「失敗したくない」が原因で陥る人生の失敗もある
一人の人間の前に、あまりに多くのコンテンツ、あまりに多くの選択肢が提示される現代社会。
それは「無限の快楽が溢れる楽園」であると同時に、「情報の洪水に揉まれる地獄」でもあると言えるでしょう。
無限のコンテンツから有限にしか選べないとしたら、私たちはどうやって「正解」を求めていくべきか。
〈彼〉からの返信は、その問に対する一つの「解答」と言えるでしょう。
〈彼〉の示した答えはこうです。
確かに、これも一つの「解」だと思います。
「正解」は事前には存在せず、その後の行動の蓄積によって事後的に「正解だった」ということになる。――ということですね。
アントニオ猪木風に言えば「迷わず行けよ 行けばわかるさ」といったところでしょうか。
これは掘り下げる価値のある面白い考え方だと思うので、今回は私の最近の所感も絡めて、その考え方を裏側から掘ってみたいと思います。
「『失敗』を避けようとすることで成功から遠ざかる」という現代の呪いについて。
不正解が怖い。非効率が怖い。
ここで一つWeb記事を紹介しておきます。
いわゆる「Z世代の倍速再生」の話ですが、全編に渡ってなかなか興味深いので、時間のある方は1から読んで頂くと良いと思います。
ここで指摘されているのは以下のような態度です。
私はこれが「今の若い世代の特徴」かどうかはわかりません。
しかし「そういう態度の人」を頻繁に見かけるようになったことは現実としてひしひしと感じています。
記事中では、こうした挙動の根底に「倍速視聴」と共通する態度が潜んでいるのではないかと論じています。
映画を切り貼りして数分程度のダイジェスト版にした「ファスト映画」というものがありますが、これも凄まじい利益を挙げていたようですね。
つまり、こんな映像娯楽の出来損ないのようなものでも、それを求める人は潜在的に非常に多かったということです。
私はこの「ファスト映画」の需要を支えているものが
・1本の映画に2時間もの時間を投じたくない(→「損」したくない)
・映画の内容だけは知っておきたい(→「正解」を選びたい)
という2つの欲求だったのではないかと思っています。
近年はビジネスマンを中心に、「これで教養が身につく」とか銘打った「教養ダイジェスト本」が売れているようです。
これも質的によく似た態度だと言えるでしょう。
こうした本が二十代やそれ以上の世代に売れていることを見ても、これは単純に「若い世代の特徴」と断ずることは難しいでしょう。
「若い世代の特徴」かは分からない。
しかし「事実として存在する」のです。
「不正解への恐怖」に敢えて逆行する
前段ではまるで他人事のように語りましたが、こうした態度は私自身においても決して他人事ではありません。
ゲームでも旅行でも受験勉強でも、我が身を振り返って
とりあえず情報収集をする。
とりあえず「地雷」を避ける。
こういうことは繰り返してきましたし、それはいつしか内面に根付いていました。
ある日、「攻略動画を見ながら、それをなぞるようにゲームを操作する」自分に気付き、「これって”作業”じゃん」と思ってしまったのですね。
この「便利なつもりで縛られている自分」に気付いてからというもの、私は「意識して『正解』を排除する」ようにし始めました。
娯楽や趣味や私生活の範囲に限ってですが、「こうした方がいい」という形で自分の行動に干渉してくるものを「敢えて見ない」という選択を取るようにしたのです。
意識し始めてみると、SNSにもまた「正解選び」が溢れていることに気づくようになりました。
インフルエンサーの言葉をなぞりながら、「不正解」を発言しないように、それでいて「気の利いた話題で気の利いた見解を提示できるように」発言している人が何と多いことか。
こういう書き込みを、見たことがありませんか。
あの名作漫画を読んでないなんて人生を損してる
漫画を読まないくらいで損する薄っぺらな人生なんて御免だね
アニメ化でやっと知った程度の人なんて「にわか」でしょ
みんな同じアニメばかり見ていてうんざりだから敢えて見ない
教養のない無粋で狭量な底辺層とは付き合いたくない
実家に帰ると結婚しろと言われる。古い世代の価値観にうんざり
田舎はしがらみが強くて暮らしも不便。やっぱ東京に住むのが勝ち組
まだ東京で消耗しているの?
今の若者は安価な味に飼い慣らされて「本当に良いもの」が分からない
某イタリアンの素晴らしいコスパを貶す方こそ味の分からないバカだ
株も仮想通貨も大暴落でざまあ。やっぱり楽して儲ける方法なんて無い
長期的に見れば暴落込みでもやっぱりプラス。投資する方が正解だ
それに影響されてしまったことはありませんか。
誰かの提示する「正解」に耳を傾けてしまうのは、「自分の身で失敗する」のが嫌だからではありませんか?
「失敗の機会を逃す」という失敗
私が自覚した「失敗の忌避」の例を、もう一つ挙げたいと思います。
いわゆる「先延ばし癖」に関わるものです。
一般的にこの「先延ばし癖」というものは「怠惰の一種」とみなされがちですが、私は敢えてここでそれを「失敗の忌避」とリフレームしたいのです。
1つ参考記事を挙げておきます。
全部は読まなくて良いです。ほぼタイトルで言いたいことは言っています。
「やるべきことができていないとき音信不通になる」
これがポイントです。
要するに、「やるべきことが出来ていません」という「失敗の受容」から逃げた結果が、「音信不通」である。
そして、同様のことが「先延ばし癖」についても言えるのではないか、ということです。
先の記事について言えば、学生はそもそも「出来ない」から教育を受けているのであって、「出来ていません、助けてください」とか「間に合いませんでした」というのは、教員側からすれば一種の「想定内」であるはずです。
なのに何故それが出来ないのか。
この根底に「失敗する勇気」の不足があるように思います。
「心の受け身」が下手である……とも言えるかもしれません。
「失敗する勇気」が無いまま歳を重ねた誰かへ
最初の話に戻りましょう。
若い頃には誰しも「失敗する」ことの時間的コスト、そして「恥ずかしい」という心理的コストがあります。
しかし、あの頃に「仲間内で馴れ合ってダサい」「バカなくせに的外れなことばかり言っている」「効率の悪いやり方をやっている」と私が内心バカにしていた人たちも、いつの間にか成功していきました。
彼らは「正解」を引いたのでしょうか?
私は、彼らがあれを「正解にした」のだと今では気付いています。
ゲームの世界には「死に覚え」という言葉があります。
「死なないようにプレイする」のではなく、「何度でも死んで、その度にテクニックやタイミングを覚えて出直す」というプロセスを経てクリア方法を身につけることです。
今思えば、「正解が分からないから様子を伺う」ヒマがあったら、その時間で1回でも2回でも失敗してみれば良かったんですね。
そうすれば、最低でも1つの知識が身につき、そして「より強い自分」で2回目、3回目に挑むことができる。
「成功をつかめるかもしれない」チャンスというのは、貴重ではありますが、前進し続ける限り常に目の前にポップしてきます。
一方で、「失敗の範囲がコントロールされていて、リカバーが利く状態で、失敗するかもしれないものに挑戦できる」チャンスというのは、年を取れば取るほど出現率が低くなっていきます。
しかも、多くの人は「成功から得られたこと」は声高にアピールしますが、「失敗したことのある人にしか分からないこと」はなかなか表に出てきません。
「失敗の経験」は自分の経験からしか得られない。
そして、「1つの失敗」はあくまで「1つの経験」であり、それは「人生の失敗」を意味するものではありません。
「『失敗』がその人の人生を唯一のものにする」
いま、私は心からそう思っています。
「失敗するチャンスがあったら、飛び込んでいけ」
いま、私は自分にそう言い聞かせています。
「もう大人になってしまった自分」へ、それでも「これからの人生の中で最も若い自分」へ。
これは青かった自分への悔悟であり、お節介であり、決別であります。
この1年はどれだけ「失敗」しましたか。
次の1年はさらなる「失敗」を重ねていけそうですか。
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