人は銭湯で自問自答するだろう問題

これは自分語りだ。公開する理由もないが非公開にする義務もない。よって公開する。
不快ならば読まなければ良い。これを読んで不快になるということは、単に筆者と気が合わないというだけだ。
たった一人の人間の思考の記録で不快になるくらいなら、読まないほうがいい。

「知らない」ということ

週に1度、銭湯に通っている。
家から歩いて20分程度のところにあり、ちょうどよい散歩にもなる。
道すがら、あるいは大きな湯船に浸かりながら、いろいろなことを考える。それが週に1度ある。
内省的な性格なので、定期的に自分について考えずにはいられないのだが、ふと、「いつから自分は『知らない』ということに恐怖するようになったのか」と考えた。
今日のテーマはこれだ。
私がなぜ「知らない」ことに怯えるようになったのか考えよう。

「なんでも知っているね」という呪い

きっと過去にきっかけになる出来事があったのだろう。思い出してみることにした。
今の私はすでにそうである。
大学院の頃はすでにそうだった。
大学の頃はすでにそうだった。
高校の時にはすでにそうだった。
中学の頃はすでにそうだった気がする。
小学の頃は朧げだ。それ以前はもっと。
この辺を思い出してみる。
小学校に入って、図書室を初めて使ったとき、最初に手にとった本を思い出した。
「安土桃山時代」の児童書だった。これは明確に覚えている。知らない時代の名前だったから、興味を持った。
大河ドラマや家にあった本で「平安」や「鎌倉」、「江戸」という時代がかつて存在したことは知っていた。
でも、「安土桃山」は知らなかった。どんな時代だったのか、興味を持った。
当時の先生に「歴史に興味があるの?」と聞かれた。
「わからない」と答えた気がする。
でもきっと本当だ。実際「わからない」から手にとった。
安土桃山時代を知った。小学生だったのですぐに知識をひけらかした。
「物知りだね」「なんでも知っているね」と言われた。
何故か、ここで何かが歪んだ気がした。
どこかで「私とは『なんでも知っていなければならない存在』なのだ」という声がした気がする。
なぜ当時の私にこの答えが必要だったのかはわからない。

「ここにある必然性」に呪われる

なぜ私が私に「なんでも知っていなければならない存在」であることを求めたのかを思い出してみる。
小学生以前の記憶はほとんど朧げで、夢か現かもはっきりしない。
ただ、「なぜ自分がここにいて、なぜこの両親のもとに生まれたのか」という感覚があった。文字通りこのように考えられていたわけじゃない。感覚的にそう思っていた。
「なぜ私がここにいるのか」という問いそのものはありふれたものだ。
哲学の分野にもあるし、あのブレーズ・パスカルすら『パンセ』でこの問いに頭を悩ませている。
そのために「私が生まれる前に、何があったのか」を知ろうとした。
「これから何があるのか」は誰も知りえない。だが「私が生まれる前にあったこと」は知りえる。
それが「歴史」だった。
ただ、当時の私が理解できたのは「そうであった」という事実と仮説の組み合わさった総体だった。
それらは決して「私がいま、ここに在る理由」を説明しなかった。
ただ、幸か不幸か、その事実の総体を知ったことで「物知りだ」と褒められた。
幼い私は、褒められれば喜んだ。
「知ることは褒められるから良いことだ」と思った。
ここなのかもしれない。
「何かを知っていること」が私の存在理由なのだと、自己の存在理由を定義した。
私がいま、ここに在る理由が、「知っている」ことなのだという歪んだ定義だ。
「何かを知ること」が理由であれば、あの頃自分で自分を呪うことはなかったのだろう。
それが過程であれば、生きるという過程にも沿う。
「知っている」という状態が存在理由であるという自己定義は、呪いだ。
そうでなければ私の存在そのものの否定につながる。
そしてそれが時間によって変化するものではないことも厄介だ。
常に私は「知っていなければならない」。

「知らないこと」への恐怖と再定義

理解した。私は私に対して「知っている」ことを要請する。私は「知らない」ことは許されない。
常にこう自分を呪い続けた。20年の間。
その結果、私は「知らない自分に失望する他者」に恐怖するようになってしまった。私は「知っている」こと以外求められない存在であると、自己を認識するようになってしまった。
だから知らないことを怖くて他人に聞けない。
それをしてしまうと「知っている」という状態の自分ではなくなるから。
だが私は何を「知っている」のか。
結局何も知り得ていないのではないか。
何も「知らない」私のどこに、存在理由が在るのだろうか?
ただ、私が「知らない」ということに怯える理由は、人が普遍的に持ちながら、内省で解決せざるを得ない疑問に対して、歪んだ定義を当てはめたことにあったということは理解できた。
26年生きてしまい、何度か軌道修正することもあった。
社会に失望し、自分に絶望することはあっても、この人生を終わらせようとは思わなくなってきた。
定義を変えてみよう。
状態ではなく、過程にしてみよう。
自分の内部の世界なのだ。定義し直しても誰も咎めることはない。
ようやく、何かを知ることを生きがいにできるような気がする。
こうして言語化して、納得させて、ようやく再定義された気がする。
ここでおわりだ。

私は存在する。だが私は存在理由を知りたいのだ。なぜ私が生きているのか知りたいのだ。

これは蛇足だ。
近年人口に膾炙し始めたバーチャルYoutuber。その先駆けとして最前線を走り続けるキズナアイが、また新しい試みを始めている。
「キズナアイとはなにか」について、バーチャルならではの実験で、自己の在り方を問うている企画。

「私は存在する。だが私は存在理由を知りたいのだ。なぜ私が生きているのか知りたいのだ。」
フランスの作家アンドレ・ジッド(ジイド)の発言であるらしい。
私が「在る」という事実に対し、それがなぜ「在る」のか、理由を知りたい。これに「何を持って私は私なのか?」を検証する。外見、声、話し方、振る舞い方……
キズナアイにとっては、きっとそういう「企画」どまりだろうが、きっと私達は考えなければならない。
VRという技術が生まれ、そこで新たな「私」を獲得する過程で、考えなければならない。
「私とは何なのか、なぜここに私が在るのか。その必然性とはなにか」
きっと私はこの生を終えるまでこの問いから離れることはできない。
それでいいと思う。厨二上等、陰キャ上等。これを考えられないほうが私にとっては耐えられない。なら吹っ切るしかない。
来週も銭湯に行くだろう。次は私について何を考えに行こうか。

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