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私が生きている限り、

新年明けたからなんだってんだみたいなところは正直ある、でもお正月ぐらいあけましておめでとうって笑ってたかったよ、

こうしている今も私の知るところで、知らないところで、誰かが涙を流していて、理不尽に奪われる命があって、それはこの災害に限らなくて戦争だって手の届かない諍いだって、なんでこうも、どうにもならないことばかりなんだろう
わたしは周りの家族も友人も、過去に自然災害で無くした経験はない。けど、あの警報音が鳴るたび、呆然と画面の前で知らない街が流されていくところを見ていたあの時の記憶がフラッシュバックして、動けなくなる もう13年経つんだって 嘘みたい

人は簡単に死ぬ。けど絶対、誰かが死ぬのとか、傷つくのとか、絶対に嫌なんですけど

生きるより死ぬことの方が楽なのに、今日も地球にはこんなにもたくさんの人が生きていて、その尊さを一瞬で終わらせるなんてことが存在していいわけない、こんなに生きてるのに死が訪れて、死に方すら決めさせてもらえないんですか そんなのってないよ
どうせ死ぬんだ怖いもんねえとかさ、死んでたまるか って佐々木亮介も歌ってるじゃんか
ずっと悔しくて腹が立って、でも感情のぶつけ先があるわけでもない 死はその先も生き続ける人の前に突然立ちはだかって、全部を奪っていく



そう思いながらも、今日もわたしの頭からは死にたいという言葉が離れないまま、いつまでも

8月末ぐらいから断続的に平たい落ち込みが来ていて、浮上しては沈むのを繰り返している。今までもあったのだけど、こんなに長い期間うすーーく動けなくなっているのは初めて 原因はだいたいわかってるけど、

気持ちが沈んでいるというより、日常を動かすためのエネルギーが足りていない
目が覚めて、布団から起き上がれず、食欲も湧かず、風呂にも入れず、着替えもせず、音楽も聞けず、糸も編めず、何かを考えることもできない。寝ようとすることもできず、どこかで力尽きて眠って、気づいたら次の日の昼になっている。
日々を繰り返して、友だちと会う、学校に行く、バイトに行く、サークルに行く、とか、何か強制的に外に出なきゃいけない事象があると気合いで動いて全てをどうにかする。そしてまた動けなくなる。

動けなくなった時にできることは少なくて、ぜんぶの内容を覚えているラジオの録音を聞く、何度も読んだ本を読み返す、毛糸玉をぜんぶ解いては巻き直す、すみっコぐらしパズルをやる、自分が昔書いた何かを読み返す、とか
脳を全く使わずに今現実に生きている実感を得られる娯楽のような何か、を繰り返して時間をやり過ごす。

今はまたちょっとだけ浮上してきて、ひたすら音楽を貪っている。やらなきゃいけないこと、就活とか勉強とか、幾らでもあるのに考えれば考えるほど動けなくなって涙だけが出てくる。怠惰から抜け出せず、なにもできないまま時間だけが過ぎ去ってぜんぶに置いていかれて、みんなこんな日々を乗りこなしてるなんて信じられないよ

死にたさがよぎるとき、今はそれが文言として浮かぶだけになっていて、この考え方の転換はわたしの中ではとても変化したこと、
生きていてもどうしようもない、周りの優しい人たちを迷惑に巻き込み続けているだけ、死にたい、が以前はずっとあったのだけど、おととし1年通して受けた哲学の授業で自分の死生観についてひたすら考えて、全然死にたくないなという結論に至った。大学に入っていちばんよかったのはあの授業を受けていられたこと、このことはまたちゃんと書いときたい
あとは超かっけー布を染める101歳のおじいの存在を知ったこともめちゃくちゃでかくて、人生の目標がわくわく生きて老衰で死ぬことになった 


理不尽に生を奪われた人たちがたくさんいる中で私は今日も自分の死にたさと戦うことに必死で、どうしようもない  けど、生きているのを許されていたい まだ出会ってない音楽が山ほどある

生きていると他人と関わることを避けては通れなくて、人と関わるとその分だけ悲しみが増えると思っていた でも、それにしては世界にはやさしさがあまりに多い
誰かを傷つけてもまだ、誰かにもらった言葉が生きる理由になって、生にしがみついていたりする


文終わってるけど言いたいことはひとつで、
私が生きている限り、絶対にみんな死なないでいてくれ。またねが無いとか、嘘になるとか、許さないから。約束して。





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