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頭の中に他人の思想や主張が流されているような感覚

 基本的に集中する時には音楽を聴かない。僕は歌ったりギターを弾いたり作詞作曲をするので、音楽を聴いている時は音楽に集中する傾向があり、他のことを同時進行でできないからである。この文章を書いている今も聴いていないし、学生時代に試験勉強や課題に取り組む際にもいつも無音の状態でやっていた。
 もちろん例外はある。筋トレや料理をしている時のように、多少は頭を使わなければならないけれどある程度ルーティーン化されている作業の際には、いつもAirPodsで何かしら聴いている。メタルを聴きながらダンベルを挙げ、ラップを聴きながら包丁で食材を刻む。というのは誇張で、TPOなんて全く関係なくいつでもなんでも聴く。
 言わずもがなの前提のようにここまで文章を書いたが、僕は音楽が好きである。そもそも当然のように日常にあるものなので意識することもないのだけれど、たまに「音楽が好きです」と言語化している人と出会うと「わざわざ主張しなければならないようなことなのか」とちょっと我に返る。それを他人に伝えなければならないのなら、「呼吸が好きです」「食事と睡眠は毎日絶対に欠かせません」とかまで全部言っておく必要があるような気がしてくる。

 何かを好いたり嫌ったりするのは基本として生理的なことなのでそこに大した理由はないものだが、僕が十代の頃から現在に至るまで音楽を聴き続けているのにはおそらく一つ明確な理由がある。思考停止できるからだ。特にイヤフォンやヘッドフォンで音楽を聴いている時に顕著なのだけれど、頭の中に他人の思想や主張が流されているような感覚があって、僕は自分自身に没頭できなくなる。同じことを延々と考え直し続けたり、アイデアとも言えないようなゴチャゴチャとした思想や雑念の搾りカスみたいなあれこれと対峙せずに済むのだ。誰かと会話している時と全く同様で「聞き手」に回っているから当然である。双方向性は無いにしてもそれはある種のコミュニケーションなので、本来なら完全に自分主体のはずの時間にいわば社会性が生じているとも言える。おそらく現実の世界で充分な社会性のある人間は、音楽とは全く別の付き合い方をしているのだろう。
 そして勿論、音楽を聴く主な理由は音楽それ自体にもある。その背景に込められているメッセージや紐付いている思い出・映像なんかを全て切り離すのは不可能だけれど、単純に色々な人の色々な歌声を聴くのは面白い。ある程度確立された特定のジャンルの中においても新しい解釈をもった新人は必ず現れるし、新鮮な才能に触れる感動はどれだけ耳が肥えても未だにある。

 一方、できるだけ思考停止せずに全ての考えに徹底的に向き合い、ひたすら言語化して整理する作業を続けると小説になる。僕は実際に何本か書いて文芸誌の新人賞に送ったことがあるのだが、残念ながら箸にも棒にもかからなかった。書いてみると分かるのだけれど、小説の執筆には心身ともに恐ろしい量のエネルギーを要する。考え過ぎて変な夢を見るようになって睡眠の質は下がったし、よく食事中に口の中を派手に噛んで口内炎が出来たものだ。
 そんな訳で今は主に音楽を作っている。言うまでもなく単純な作業ではないし、これはこれで執筆とは全く別の方向にエネルギーを要する。しかし少なくとも僕の場合、一曲を書き上げるのに小説一本を仕上げるほどの時間は掛からない。もう少しタフになったらまた小説を書きたいと考えているので、このnoteはそのための筋トレみたいなものである。残念ながら書きながら音楽は聴けないのだけれど。

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