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電話で上司を呼ばれた

 食券機で料金を支払うタイプの飲食店でよくお釣りを取り忘れる。普段はクレジットカードを紐付けてあるスマホのタッチ決済で全ての会計を済ませているので、お釣りをもらうという発想がほとんど無くなっているのである。メニューを選んでお金を払った時点で思考が停止するのだろう。食券と同時にお釣りが出てくる場合は問題ないのだけれど、お釣り返却用のレバーやボタンが付いているタイプだと、余計なアクションがもう一つ必要なので気付けない。店員さんに「取り忘れてましたよ」と後から渡してもらったことが何度もあるのだけれど、多分そのまま放置した状態で帰ってしまったケースは数知れないはずだ。
 僕はそもそもあまり現金を持ち歩いておらず、大学生の頃からずっとクレジットカードを使っている。オーストラリアに住んでいた頃にいたってはスマホだけ持ち歩いていた。現金至上主義の日本ではさすがに同じようにはいかないのだけれど、長い期間にわたってカード決済が習慣になってくると、現金しか使えない店からは自然に足が遠のく。これは根本的な節約になる。飲食店に限らず個人経営の店に立ち寄る機会が減り、チェーン店や大手メーカーの商品やサービスを利用する傾向が強まる。それらはオンラインでも予約・注文したり決済できる場合が多い。となれば現金を用意するために頻繁にATMの手数料を払わなくても済むし、クレジットカードにポイントも付く。これで気前良く券売機にお釣りを残しておけるわけだ。

 オーストラリアから日本に帰国する前にジョージアを旅行した。アメリカのジョージア州ではなく、旧グルジアで2015年に名称が変更された国家の方のジョージアである。僕は一切の両替をせずにクレジットカードだけで全ての支払いを済ませていた。
 ある夜、YouTubeで日本人旅行者に紹介されていたレストランを訪れた。白と赤の中間くらいの色と味のアンバーワイン、致死量以上のニンニクが使われているチキン煮込み料理のシュクメルリなど、その場では食べ切れなかったので持ち帰り用のタッパーを貰うほど色々と堪能して会計は日本円で二千円くらいだったと記憶している。しかし、会計時にカードを取り出すと首を横に振られた。現金の持ち合わせは無かったので、僕は翌日戻ってくると伝えた。対応してくれた中年の女性はほとんど英語が話せず、奥から若い女の子が代わりに出てきた。僕の名前と電話番号、代金をメモしてもらってなんとかその場ではことなきを得た。
 翌日、朝一で銀行を訪れた。僕はオーストラリアドルでは小銭しか持っていなかったので、日本の五千円札をジョージアの通貨ラリに両替しようと試みた。番号札を取って通された受付で樋口一葉を召喚すると、怪訝な顔をされてから奥の方の別の受付にたらい回しにされた。そこでもう一度お札を見せると、今度は電話で上司を呼ばれた。USドルやユーロからの両替がメイン業務のようだったので無理もない。二人の行員がパソコンとお札を何度も見比べていたのでちょっと画面を見せてもらうと、そこには新渡戸稲造が映っていた。そのおっさんは古いバージョンで、新しいこのおばさんと共にどちらも流通しているんだということを僕は説明した。結局三十分くらい掛かったのだけれど、空港やそこら辺の街の換金所で取られるような馬鹿げた手数料を一切取られずに両替できた。
 その足で配車アプリでタクシーに乗って昨晩のレストランに戻った。まだ開店前だったが、昨日と同じ中年の女性がいたので僕は料金を支払った。お釣りを渡そうとしてくれたのだけれど断って彼女にチップすると、ちょっと過剰なくらい感謝された。前夜には無銭飲食をしたくせに善行を施したかのような気分になった。

 考えてもみると僕はそれ以降お釣りを受け取らなくなった気がする。

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