にメソッドができるほどやり込んだ。

ただ広告デザインだけは、代理店マターな事が多いので、
直クライアントの環境ではあまり関わる機会がなかった。

僕は広告表現が好きである。
面白いし、カッコイイ。

ひと昔前は、デザインとか広告とかは最先端であった。
現在はもうトレンドではないが、
絵作りの技術はいつまでも廃れることはない。

いつかは広告デザインもやってみたいと思っていた。


アタコー

ずっと広告表現に興味があったので、
コピーライティングの講座にも通ったし、宣伝会議賞にも応募したし、
広告系のゲストを呼んだトークショーも運営したし、
毎日広告賞にも朝日広告賞にも応募した。(ちょっと受賞した)

それでも社会人生活の中で、そういう熱もボンヤリと誤魔化されていく。

社会人7年目。2018年9月、気になっていた「熱海広告祭」というイベントに行ってみた。

熱海の旅館に泊まり、広告人の話を見たり聞いたりするのである。
第一線で活躍している人が、壇上で熱く、ときにゆるく語り、
ときに客席でざっくりとした時間を過ごしていた。

僕は一人飛び込みで行ったので(結果的に現地に友人はいたが)、宿泊部屋は適当に割り振られた。
そこでコピーライター和久田昌裕さんと相部屋になれてしまった。奇跡だった。2日間たくさん話し、いろんな制作秘話を聞けた。中島信也さんともお話でき「地鶏に見えへん」にて大御所たちとなぜか僕、という共演を果たした。
日下慶太さんの「UFOを呼ぶ」という催し物が印象的だった。別にUFO来なくても楽しい、という最大の気づきを得た。
もともと「商店街ポスター展」のファンだったが、日下さんのファンになってしまった。サイン本を買った。

広告祭が終わって東京に帰ってきた。

いつもの日常が始まったが、
何か思い出した。


▼学生時代

僕はもともと、岡山の音大でコンサートの企画や運営をする珍しいコースを専攻していた。大学時代はとても楽しかった。専攻以外でも音楽サークルを掛け持ち、演奏会や合宿を山ほどやった。素晴らしい仲間と出会えた。もっとも尊敬する先生からは、飲み会中にトイレに行く人には「行っトイレ」と声をかけなければならないと教わった。

1年生の夏、所属したジャズサークルで先輩がイラレで、バンドの「フライヤー」を作ってきた。
クールなデザインだった。学内では手書きのチラシしか見た事がない。
バンド内の熱が高まった。全員の興奮が目に見えるようだった。

数ヶ月後、僕は自腹でイラレを買い、独学でチラシを作っていた。
デザインによって集客が変わることを体感した。

進路を決める時期に、ふとテレビを見ていると深夜番組「トップランナー」が始まった。
ゲストがアートディレクター森本千絵さんだった。でっかいノートに車のnoteが落書きをしていた。
それを僕がこのnoteに書いていることはいいとして、こんな仕事があるのかと思った。
(というか司会が箭内道彦さんなのだが、それは置いておこう)

アートディレクターになりたいと思った。
せっかくなるなら肩書きだけじゃなく、実力も伴った「すごいAD」になりたいと思った。

調べるとデザイン会社に勤めるには、デザインの学校を出ていないければならないらしい。
大卒で22歳、専門学校に2年行っても24歳、、まぁいいか。
という感じで親のすねをかじりまくり、せっかくなら東京で学ぼうと上京したのである。
寛大かつ、すねの太かった親には感謝しかない。

専門学校では同級生が18歳となる。
そのため、ひとりでも勉強しようと覚悟を決めて行ったのだが、
なぜかその年に限り同い年以上の同期が多く、とてつもなく飲み会がはかどってしまった。
最終的には18歳の同期たちも20歳になりお酒が飲めるので不思議であった。

それでもストイックな仲間たちと本気で勉強したので、
その甲斐あってか幸運にもエントリー1社目で採用を決める事ができた。


▼ヘルメス

パッケージデザインを中心に、ブランディングに関わる制作を行う会社。
化粧品、食品、家電、ホビー、web、ポスター、ラベル、什器、展示会場、ラッピングカー等、なんでも作っている。
2020年に30期を迎え、恵比寿のいいとこに自社ビルを持っており、しかも無借金経営。
一部インテリアの施工まで取り扱っていて、
できるだけ高級感を演出することを目的にしたオフィスは世の景気にも負けずギラギラしている。
面接の際、ここにはバブルが残っていると感じた。

入社後は、デザイン・ディレクション以外にも
撮影、印刷、飛び込み営業、契約、見積、請求、後輩の育成、パワハラ、モラハラ、リモートワーク、
あらゆることを経験させてもらった。
大手企業から個人店まで、さまざまなお客様とデザインで関われた。
直接自分でやりとりをして、世の中の多くを学べた事にはほんとに感謝しかない。
公開してないが、誰もが知るような有名なパッケージデザインも担当できた。

良くも悪くも現場主義の職場だったので、体で多くを学んだ。
一番大切な事は、自分の頭で考えること。
対人関係では、自分のキャラと営業スタイルの違和感をなくすことが重要だ。
(僕がしっくり来た理想系は「執事のような人当たりで、物言いはストレート」であった。)

上も下もみんないい人ばかりで、
仲のいい同期、尊敬する上司と出会えた。
上司の作るデザインはいつもオシャレで、
配属当時に最年少役員になるなど優秀かつ酒乱だった。
昼も夜も深く関わり、多くの戦場を共にした。


会社の印象は、後にも先にも
「営業力のすごいデザイン会社」だった。
基本的にマンパワーの体当たりだ。

ざっくり「営業」を定義すると、
同じ価値のものを高く(または多く)売るのが仕事。
100円のコーラを1000円で売る方法というマーケの本が昔流行ったが
そんな人がゴロゴロいる印象だった。

僕自身は、泣き落としを真に受けて安く売った事もあったが、
少ない売上は関わる人(売る側も買う側も)を不幸にすることを学んだ。

デザイン業務は基本オーダーメイドなので、
安く買えた人はそれ以上の価値を逃さないために要求が細かくなりがちである。
修正が長期間になってしまうと、なんか既製品のスーツに羽を生やしたようなものが仕上がる。
買う側も当初の目的がよく分からなくなってくるのだが、関係上これって作り手の責任じゃね?と感じやすい。
すると売る側も当然、金額と内容でやる気をなくしてしまう。地獄である。
適正以上の金額が動いているときは、こうなりにくいので不思議だ。
(上記は傾向の話である。念のため。)


▼壁

上記の通り、基本的にマンパワーの会社なので
教育なんかは野生の感覚である。

3年目の終わり(2015年)ぐらいで成長の壁を感じた。
モヤモヤしていたので、Facebookで見つけた宣伝会議の
コピーライター養成講座(先輩コース)」の無料体験に行くことにした。
ずっとコピーは勉強してみたかったし、
無料で学べることだけ持って帰ろうと思い、当日まんまと入会した。

阿部 広太郎さん、岩崎 亜矢さん、小藥 元さん、下東 史明さん、という
素晴らしい講師たちと出会えた。(50音順なのだが、全員順番が早い。)
切磋琢磨する友人ができた。
コピーが書けるようになった。仕事が面白くなった。

7年目(2018年)でまた壁を感じた。
阿部 広太郎さん主催の「企画でメシを食っていく」という講座に通った。
毎年様々なジャンルで活躍する10人のゲストを招き、全員から課題を出される。
一生ものの友人ができた。
企画力がついた。仕事が面白くなった。

8年目(2019年)、講座通うの効率いいなと思い
フォトスタイリング2級」「テクノロジア魔法学校」を受講した。

この年、絶対に獲得したいコンペがあった。
これまでに学んだ全てを使い、挑戦した。落選した。
マンパワーの限界を感じた。


▼迷い

僕はチーフディレクターという肩書きだった。
途中で会社が血迷ってリーダーディレクターというカッコイイ名前になったが、翌年にはチーフディレクターに戻った。

目標は相変わらず「アートディレクター」だった。
僕の定義では「デザイン」と「ディレクション」両方のスキルを持つ者が「アートディレクター」だと思っており、
ドラクエで言うと「魔法使い」と「僧侶」を極めし者が「賢者」になるようなイメージである。

ディレクションにはある程度自信がついてきたので、デザイナーのスキルを磨きたいと思い
7年目(2018年)年末に役職変更してくれんかと会社に正式に言ってみたが、年始に断られた。

翌年帰省をして田舎で親戚と話しているうちに、初心に返っていた。
僕の夢は「すごいアートディレクターになること」である。
転職しようと思った。

2020年1月、覚悟を決めた。

決めた途端、コロナが流行った。
絶対に辞められなくなってしまった。


▼リモートワーク

2020年4月7日、初の緊急事態宣言が出された。
それに伴い、弊社では「気をつけながら通常出社」の辞令が発表された。
しかし世間を見て、9日からやっぱりリモートが開始された。

仕事が減ってしまった。
大変なことだ。僕自身も大打撃を受けた。

リモートワークをすると気づく事がある。
業務が減った状態で、外部の影響なく集中してタスクをこなすと
今まで「仕事しているふう」の時間がどれだけあったかということ。
そして、1日の歩数が驚くほど減るということだ。

この時間を有効に使わなければならない。

まずは毎日ふとんを干した。こんなことは在宅でなければできない。
そして、ストレッチと筋トレを始めた。移動時間がないので、毎日続けられた。
こんまりをした。ずっと部屋にいるので片付けがはかどった。
メンタリストDaiGoを聴きまくった。ラジオ感覚である。

仕事に関係ないことばかりのはずだが、
なぜか同じ仕事を仕上げる時間がすごく早くなった。なんでですかね?

5月25日、緊急事態宣言が解除された。
26日、速やかにリモートワークが終わった。

僕はリモート期間中にポートフォリオを完成させた。

コロナがあったことで、
自分がやりたいことをやる前に死ぬ事って全然ありえるんだなと思った。
自分の人生の決裁権は自分で持っていないければならないと感じた。

(※ポートフォリオ:作品集。デザイン業界では転職活動に必要。)


▼やって良かったこと

こう振り返ると、いろんな講座を受けるなど
やれる努力は割とやってきたんだな〜と実感するものであります。
他にもいくつか良かったなーと思ったこと。

・引っ越し
2019年2月に、会社から徒歩圏内に引っ越してみた。
早く出発した日に限って遅延して遅刻するとか、
毎朝知らんおっさんと密着するとか、電車が嫌になったので思い切ってみた。
かなり解放された。運良くコロナ対策にもなった。

・オーディオブック
毎日、片道徒歩25分の時間ができたので耳でインプットしようと考えた。
活字を読むのが遅いので、一石二鳥だった。かなり自分と相性が良かった。
メンタリストDaiGoを自分でも驚くほど聴く事になるが、のちに有料会員になることはまだ知らない。

・SNS
仕事の実績を問題ない範囲でアップするようにした。
東京の知人はだいたい僕の仕事を知ってくれていたが、
地元の愛媛、大学の岡山からの反応が思いのほか多かった。
アップするたびにそれ買ったよ〜と連絡があるのは、本当に嬉しい。
特に愛媛ではいじられるポジションだったので、ちょっと見直されている感じがしてホッとしている。

・スタンディングデスク買った
電動のやつ買った。座ってもいいし、立ってもいい。
すこぶる調子いい。みんなも買った方がいいと思う。


▼泣いてしまった

7年目ぐらいのある日の飲み会、遠くの席で酒乱の上司が
「会社で誰のディレクションが良いか」という拷問を始めた。

そのとき後輩たちが揃って、僕のディレクションがわかりやすいと
言ってくれていたことをその後聞いた。

僕は、そのとき泣いてしまった。

ずっと認められなくて苦しかった。上司の壁も分厚かった。
とにかく言語化にこだわって、一歩上の世界を目指していた。

やっと自分に自信がついた瞬間だった。


▼自分じゃなかった

ディレクションは好きだが、また自分で手を動かしたいと思っていた。
ずっと。
デザイナーとしてスキルを磨きたい。

コピーや企画力など、周辺のスキルが身についた事は喜びだったが、
いちばんやりたいことをやらずに、その近くに立っていた。

君の仕事は? どんなことをやってるの?

聞かれるたびに、本当はやりたいことあるんだけど、という気持ちを抱えていた。
昔は気が狂いそうなほどの激情だったが、最近では感情の波が起きなくなっていた。

社内ではチーム編成の都合により、若いデザイナーをなんとか戦力にする、
というポジションに長くいた。
必死にやって、なんとかし続けていたので、尚更そのポジションは揺るがなかった。
僕はもっとハイレベルなデザインを突き詰めていきたかった。

誰と話しても、何を話しても、そこに本当の感情はなかった。
自分イコール自分ではなかった。

立っている場所が、こうありたい自分の位置とずれている。
宙ぶらりんに浮いたままの自分が、その場所で会話をしている。
つまり全部嘘だ。
誰かが喋っているのと同じだ。

そんな器用なことを長年続けていると、感情は揺れなくなり
正しいか正しくないか程度の価値観しか働かなくなった。


上記のように、とんでもなくダークネスな感情を抱えていた。
いやーこれは病んでますな。
ようやくやりたいことができる!となると、気持ちは変わってくるのです。

6月から転職活動を始め、9月に採用が決定した。
念願の、広告系グラフィックデザイン制作会社でデザイナーになる。

色々あって退職が2月末に決定し、出がらしの半年を過ごした。
このダメ押し半年間はキツかったーーー。義理人情で押し切った。


▼心が燃える

やりたいことができるよ!
と言われると、誰でもワクワクするはずだ。

感情を撲殺していた僕も、もともとは情熱野郎で野心家な方であった。
転職が近づいて、将来のことを考えていると

メラッ

と、久しく感じていなかった衝動が湧いているのに気づいた。

年始に積読になっていたサイン本(おい)、
日下慶太さんの「迷子のコピーライター」を読み始めた。

泣いた。

商店街の店主たちが面白いポスターを抱えて涙する姿、
そう、デザインってのはこういう力があるんだよ。
やっぱりやりたいことをやらなきゃいけない。

そのためには様々な努力や勇気が必要になると思うが、
やりたいことのためなら多分乗り越えられる。

まぁ本当は新たな環境で働き始めるまでどうなるか分からんのだが、
一歩ずつやっていこうと心に決めているのである。

色々と遠回りな進み方をしたが、そんなに後悔はしていない。
なぜなら、岩崎亜矢さんからもらった、大切にしている言葉があるからだ。

「遠回りをしたからこそ、自分だけの価値観がある。」


言葉はつよいね!

旅行も行けないので、2週間の有給は全日程ゴルフのレッスンを入れてみた。ウケる。
3/1から新たなスタートじゃ!

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