マッデンとわたし

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※文中、『ロケットマン』と『ゲーム・オブ・スローンズ』でリチャード・マッデン演じる役についてのネタバレがあります。

 『ロケットマン』を初めて観たのは8月の終わりの頃だった。それからひと月ほどの間に、その映画を計5回観ることになろうとは、夏の終わり、一人シネコンの扉をくぐったわたしは思いもしていなかっただろう。

 その要因の半分以上が、エルトン・ジョンのかつてのマネージャー兼恋人、ジョン・リード役を務めたリチャード・マッデンにあると断言できる。

 9月のわたしの余白は、ほぼすべて彼によって埋め尽くされた。一つの仕事が終わってホッと息を吐いたとき、エアコンの効いた通勤の電車内、姪の長い髪をドライヤーで乾かしてやっている午後9時、彼の面影が脳裏をかすめる。その度わたしは首を振り、あるいはサッと席を立ち、さもなくば少しばかり大きな声で誰かに話しかける。そうしてその影を追い出そうとするのだ──いまはその時ではない、と。

 なぜそれほどまでにリチャード・マッデンに心奪われてしまったのか? これは難解な問いだ。

 わたしは、ロケットマンを観る以前、彼を『ゲーム・オブ・スローンズ』のロブ・スタークとして知っていた。いや、知っていたと言っても、その名前だって正確に覚えていたか怪しい。わたしはスターク家ではサンサとアリアの姉妹派だし、そもそもシリーズ序盤からシオンに意地悪だったロブは苦手だった。それにあの退場だ。正直、ゲースロにおけるリチャード・マッデンについては、「声が特徴的だな」くらいの印象しかなかった。

 それが、どうだろう。『ロケットマン』で彼が初めて姿を見せたのは、ステージ上のエルトンを見つめる多くの登場人物たちの一人としての短いカットだ。しかし、カットの短さに関わらず、わたしはその瞬間から彼に目を奪われていた。他の人物に切り替わっても、まだ彼の残像が網膜にこびりついている。このときから、すでに「予感」はあったのだ。

 リチャード・マッデン演じるジョン・リードが本格的にストーリーに登場するのは、ステージを下りたエルトンが、仲間たちとパーティーに繰り出した場面だった。タロン・エジャトンが演じるエルトン・ジョンは、楽曲の共同制作者で親友のバーニー(演ジェイミー・ベル)が女の子と楽しげに暗がりにしけ込んでいくのを、寂しげに見送る。そこにドンペリを持って現れる、スーツ姿の男。ヒッピー風の格好の参加者たちの中で、彼の出で立ちは明らかに浮いている。そして遠慮なくエルトンの隣に腰かけたその男、とにかく距離が近い。至近距離でエルトンの目を真っ青な瞳で見つめ、熱心に語り掛ける。きみは何者にでもなれる、と。

 それは、暗示をかけているかのようだった。彼の瞳には魔力があって、狙った相手を確実に誘惑することができるのかもしれない。そう思わせるほどに力強く、同時に危うげな登場シーンだった。

 このシーンのあたりから、わたしはリチャード・マッデン演じるジョン・リードに魅せられ、そして同時に恐怖心を抱き始めた。「暗示」とはつまり、誰かを思いのままに操ってやろうという意志の表れである。このシーンに彼のそうした思惑が明確に描かれているわけではないが、それを予感させる何かははっきりと存在していた。

 だが、続いて描かれる二人のラブシーンは、そうした不安を全く感じさせないハッピーなものだった。情熱的な口づけ、先を急ぐ若い二人、相手を見つめると自然と零れてくる笑み、二人の情事を彩るアップテンポで力強いナンバー。『ロケットマン』は、そのラブシーンの描き方でも話題をさらっていた。そんな前情報があったからか、このシーンを見ているときは案外と冷静だった(気がする)。エルトン、素敵な相手が見つかってよかったね、とついつい物語に没入していた。

 わたしが完全に膝を屈したのは、このあとの二人の再会シーンだ。

 エルトンのレコーディング現場に乗り込んでくる、スーツの男。再会の約束を果たしに来たと嘯いて──「嘯いて」いるようにしか見えないのだ、なぜだろう──スーパースターをクローゼットに誘い込む。二人の関係性を公にできないことの象徴なのだろうなと冷静に分析する頭と、顎をクイッと動かして「獲物」をおびき寄せたかと思うとすぐに足で乱暴に扉を閉める振る舞いに「あああああーーーー!!!!」と叫び出したくなる心と。

 初見のときから、このシーンは彼の暴力性を表していると思った。顎で人を呼びつけ、足で扉を閉めるなんてロクな人間じゃない、とわたしの良心が叫ぶ。やめるんだ、エルトン、こいつは危険だ! わたしは、かつてプロレスを見ながら「後ろ、後ろ!!」とテレビに向かって叫んでいたという祖母と同じように、スクリーンに向かって叫びたかった。しかしそれは、タロンくん演じるエルトンを救いたかったからではないのかもしれない。わたしは、そのときにはもうはっきりと自覚していた。自分は、彼に、この危険な香りのする男に、夢中だと──

 これ以降のシーンについても語りたいことはたくさんあるが、割愛する。もしまだロケットマンをご覧になっていない方がいたら、エルトンがスターの階段を駆け上がり続け、派手に浪費するさまが描かれるミュージカルシーンだけでもぜひ観ていただきたい。タロン・エジャトンとリチャード・マッデンの息の合った掛け合いのようなデュエットが楽しい。

 とにもかくにも、わたしはすっかりリチャード・マッデンに魅せられてしまった。新しい音楽を聞いては、この曲はマッデンのイメージに合うとか、新しい映画やドラマを観ては、彼にこんな役を演じてほしいとか。リチャード・マッデンには水場が似合う、という謎の天啓を得たのもこのころだ。

 映画『ロケットマン』を彩るタロン・エジャトンの渾身の歌の数々のように、わたしの日常はリチャード・マッデンによって彩られていった。

 新しい推しを見つけて、毎日ハッピー、ハッピー。めでたし、めでたし。

 ……と、そうなるはずだった。

 しかし、現実はそう簡単にはいかない。

 いつからかわたしの脳裏に、こんな疑問が浮かんでくるようになったのだ。

 ──わたしは本当に、リチャード・マッデンのことが好きなのか、と。

 何をいまさら、と思われるかもしれない。確かに9月のわたしは寝ても覚めてもリチャード・マッデンのことを考えていた。だが、彼の出演作を見漁ったということはなかった。せいぜいが『シンデレラ』と『フレンチラン』を観たくらいで、彼の出世作のドラマ『ボディーガード』もストーリーが肌に合わないからと3話で視聴が止まっているし、日本で公開されていない彼の出演作を観ようなどという気力は全くわかない。たとえいまゲースロを見返したところで、シーズンを通じて高まったシオンへの愛から、どうせロブのことは「ケッ」と思うに決まっているし、あまりの苛立ちにロブの出演シーンはスキップしてしまうかもしれない。もちろん、役と役者は違う。役柄を愛すことと役者さんを好きなることは別で、むしろ憎らしい役を演じられるというのはその人の演技力なるものの証左なのかもしれない。

 しかし。しかし、だ。

 わたしは、時々Twitterのタイムラインで流れてくるリチャード・マッデンの写真や動画を観ながら、こう思う。ああ、美しい人だな、と。そして同時にこう考える。これは果たして本当に、わたしが好きになったリチャード・マッデンなのだろうか、と。

 こういう感覚が常にわたしにつきまとってきた。待機作である『1917』も『エターナルズ』も楽しみにしているが、それは作品そのものへの期待値も大いに関係している。わたしはこんなに毎日マッデンのことを考えていながら、彼を「ちゃんと」愛せているのか?

 こんなモヤモヤを抱えながらも、わたしを幸せにしてくれるのは『ロケットマン』しかない。
 ある夜、仕事帰りに映画館へ駆け込んだ。翌日に仕事がある夜に映画館に行くのもめったにないことだ。でもこのときは、身体の疲労よりも精神の疲労を取り除くことの方が重要だった。

 そんなシチュエーションだったからだろうか。3回目の『ロケットマン』では、それまで気がつかなかったことに目がいった。それが、エルトンとファンの関係性だ。

 『ロケットマン』はエルトン・ジョンがセラピーを通して自身の過去と向き合っていくという枠組みで話が進む。だからはじめから、彼の過去が彼によって語られているものであるということ──彼の「主観」でしかないことが明示されているのだ。わたしが『ロケットマン』に好感を持った要因の一つもここにある。作中バーニーが「イマジナリー親友かな?」と疑わしくなるくらい愛に満ちた好人物として描かれていても、少しもおかしなことはない、だってこれはエルトンの視点なんだもの(もちろんこれは「劇中のエルトン」のことであり、現実のエルトン・ジョンそのものではない)。

 そのエルトンの主観の中で、ファンはいかに描かれていたか。最も印象的なのは、エルトンが初上陸したアメリカで成功を収めるライブシーンだろう。ステージでピアノを弾くエルトンが、『クロコダイル・ロック』という曲の途中、客と一体になって、やがて彼の身体は宙に浮き、客の足元も浮いていくという愉快な場面だ。そこでエルトンは観客と一つになるような感覚を間違いなく味わっていた、楽しんでいた。ライブに定評のあるエルトンを象徴するシーンでもあるだろう。

 だが、これ以降のシーンで、客と彼との絆が描かれることはない。これ以降とはつまり、エルトンが音楽界の頂点を極め、やがては酒とドラッグとセックスに溺れ、どうにか立ち直ろうとする、その過程すべてである。ツアーの客席に集まるファンたち、ドジャースタジアムを埋める観客、そこにファンはいるが、それはエルトンを「普通の生活」から遠ざけ、彼の苦悩を作り出す遠因にはなり得ても、彼を救うきっかけにすらなり得ない。勿論この作品がいくら伝記であることを謳ったとしても、作品は現実そのものを反映するものではない。ファンとの関係をこの映画がすべて描き切っているはずもない。それでも、だ。少なくとも『ロケットマン』において、ファンはエルトン・ジョンを救う存在ではない。

 しかしわたしはそのファン像に、安堵の息を吐く。ああ、そうだよな、わたしたちは彼らにとって遠い他人なんだよな、と。

 エルトンの孤独をファンが救うことはない。わたしはそのことにホッとする。わたしたちは遠い他人だと感じられるから。

 ネットが発達し、いとも簡単に他人と繋がれるようになったと感じられる社会で、でもわたしは多くの人にとって遠い他人で在り続けている。どこかで距離感がおかしくなっていたのかもしれない。
 わたしは、その気にさえなれば、家に居ながらにしてリチャード・マッデンの過去のテレビや映画の出演作を観ることができるだろうし、彼にまつわるゴシップを数年分辿ることもできるだろう。そうして愚かなわたしは「彼」を知った気になるかもしれない。実際、少ないながらも出演作を観て、インタビュー記事を読むなかで、そんな錯覚を抱いていた気もする。
 だが、その「彼」とは何者なのだろう。わたしは「彼」の何を知り得たというのだろう。

 今日もタイムライン上にリチャード・マッデンの画像が、動画が流れていく。
 ああ、今日も美しいなあ、次の作品ではどんな役を演じるのかな、ロケットマンが何か賞を獲ったらその場に居合わせてくれないかしら。
 わたしは今日も彼に勝手な夢を見ている。人の性として夢を見ることはやめられないのだとしたらせめて、夢を見ていることだけは自覚していよう。

 今なら言える。わたしはわたしが観測できている範囲でリチャード・マッデンが好きだ。わたしは自分が熱しやすく冷めやすいタイプと知っているが、たとえ期限付きの愛だとしても構うものか。わたしは見ず知らずの遠い他人の彼に夢を見ている。『ボディーガード』の続きを観るかどうかわからないし、ロブのことは永遠に許せないかもしれない。彼の人柄なんて知る由もない。ただただ、彼が無事に役者業を続けてくれることを願うことしかできない。
 ああ、でも、こういう種類の愛も、ときにはいいものだ。そう思う。

 そういえば、3回目の鑑賞を終えたときのことだ。星も見えない都会の夜に飛び出したわたしは、あることを思い出してスマートフォンを取り出し、映画アプリを起動させた。8月24日に『ロケットマン』を観た記録が残っている。そのときシネフィルの顔をして付けた星4つを、わたしはこの日、星5つに修正した。
 あのステージでエルトンが着ていた服にきらめていた星々には到底及ばないが、その5つの星もまた、わたしの手の中でたしかに輝いていた。

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