十二国記と小野主上へのクソでか感情(短め)

 

 今日は楽しみにしていた連休初日で、お菓子を買い込み、好きな本を用意し、ちょっと豪華な朝ごはんを用意していた。
爽やかに休日の朝を始めようとしていた。

 起きていつものように携帯の通知を確認していたら、某靴屋と芸人がコラボした動画を見た。見てしまった。公式の見解としてはこの動画への批判は逆差別だとのこと。それは、何度議論されたものだろうか。何度同じことを繰り返すんだろうか。

 最近、子どもの頃に夢中になっていた漫画を沢山読み返しているんだけど、中々にしんどい。
私の大体の愛読書は、自分が生まれる前か生まれた頃のもので相当古い。なので、ストリーの背景にある作者の感覚も、オールドスタイルなことが多い。ミソジミーの内包や名誉男性的な感覚で、女性キャラクターが描かれていることも多い。作家の女性自身が、自分で女性キャラクターを貶めている姿を見るのは辛い。

 ここで思うことは、差別や偏見や軽視はどこにでもあって、何だかみんなナチュラルに標準装備しているんだな。勿論そうでない人を沢山知っているけど、これは寧ろ幸運なことなんだ。

 前置きが長くなったけども
 私の愛読書の一つに、小野不由美先生の著作、十二国記シリーズがある。この作品群と私の出会いは中高生(記憶が定かでない)の時代に遡る。
当時、その圧倒的な厚みを感じさせる世界観、多くの人が共感できる心理描写や、重厚なファンタジーに度肝を抜かれた。数年かけて最新作まで読み進め、その後も折に触れて何度も読み返した。昨年、久しぶりに新刊が出たときは、「こんな読書体験は、生きてている内にあと何度できるだろうか」とさえ思った。

 十二国記の特徴的な世界観に、「生き物は母親から生まれず、木になる」というのがある。人間も動物も植物も妖魔も神獣も、木から生まれる。これに付随して、ジェンダーロールは物語の中で一切と言っていい程登場しない。生理・出産に関しての血の穢れ思想もないので、これによる神事や職業への制限もない。
その世界は、私には桃源郷のように思えた。ナウシカが腐海の底で、完全に浄化された土に触れて感動したように、私にも十二国記の世界は地獄の中で、いつかあるはずの希望のように感じられた。

 今朝、神考察師の方が仰っていたのだけど、十二国記の前日譚である『魔性の子』では、男子校が舞台だが
・「メインキャラたちから恋愛や性の話題は殆ど出てこない」
・主人公高里の異質性の強調のために、高里がホモソ的な話題に入れない というような場面がない。(要約)
・メインキャラのパートナーについて、存在は語られるが関係性や性別が特定できない、ニュートラルな表現が用いられている。(要約)

 この指摘を読んで初めて思い至ったのだけど、小野先生はたまたまそうしたのではなく、ファンタジーに集中させたいとかでもなく、突飛な設定でアピールをしたいとかでもなく、考えて必要性を理解して十二国記からジェンダーを排除し(白銀の夕麗は指摘)、差別のない本来あるべき社会を提示したんだ。
これは、日本や世界が抱える性差別の問題、ジェンダーによる抑圧への問題意識があるからこそなんだと思う。なんて尊くて稀有な存在なんだろうと、朝の一連の疲れを経た後に思う。

普段から色んな世代のさまざまな生活状況の人を目にするが、びっくりするほどナチュラルに差別的な発言を発している。何度も議論されて何度も批判されているはずのことを繰り返す。それらは無知から、時にはストレス発散のために、自分の感情のために誰かを貶めて社会の差別構造の保持に加担している。
小野主上が数十の著作の中で、これらを思考と調査と意識によって注意深く排除し、安心して楽しめるエンタメを提供してくれている。そのことに深く感動した。

終わり

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