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作品

 「音源バンド」や「スタジオバンド」という言葉は主にネガティブな文脈で用いられる。ライブパフォーマンスにおける歌や演奏が、録音された楽曲のような高いクオリティーで再現できないバンドを揶揄する表現である。その対を成すのが「ライブバンド」という言葉で、こちらは主にポジティブな文脈で用いられる。この場合は生演奏での音源の再現力を讃える意味合いもあるが、ステージングや曲間のMC、あるいは映像や照明などの演出なんかも含め、一つの空間を作り上げる能力に長けるというニュアンスがある。
 ここには実物の方が優れていて然るべきだという通念があるように見える。これはフォトショップなんかで過剰に加工された画像が批判される論理に近い。確かに自分がこれから初めて訪れる場所や会う相手が、事前に確認した画像と異なっていたら多かれ少なかれ戸惑うだろう。場合によってはがっかりするかもしれない。
 個人的には音源とライブは全くの別物だと考えているので、比較すること自体がナンセンスだと思うのだけれど、どちらかと言えば僕はいわゆる「音源派」である。ライブ会場で生の音楽を大勢と共有するよりは、綺麗に整えられた完成品の音楽を一人で聴いている方が性に合う。これは単に好みの問題である。

 ミュージシャンがなんらかの不祥事を起こした際、過去作品を回収したり、販売や配信などを自粛する必要があるのかどうかという議論がよく起こる。被害者感情への配慮、またレーベルやスポンサーとの契約上の条件など、様々な事情によって一筋縄ではいかないことは想像に難くない。しかし一人の消費者として無責任な発言をすれば、僕は個人的にほとんどその手のことを気に留めてこなかった。ロストプロフェッツの曲はSpotifyで未だに聴くし、実家にはアルバムが何枚かある。それが犯罪を間接的に肯定する行為だとは思わないし、ボーカルの逮捕で思い出に泥が塗られたとも思わなかった。仮に彼が慈善事業に尽力している逮捕歴のない人格者だったとしても、作品の評価が上がる訳ではないのと同じ理屈だ。冷たい表現をすれば、本人には良くも悪くもあまり興味がないのである。
 僕は自分の好きなミュージシャンや小説家に会って話してみたいとはそれほど思わない。勿論そういう機会があれば光栄だけれど、何を喋っていいか分からなくなるだろう。彼らが新作を出せばすぐさまチェックするし、僕には作品を通したコミュニケーションで十分である。失礼なことを言えば、芸術家は作品ほど魅力的ではない場合が多いような気がする。歌が上手い人の話が面白いとは限らないし、ハードボイルドな小説を書く人間がハードボイルドな訳がない。

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