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瞑想により失ったもの

朝5時に起きて本尊様にお茶と温かいお湯を供え

それからすぐに坐禅をする。

本山での修行時代は坐禅により瞑想状態になることでなにか特別な境地に至ることや、自分でないモノに生まれ変わることを期待して坐っていました。

結果、得られるものは何もありませんでした。

しかし、失ったものは沢山あることにある時気づきました。

それは怒り、不安、落ち込み、自身の無さなどです。

厳密には失ったっというより、それらが所詮は本質程な現象ではないと気づくことで、引きずらなくなったという感じです。

あらゆる事象への過剰な反応もその一つです。

心はすぐにあらゆることに過剰な反応をして、悪さをします。

怒りも、不安も、全て自分が作り出したモノです。

しかし私たちは、生みの親であることを忘れ(或いは気づかず)まるで本質的な、普遍的な事象化のようにとらえてしまいます。

しかしながら、心をココロでどうにかすることは不可能です。

それならばとカラダを使って心にアプローチをすることが坐禅です。

人は、頭ばかりで生きていると勘違いしています。

私たちには体があります。当たり前ですが。

マインドフルネスで行われるボディースキャン(ボディースキャニング)は頭のてっぺんからつま先までの極めて細かい感覚をとらえ、おろそかにされている体の感覚に今一度気づく作業です。

『本来無一物』坐禅の大先輩である達磨大師の言葉です。

私たちが一喜一憂している感情は私たちが作り出している子どもたちです。

そうゆう意味で、本来何も無いのだから、心にとらわれることはないよ。というメッセージです。

何も感じないみたいでとても冷たいように思われるかもしれませんが、段階的には

感動→静感動→無感動という順番に起こります。

感動よりはるかに深い感動とも言えます。

とはいえ、何事にも過剰に反応してしまうのが私たち凡夫です。

この厄介なワタシと上手に付き合っていかなければなりません。




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