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サムライの珈琲とストーブ~#2 ロシア初の使節


2.ロシア初の公式使節、根室来航

1778年(安永7)ラストチキンらが初めて松前藩と接触してから14年後、日本に対するロシア政府の最初の公式使節アダム・キリルビッチ・ラクスマン(1766~不明)と日本人漂流民・大黒屋光太夫(1751~1828)磯吉(1766~1838)、小市を含む乗組員42名を乗せた帆船「エカテリーナ号」が、現在の根室港に到着します。ロシア歴1792年10月9日(和暦:寛政4年9月3日)のことです。

『エカテリーナ号(エカテリーナ2世号)』  全長33m。乗組員42人のブリッグ船(2本のマストがあり、その内1つ/通常マストに横帆を備えた船。ラクスマンは、父親であり大黒屋光太夫らにとって日本帰国に尽力してくれた恩人でもあるキリール・ラクスマン(アダム・ラクスマンは次男)の見送りを受けロシア暦1792年(寛政4)9月13日、帆船(ブリッグ船)エカテリーナ号でシベリアのオホーツクを出発、翌月10月9日根室に到着する(現在の暦では、1792年9月24日オホーツク発、10月20日根室入港となる)。エピソードが残っている。エカテリーナ号の乗組員を探す際、シベリアにはいなかった。要するに船を操船できる船長や航海士、甲板員がいなかったのです。イルクーツク総督がなんとか見つけ出したのは、技術的に劣る信頼しがたい人間たちだったようです。このようなことからも当時のロシアは海洋国とは呼べない状況にあったと推察できます。当のラクスマンも海軍中尉ではなく、陸軍中尉だったことからもわかります。
『大黒屋光太夫と磯吉』  ロシアに漂着して帰国できた者は伊勢白子(現 三重県鈴鹿市)の船頭大黒屋光太夫、磯吉、小市が最初だった。彼らが日本に戻ることができたのは、本人の意思の強さだけではなくキリール・ラクスマン(アダム・ラクスマンの父親)との出会いがあったから。これがなければ全員、ロシアの土になっていたと思う。人との巡り合いの不思議さを感じる。光太夫らは、キリール・ラクスマンの尽力により漂流より10年振りに日本の土を踏むことになるのです(小市は上陸を目前に病死)。2018年(平成30)10月、大黒屋光太夫の人生をベースとしたオペラ「光太夫」がモスクワの国際音楽会館で上演されています。

当時の根室は、松前藩の役人、商人、アイヌ人の人々など数十人が暮らす小さな集落でした。

『アダム・キリルビッチ・ラクスマン』 ロシア陸軍中尉。名前のキリルビッチは、父称で父親の名前である。大黒屋光太夫ら日本人漂流民を送り届け、日本との通商については残念ながら幕府より満足する回答は引き出せませんでした。ロシアに戻ったラクスマンは、1794年エカテリーナ2世に謁見。日本に関する書物やお土産を献上します。女帝は、大いに喜んでラクスマンは、大尉に昇進しています。その後、女帝の死去により失脚した可能性がありますが、1806年「ラクスマン日本渡航日記」を出版していますので、少なくとも、この年までは、生存していたと考えられています。ラクスマンが日本から持ち帰った品や標本は、ロシア初の国立博物館「サンクトペテルブルク人類学・民族学博物館クンストカーメラ」のコレクションに加えられました。

使節団は、幕府からの通商(交易)の正式回答を待ちながら根室で約8ヵ月間、待つことになります。その間、翌年1793年(寛政5)4月2日に漂流民の1人、小市が病死します。日本の地を前にして、さぞかし無念だったと思います。その9日後の4月11日にエカテリーナ号乗組員であるセミョーン・マホーチンも亡くなっています。
彼らの死因は、「水腫病」(壊血病)だったと言われています。のちに宗谷警護を担った津軽藩士たちの死因と同じです。

ラクスマンの日記によると小市の治療は、日本人の医師が担当したと記録されています。小市はロシアで同じ病気を罹った際にロシア語で「チェルムシャー」(日本語名ラムソン)というユリ科の植物で野生のニンニクで治療したことがあったようですが、当時の日本人医師は、水腫病(壊血病)を全く知らず煎じ薬や鍼(はり)での施術を行うばかりで適切な治療が行われなかったと記しています。

『ラムソン』  ロシア語名は、チェルムシャー。見た目は、日本のギョウジャニンニクとにている。香りも同じことからギョウジャニンニクとして紹介されることもある。しかし正確にはギョウジャニンニクと同じくネギ属の植物ですが別種といわれています。


小市の遺体は、日本式で根室の海岸に埋葬されたとありますが、現在、その埋葬場所は不明です。しかし、1992年(平成4)根室市内西側の「西浜墓地」にラクスマン来航200年を記念して小市の慰霊碑が建立されました。

また根室にやって来た松前藩士鈴木熊蔵もセミョーンや小市と相前後して死亡しています。しかし、死因は特定されていませが、恐らく、他の二人と同じ病気だったと考えられています。

『小市慰霊碑』の案内図  小市は、1893年(寛政5)4月2日に死亡します。日本風に根室の海岸に埋葬されたとされますが、現在、その場所は不明。市内西側の「西浜墓地」に1992年(平成4)ラクスマン来航200年を記念して小市の慰霊碑が建立されています。 出典:根室HP                 

幕府は、使節を丁寧に処遇せよと命令を出しており(のちのレザノフ使節に対する対応とは大きな違い)、冬が近づいていたのでエカテリーナ号を弁天島に係留させ、乗組員42名は、根室に上陸して松前藩士たちと協力して越冬用の建物を建設し一緒に越冬しています。
11月5日に施設が完成し乗組員らが上陸しています。ここで翌年の6月15日までの8ヶ月間を過ごすことになるのです。

『ラクスマン根室冬営の図』  結氷した根室海峡を数名で荷物が積まれたソリで弁天島に係留されているエカテリーナ号(左端)へ向かっているのが分かります。右側が冬営施設。煙が立ち昇っているのがロシア人乗組員施設、その左隣約100m離れた施設が運上屋です。恐らく、ここに松前藩士やアイヌ人などの日本人が詰めていたと思います。高床式倉庫のような施設も確認できます。
『ラクスマン根室冬営の図』  ロシア人乗組員施設の拡大図。煙が立ち昇っている建物が寝起きしていた施設でしょうか。写真上部には大砲のようなものが確認できます。他の施設の用途は不明(水兵専用の施設?)ですが、ロシア人が大好きなサウナの施設もあったのでしょうか。図中には、恐らく山羊(ヤギ)と思われる2頭がいます。当時の日本では、とても珍しい家畜だったと思います。もしかすると松前藩士は、ヤギの乳をロシア人乗組員から飲まされていたかもわかりません。

ラクスマン使節は、幕府からの回答を待っている間、根室の越冬宿舎で日本人(松前藩役人?)と情報交換を行っています。ロシアと日本の地図をお互い模写したり、船の模型や日本語とロシア語の辞書を作製したりしています。
ラクスマンは、ロシアへ持ち帰るための植物や鉱物を熱心に採集もしています。標本の数は、206点にも及んだといいます。

■スケート初めて物語

ロシア人たちは、凍結した根室港でスケートをして楽しんでいます。これが『日本で最初のスケート』とされています。

『結氷した根室港でスケートを楽しむロシア人乗組員の図』  下記の図の説明文には、スケートを楽しむロシア人乗組員のスピードは鳥のように早いと記載されています。そのスケート靴は鉄製の刃の上に木製?の楕円形の皿状の部分に足を置くようになっており、その皿に付いている紐で足を固定したようです。カタカナで「コーニキー」と書かれていますが、これは、ロシア語でスケートやスケート靴のことだと思われます。正確には、コニキーと現代でも発音されます。

■レザノフ使節との違い

ラクスマン使節と後のレザノフ使節の対応が決定的に違っています。
これは、ラクスマンの父親が学者であり、その影響を息子のアダム・ラクスマンが受けていると思います。心の余裕や日本への知的好奇心の深さを感じます。
一方、レザノフは、現代風に言えばビジネスマンであり、いかに自分の利益のために、どのように日本を利用するかを考えていたと思います。
それが日本の理不尽な対応で実現できないと分かった時、それは大きな怒りとなって爆発したのです。

■幕府の対応

1793年(寛政5)5月、日露間で本交渉が行われる松前への移動について話し合いが行われます。
幕府側は、ラクスマン使節が江戸に向かうことを恐れて、船での移動を許可しませんでした。その後、1ヵ月に及ぶ交渉の結果、砂原(さわら/現 森町)までは日本船が同伴することでロシア船(エカテリーナ号)で、そこから松前までは、日本人護衛150人に守られて陸路で移動することで合意します。

松前に向かうロシア側代表団

1793年(寛政5)6月、ラクスマンや漂流民など12名が松前で幕府の使節・石川忠房(1756~1836)、村上義札(1747~1798)と3度にわたり会見します。

ラクスマンは、国書を朗読(幕府に受理は拒絶されたが、その場での朗読は許可された)して通商を求めましたが幕府は、鎖国を理由に受け取りを拒否、長崎が唯一の通商窓口であることを通告して長崎の入港許可証「信牌」(しんぱい)を交付します。

日露交渉が行われた松前藩浜屋敷の警備図

12年後、この「信牌」を持参して長崎へ入港してくるのがレザノフです。

ラクスマンは、同年9月、シベリアのオホーツクへ帰着。翌年、ペテルブルクで皇帝エカテリーナ2世に報告しています。彼が幕府からロシア皇帝への贈り物として持参した日本刀3本を献上すると、皇帝は、それをラクスマン家の家紋に描くことを許します。

『ラクスマン家の家紋』  右側の3本が日本刀

■ラクスマン来航の影響

1793年(寛政5)6月に幕府の役人に引き渡された大黒屋光太夫と磯吉は、江戸に送られ、9月に第11代将軍・徳川家斉に謁見しています。
しかし将軍は、御簾(みす)の中にいて、二人に直接、質問することはなかったといいます。
その後、小石川の薬園で生涯、軟禁状態に置かれます。但し、蘭学者や役人との会談は許されていました。
高橋景保(1785~1829)監修の「万国地図」の作成を手伝ったりしています。

当時第一の蘭学者といわれた桂川甫周(1751~1809)が光太夫の談話を筆記して「北槎聞略」を著します。
光太夫の正確詳細な観察は、ロシア事情を日本に伝えたばかりでなく、18世紀末のロシア研究資料として世界より評価されています。

日本にロシア語を伝えたのも光太夫といえます。
松平定信も家臣を光太夫の弟子としてロシア語を学習させ、光太夫について2年間ロシア語を勉強した馬場佐十郎(1787~1822)は、1813年(文化10)蝦夷地・松前に抑留中のロシア船デイアナ号船長・ゴローニン中佐(ゴローニン事件)から足立信頭(あだち しんとう)と共にロシア語を学び、ゴローニンの口述から「魯語文法規範」を作成しています。
佐十郎は、1808年(文政5)中川五郎治がロシアから持ち帰った「種痘書」を和訳しています。

光太夫が書くロシア文字は、当時の有識者に好まれ、求められて多く書いたといいます。文字の意味は、判らないが珍重されたようです。
現代もTシャツの胸部分に書かれた英語のフレーズの意味を知らずに着て外国人が驚くという構図と似ていますね。

ラクスマンの蝦夷地来航によって初めて日本の国情がロシア政府に報告されたので、ロシア人の日本に対する関心は、北太平洋開発のために非常に高まってくるのです。

これを背景に、1804年(文化元)ロシア政府は2度目の遣日使節としてレザノフを派遣します。


◼️史跡など

ラクスマン来航を記念して根室市役所隣の「ときわ台公園」には、根室出身の銅版画家池田良二氏製作「歴史の然」という、ユニークなモニュメントが建てられている。
また、根室市の資料館である「歴史と自然の資料館」(根室市花咲港209)には、ラクスマン来航や大黒屋光太夫に関する資料が収集、展示されている。

『歴史の然』  ラクスマン来航を記念したモニュメント。根室市のときわ台公園にある。


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