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北の海の航跡をたどる~『稚泊航路』#13 樺太の玄関口『大泊港』

樺太への定期航路は、1905年(明治38)8月21日、日本郵船(株)「田子浦丸」(764㌧)を就航させ小樽~大泊間の航海を行ったのが始まりです。運航は、毎週1回の夏季だけ。1910年(明治43)4月、逓信省の航路補助を受け命令航路となります。

田子浦丸 Tagonoura-maru

同じく大阪商船も1909年(明治42)2月に「大禮丸」(1240㌧)を大泊及び樺太・西海岸へ配船しましたが、稚内が樺太との海上交通体系の要として組み込まれるのは、もう少し先の話です。

大禮丸 Dairei-maru

大泊は、樺太開発の拠点として日露戦争後の北緯50度以南領有直後から移民とそれに伴う物資の流入の必要性から命令(公的)、自由(民間)各航路の拠点あるいは、最も重要な寄港地として発達し1909年(明治42)3月には、外国貿易を開始しましたが、それに比べると稚内は、陸上交通(鉄道など)の発達も遅れ、海上交通への依存度が高かったにもかかわらず、港湾の不備など受け入れ態勢が脆弱であったので、北海道北端の単なる一寄港地扱いにすぎませんでした。

大泊港空撮写真

1883年(明治16)以前の稚内は、汽船(蒸気機関を動力とする大型船)の来航がほとんどなく、あっても和船(弁財船や川崎船)ばかりが大勢を占めていました。

政府は、共同運輸会社に命じ、宗谷地方に汽船航路を開設させます。
しかし、春秋だけ、毎月多くても2回程度でした。


その後、日本郵船会社が北海道庁の命令航路として1901年(明治34)5月13日、小樽を起点として稚内・網走線を開設しましたが、運航回数も少なく、風雪・流氷のために航海は、しばしばキャンセルされる状態でした。

1911年(明治44)8月、日本郵船会社が樺太庁命令航路として稚内~大泊間に航路を開設します(1920年/大正9年10月廃止)。
同社は、「北見丸」(728㌧)を配船し、夏期に12回の定期航路が始まりました。

このあと、北海道庁の命令航路として北海郵船会社が、小樽~稚内線を開設して「大典丸」(651㌧)を就航させましたが、更に大泊まで延長します。この稚内~大泊間は、樺太庁が航海補助を行いました。

1920年度(大正9)における日本郵船会社の就航状況は、「北見丸」1隻で毎月2回を5月から12月まで合計12航海、毎月3日、14日を大泊発としましたが、冬季は休航しました。
しかも、同社は、1920年(大正9)10月、10年間運航した稚内・大泊線を廃止したため、この区間は、再び、北海郵船会社による寄港地としての地位に落ちてしまい稚内から大泊への利便性が悪くなりました。
このことが定期的な稚泊航路開設を求める理由の1つになったと言われています。

そして、鉄道が1920年(大正9)11月1日、鬼志別まで開通しましたので、稚内の陸上交通の充実(稚内までの開通)は、目の前に迫っていたのです。

大泊

大泊は、アイヌ語の地名パッコトマリ(山下町)、クシュンコタン(楠渓町)、ポロアントマリ(栄町)及びロシア語名コルサコフ(山下町、東シベリア総督名)の総称で1908年(明治41)3月、内務省告示により『大泊』と制定されました。

江戸時代より樺太経営は、大泊を中心に行われ、樺太の歴史は、大泊の歴史といってもよく、特色のある存在でした。

1905年(明治38)北緯50度以南が日本領となり諸産業の振興とともに豊原(現 ユジノサハリンスク)を中心とする広大な農業地帯と埋蔵量豊かな炭田が控える好適な立地条件をもつ『樺太の玄関口』としての役割を果たしました。

汽船甲板より大泊港を望む

北海道~樺太間の旅客・貨物輸送は、主として小樽~大泊間の定期航路に依存していましたが、海上距離が長く、運航も荒天・流氷など自然条件に左右されるという問題点がありました。

1923年(大正12)5月1日、稚泊航路が開設されると輸送形態が大きく変わります。
さらに「亜庭丸」「宗谷丸」の高性能船が就航し、稚泊航路は、名実ともに樺太交通の大動脈として樺太開発に大きな推進力を与えることになったのです。

大泊港口

大泊港の港湾設備は、1920年(大正9)から1928年(昭和3)にわたる第1期修築工事が施工され「大桟橋」完成とともに稚泊航路の旅客・貨物輸送は、不便な艀(ハシケ)輸送から解放されました。
続く1934年(昭和9)から15年におよぶ第2期工事が計画着工されましたが、終戦によって計画は崩れ去ります。

大泊港駅鉄橋

連絡船への乗下船

大泊における連絡船の乗下船は、航路開設当初は、稚内と同様にハシケを使用していました。
港湾計画は、まだ始まったばかりで、係船部(岸壁)がやっと計画の6%、24.5mが出来上がっているだけで、存在しないも同然でした。
しかし、「北船入澗」は、1912年(大正元)に整備されており、1925年(大正14)4月、ここに鉄道省経費で大泊営業所が開設されます。

大泊港桟橋

この営業所が待合所も含めた桟橋業務を行い、大泊駅(鉄道駅)にも、わずか200m離れているだけで、旅客は、陸上においては、稚内のように不便さを感じることもなく徒歩で、ここを往来し、馬車や人力車を使用することは、なかったのです。

大泊駅と市街夜景絵葉書

しかし、海上では、連絡船の位置は、水深と船の喫水の関係で北船入澗から1200m離れた沖合に停泊していたため(稚内港の場合は600~700m)、厳寒期のハシケ輸送時の寒さは乗船客にとって非常に厳しいものでした。

1月になり氷が厚くなると旅客は氷上を歩きました。貨物も馬橇や犬ぞりで運搬されたのです。
これが大泊港の名物『氷上荷役』です。

大泊港での『氷上荷役】

この氷上荷役で重要な役割を果たした犬ぞりは、冬の樺太における陸上輸送の要でもありました。氷上の積載能力、速力は素晴らしく、13頭曳きで100~150キロの荷物を積み、1日5~60kmの行程を楽にこなしたといいます。その犬たちが、やがて、戦後の南極観測で華々しい大活躍をするとはこの当時、誰も考えなかったでしょう。

樺太犬に犬ぞりを引かせる訓練

1928年(昭和3)8月31日、大泊港突堤が完成します。
同時に大泊港駅上屋も新築され、線路や橋梁の敷設が行われます。
大泊連絡待合所が同年12月15日から大泊港駅として開業します。

大泊駅から大泊港駅まで1.6kmの線路が敷かれ、ホームにすべり込んだ列車の旅客は、階段を上って、まっすぐに待合室に入り、タラップからの乗船ができるようになりました。

大泊港駅岸壁に係留される連絡船『亜庭丸』

大泊港駅は、近代的設備を備えた建物でしたが、1934年(昭和9)12月、焼失し、翌年1935年(昭和10)5月3日に再築に着手され、12月20日新駅として営業を再開しました。

大泊港鉄道駅待合所と鉄橋(現在、上屋と鉄橋の上部と横側の鉄骨はないが線路が残っており使用されている)

この駅は、樺太の表玄関として鉄筋コンクリート造りの3階建ての総タイル張りとして偉容を誇り、海上から眺める姿は、『大泊の浮城』といわれ、樺太に一歩を印す人々の目を引いていました。

大泊港駅上屋

1945年(昭和20)8月15日以降

1945年(昭和20)8月15日、天皇陛下による終戦の詔勅がラジオ放送(玉音放送)され、戦いは終わりました。

樺太では、ラジオ放送前の8月13日から緊急疎開措置にもとづく”内地避難”が始まっていました。数少ない貨物船や特務艦などが大泊港に集結し、宗谷丸も、その戦列に加わり疎開船となっていました。

その頃、北緯50度線の日ソ国境付近では、いまだ戦闘が続いていました。
戦闘地区住民たちは、南の大泊港を目指します。
8月22日頃より避難民が大泊港の埠頭にあふれだし、乗船定員を超えた輸送が船長の責任において行われていました。
8月22日、日ソの停戦協定が成立。ソ連側から船舶の航行、輸送停止命令によって緊急疎開が打ち切られます。

よって、あらゆる船舶を動員しての内地輸送は中止となり、稚泊航路においては、8月23日午後10時頃の大泊港から定員の6倍近い4500名を乗せた『宗谷丸』(旅客定員790名)が稚内港に向けて出港したのが最後の航海となりました。

以後、大泊港から稚内港への定期航路は終了となり稚内桟橋駅同様、大泊港駅も廃止となります。

大泊港への日本船籍船による定期航路が再開設されるのは、半世紀以上も経過した1999年(平成11)東日本海フェリー(現 ハートランドフェリー)所属の『アインス宗谷』(2267㌧)の就航を待つことになります。

サハリン・コルサコフ港に縦付け(船尾を岸壁に対し直角に係留)により着岸するアインス宗谷(東日本海フェリー時代)。戦前、大泊港駅があった場所には、ガントリークレーンが2基設置され当時の線路は”現役”で使用されている

参考・引用文献
・「稚泊連絡船史」 青函船舶鉄道管理局 発行
・「稚内駅・稚泊航路 その歴史の変遷」 大橋幸男 著
・「北海道鉄道百年史」 日本国有鉄道北海道総局 発行
・「サハリン文化の発信と交流促進による都市観光調査報告書」

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