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蛇足

 会話中、聞こえた上で何も答えなかったのに、聞こえていないと勘違いされて同じことをもう一度言われ「あ、聞こえてはいます」と答えることがたまにある。それと同様に、面白くなかったボケに対してリアクションを取らないでいると、元ネタや意味を説明されて「あ、理解はしています」と答えることもたまにある。いずれの場合も多少の笑いが起こってから「コイツ面倒くせえな」という空気が漂う。積極的に同意はできないという理由だけでネガティブなことを言いたくもないし、見え透いたフォローをして逆に居た堪れない思いをさせたくもないので、僕としてはあえて沈黙しているのだけど、それを戦略的撤退として解釈してくれる人は極めて少ない。「もう少し大人の対応をしろ」と言われれば頷くしかないのだけど、なんというか余計な情報を足したくないのである。

 一昔前にダニエル・パウターの『バッド・デイ』という曲が世界中で大ヒットした。日本も例外ではなく、どこへ行ってもあのキャッチーなメロディが流れてきたものだ。彼は大ヒットの最中に来日しており、生放送の朝の情報番組に出演した。本人が登場した際にすぐ気がついたのだけど、着ているシャツの裾が片側だけズボンに入れられていた。「半分出ちゃってる」と僕は思った。前の裾をタックインして後ろを出すという形ではなく、前の裾の片側だけが出ていたのである(左右どちらかは忘れてしまった)。ピアノと歌で生演奏を披露して出番が終わるまで、シャツはずっとそのままだった。同じ日の夜の生放送の音楽番組に、彼は再び出演していた。シャツの裾は片側だけタックインされたままだった。「こういう着こなしだったのか」と僕は悟った。個人的な見解だが、ダニエル・パウターはトリッキーな着こなしを自分からするタイプには見えないので、察するにスタイリストの差し金である。話題の海外アーティストの全国放送での衣装を担当するということで気合が入っていたのだろう。

 それから何年も経ったある時、ドキュメンタリー番組で一人の若い女性の社長が特集されているを偶然見た。彼女はスタジオトークに招かれ、自社の商品を紹介したりしていた。変に萎縮している訳でもなければ、逆に前のめりにもなっておらず、とても感じの良い立ち振る舞いだった。そして、シャツの裾が片側だけタックインされていた。遥かなる時を経てダニエル・パウターの記憶が一瞬で蘇ってきた。僕は彼女の会社の事業内容を全く思い出せない。

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