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ばんめしのねこ 1

 男がネットカフェに着いたのは、日が変わるまであと1時間ぐらいの頃であった。
男は覇気のない薄い顔をした茶髪の受付男に空室を確認し、朝7時までの時間で個室に入ることにした。茶髪の男は料金を提示すると、男は手早くカードで支払いを済ませ、自分の個室に移動した。

 ネットカフェの個室とは ー その男にとって、個室という言葉で表現した世の「個室」の中で、最も居心地が悪く、印象が良くない「個室」である。そして無聊であった。というのも、男は漫画を読まないし、ネットカフェを利用するのは終電を逃した時など、仕方なくその場所にいなければいけない状況に限るとしていたからだ。個室のリクライニングシートではまず熟睡できないし、大体、ドリンクバーにも、膨大な本、雑誌、漫画にも魅力を感じない。不特定多数の人が近くでせわしなく出入りしていることも、なんだか苦手であった。

 男は個室に着くと、狭い部屋の隅にデイパックを投げやり、やれやれ ー といった感じでため息をついた。男はカバンから小銭を取り出し、小さな手提げに下着とTシャツ、短パンを入れ、受付に戻った。男はさっきの茶髪に二百円のシャワー室の利用代金を支払うと ー 少し伏し目がちになりながら ー シャワー室に向かった。

 男の腕時計の針は、既に23時を回っていた。そのネットカフェは盆という時期的なことが関係しているのか、普段からそうなのか定かではないが、それなりに人が入っている様子である。少しダークな雰囲気の大学生のような男が、棚の前をウロウロと徘徊し、ダークな微笑みを浮かべながらダークな漫画本を吟味しているのが見えた。傍にあるカラオケコーナーからは、防音が効いていないようで、酷く下手な歌声があたりに寒々と漏れ聴こえていた。
 男はシャワー室に入ると、置いてあった無料の歯ブラシ ー 少しでも力を入れてしまうと、すぐに折れてしまうようなペラペラの安物 ー の袋を破ると、歯を磨きながらシャワーを浴びた。

 8月の半ば、盆の半ば。男はその日、旧友に会うために埼玉から東京に出てきていて、18時頃から居酒屋やバーを回って、汗をかいては乾き、また汗をかくことを繰り返していた男の体は、ノズルから吹き出す熱い湯を大いに歓迎していた。全身に流れ広がっていくあついシャワーの湯の感覚が心地よい。男は深く酔っていたわけではなかったが、その時改めて飲酒による全身の脱力感と、一日分の疲労感を感じた。湯を浴びながら排水溝に口の中のものを吐き捨て捨てると、そのままシャワー室でうがいし、髪と体を洗った。男は幾分爽快な気持ちになりつつ、体をタオルで拭い、そのまま手早く着替え、シャワー室を後にした。

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 やっと息が抜けた ー と、満足しながら、男は自分の部屋に戻ることにした。明日も盆。リクライニングシートでは深く眠れないことを承知していたので、始発までカバンの中の文庫本を読むか映画でも観て時間を潰そう…と考えつつ、シャワー室を出た。気分は随分と爽快になっていた

 シャワー室のある通路を抜け、個室や本棚、ドリンクバーが並ぶメインスペースに戻ると、先ほどと変わってあたりは静まり返っていた。人は見当たらなかった。男は気に留めず自身の個室に向かった。

 途中、先ほどの茶髪が「けけけ」と何か壁のあたりの方に向かって薄ら笑いを浮かべながら、ドリンクバーの備品を入れ替えているのが見えた。男はその茶髪に無関心を装いつつ通り過ぎ、自身の部屋の扉を押し開いた。男は疲れていたので、一刻も早く、ゆっくりしたいと考えていた。

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 しかし、男の思いとは裏腹に、そこである「事件」が起こった。あるいは、起こっていた。
 扉が開いた時、男はたじろいでしまった。

 穴、である。

 黒々とした大きな丸い穴 ー が、床にすっぽりと空いていた。無論、先ほど男がこの個室にいた時は、この穴はなかった。穴は個室の半分以上を占める大きさで、人一人入るような大きさであった。そして、先ほどまでここにあった、リクライニングシートはなくなっていた。穴の下に落ちてしまった…というのが、自然な発想だろう。奥の壁にくっついているPCテーブルと、そのテーブルの上のPCや備品はそのまま残っているようだった。

「え…?あれ…」

 男は思わず、ぼそりと呟いた。静かに立ちすくんだまま穴を見下ろしてみたが、穴の先には何も見えなかった。そこには暗黒の闇が広がっているだけ。男はかがんで ー 落ちないように気をつけながら ー 改めて奥を凝視してみた。

 男はその時、二つのことに気付いた。
 一つ目は、リクライニングシートのほか、自分のカバンも個室から消え去っていたことである。おそらく、この穴ができた時に、一緒に落ちてしまった可能性が高い…。そしてもう一つは ー かがんで見て分かったが’、どうも穴から数十センチほど下の穴の壁面から、「縄はしごのようなもの」が壁に引っ掛けてあるのが辛うじて見えたのである。その「縄はしごのようなもの」はここから腕では届かないが、足を引っ掛けるには容易な距離。それを使えば、下の方まで降りれるかもしれない。

「…」

 なぜ、突然できたこの穴に縄はしごがあるのか?一体なぜこの穴ができたのか?どういう理由で?

 男は疲れていて、しかも酔っていた。あまりに突然のことだったので、どうしていいかわからなかった。男はその「縄はしごのようなもの」のあたりを呆然と眺めていると、背後から足音が聞こえた。

カツ、カツ、カツ…

 そのゆっくりとした歩調は間違いなく、この個室の前の通路を通り抜ける音であった、その足音の主はこの個室を通り過ぎるのか、それともこの個室に向かっているのか ー 男は瞬間的に、それを確かめずにいられない気持ちになった。
 男は立ち上がり ー 深くは考えない状態のまま ー 不可解な暗黒を背にして、個室の扉をそっと開けた。

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