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カメラの前で喋るのは簡単ではない

 カメラの前で喋るのは簡単ではない。僕は一定期間YouTubeを顔出しで続けてきているのだけれど、未だにはっきりと「嫌い」だと感じる。理由はパッと思いつくだけでも108個ぐらいある。というのは言い過ぎだとしても、体感としてそれくらい苦痛な作業なのだ。テスト勉強中に部屋の掃除が捗るのと全く同様に、僕はトーク部分の撮影前に延々と片付けを始めてしまい気付けば卒業アルバムを眺めている。
 それなら辞めてしまえという話なのだけれど、一定の目的を達成したら辞める(というか方向性を変える)予定である。これはちょっと特殊なメンタルが要求される行為だ。

 まず何よりも情報が過剰になるという点が厄介だ。光の加減やカメラの位置・角度、服装や髪型、表情などの視覚情報に加え、マイクの録音環境や喋るスピード・声のトーンといった音声情報など、同時多発的に気を配らなければならない点は山ほどある。言っていること自体の説得力が喋り方によって変わってくるので、単に動画内で扱っている「内容」だけを純粋な情報として伝えることはできないのだ。
 例えばカメラの画角内に壁時計が映っていれば「〇〇時に撮ってたんだ」と余計な印象を与えてしまいかねないし、うっかりドラッグや死体が映り込んでいたら通報されて炎上するかもしれない。これを逆手に取れば好きなバンドやスポーツチームをアピールしたり、恋人の存在や支持している政党をほのめかしたりもできるが、意図的に刷り込まれた情報から漂う匂いはメインのトピックの邪魔になる。その手の浅はかな打算は往々にして見透かされるものである。

 次に非再現性が問題となる。文章なら書いたものを推敲して整理できるし、後から過剰な箇所を削ったり足りない部分を補ったりできる。多少入れ替えても分からないし、その方がより情報がスムーズに流れる場合も多い。が、動画となるとそうはいかない。もちろん編集したり撮り直したりするのは可能だが、手間が掛かるし映像としての繋がりがあるのでその痕跡が残ってしまう。リアリティーショーで同じ日の出来事のように編集されているのに服装が違っていたり、バンドのライブ映像で同じ曲中に複数の会場を行ったり来たりしているのと同じだ。意識しなければなんともないのだけれど、一度気になると内容が頭に入ってこなくなるケースはどうしてもある。
 だからある程度はフィクション・エンターテイメントとして捉えるしかないのだけれど、一定のレベルを超えると今度はフェイクとかやらせだと批判されかねない。その辺りの匙加減は非常に難しい。美容系YouTuberの肌が荒れていればリアリティーは演出できるものの説得力は下がるし、かといって完璧すぎる容姿だと映像の加工や整形を疑われたりする。

 僕は自分で撮影と編集を行なっているのである程度見せ方や印象をコントロールできる。しかし、それを他人に任せている芸能人達がメンタルをどうやって保っているのかはちょっと謎である。それが大きな事務所やプロダクションであればあるほど、世間が受け取る印象は彼らの本来のパーソナリティーからは遠ざかるだろうし、それに対して褒められたり貶されたりする状況が続くのはかなり異常だ。喋ったこともないような元同級生なんかに卒業アルバムの写真をマスコミに売られたら、彼らは頭の中でどんな風に処理するのだろうか。


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