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お金が舞い込む幸運なお墓参りの話

注意:話の内容にオカルト的な箇所があります。

私は墓守だ。
20代の頃から1人でお墓参りをしている。誰に言われたでもなく、気がついたら毎月のように行くようになっていた。

いつの頃か、お墓が自分の願いを叶えてくれているのだと気がついた。それはこんな出来事があったからだ。

私は過去に、約2年、鬱に悩まされたことがある。朝起きると気分が沈み死にたいと考えていた。けれど仕事だけはしなければならない。なぜなら、月末の支払いがあるからだ。

当時の私は鬱で絶不調。周りにはバレないように仕事をしたが、気がつくと急に仕事の依頼がストップし頭を抱えてしまった。

お金も仕事もない。精神的に最も苦しい時期だった。
そんな時、私にできたことは、毎月のように出向くお墓で願うことだけだった。

基本的にお墓では『願い事をしてはいけない』となっている。しかし、私がその時できたのは仏頼みのみ。墓参りのたびに仕事やお金の願い事をしていたのだ。

そして、その後どうなったと思う?
とても奇妙なことだが、斎場、棺桶製造の会社、ペット霊園、納骨堂から、一斉に仕事の相談が舞い込んだのである。

こんなに『死にまつわる企業』からの相談が重なるのは、きっと偶然じゃないはずだ。あなたもそう感じるのではないだろうか?

私はご先祖様に守られたのだ。
お墓には不思議な力がある。そして、お墓は、自分の一番近くにいる神様だ。
ちゃんと墓参りしていれば、豊かさやお金を連れてきてくれる。

しかし、ただ、お墓に参れば良いというわけではない。
お墓が自分に与えてくれるものは、決まっているからだ。
それが気になる人のために、それについて書いてみようと思う。


私は本当の墓守ではない

私が通う墓は父方の墓で、家から車で20分ほどの距離にある。

本来なら父が墓守として通うはずだが、父や他の家族は盆や正月に花を手向けるだけで、普段はその存在を忘れるように過ごしている。

だいたい墓守というのは一家の長男長女が受け継ぐものだ。父か姉が通わなくてはいけないところへ、次女の私が行くという奇妙な現象を続けている。

墓の中には、祖父と、曽祖母が入っているが、私はどちらにも会ったことがない。祖父は父が小さな時に亡くなっている。曽祖母はもっと前だ。

実は「墓守」というのは私の胸の中に、いつしか落ちて来た言葉。誰かに頼まれたわけでもなく、私は20代から墓を守り続けている。

この墓に通うようになった理由は「お墓に呼ばれるから」。ただそれだけだった。

ある日スーパーで買い物をしていた。すると、頭の中でヒラメキのような映像があった。
お酒と、甘いお菓子。そしてお墓。普段私が食べるようなお菓子ではない。

なんとも不思議な話だが、「お供えが欲しいから持ってこい!」とお墓に言われているようだった。その日から。お墓のお供え物は、いつも祖父が欲しがるものを持って行くようにしている。

お菓子は都度、違うものを指示される。だからお金がなくとも、手ぶらで行くわけにはいかない。のちに、これが良かったのだとわかるが、最初はお金を使うのが辛くて仕方なかった。

しかも、墓へ通い始めた当初、墓地には自分の背丈より高い草が、敷地びっしり生えていた。山の斜面に区画された土地で、墓石を置いただけのようなところだから、どこからともなく草の種は飛んでくるのだ。

最初は抜くのも大変だった。草が放置された土というのは、根が張りすぎてなかなか抜けないのだ。30分から1時間かけてそれを抜くのだから、汗ビッショリになる。最初は『何のお試練だろう?』と考えるくらいキツかった。それが10年、15年と毎月通ううちに、どんどん草が生えなくなって行った。もちろん少しは生えるが、すぐ抜けるような、柔らかい草ばかりになった。近年、やっとの思い出、固まる砂を敷き詰めた。それくらい、お墓に愛情とお金をかけるようになったからである。

お墓に行くたびに、お墓に感謝されているような気がしていた。いつしか私はお墓と会話するようになった。頭の中に声が落ちてくるのだ。お墓の声の主は女性で、いつも私に感謝してくれた。だから私はおばあちゃんの家へ行くように話かけた。

「来たよー」「また来るね!」の挨拶は当然のこと、最近の家の話題や、施設に入っている祖母の話をした。そして年月が経つたびに、私はお墓に感謝するようになった。自分が幸せで健康で居られるのは『ご先祖さまが守ってくれているから』だと感じるようになったからだ。

一番近くの神様

人は死んだら仏様になる。もちろん私たちに死後の世界は見えない。けれど、死ぬと、祀って崇める存在になるのは確かだ。神社でもそうだろう。過去に生きていた人を祀る神社が多い。

私の感覚から言うと、死は、体という殻から離れ、魂が残る。魂は目に見えない世界を行き来できる。その中で神になる人もいれば、そうでない人もいる。しかし魂だから、神でなくても出来ることがある。それが、人間の意識に入ることだ。

そういうのに敏感な人は、見えたり声が聞こえたりする。胸騒ぎがするとか、夢で見たという人もいるだろう。死が近くなると、頻繁に亡くなった人の夢を見るというが、あちらの世界が近づいているからに他ならない。(と私は考えている)

ご先祖は、自分の一番近くにいる神様なのに、人々はお墓を放置する。それどころか、いろいろな神社に行き、100円玉を手にして一生懸命願ったりする。

毎月のように足蹴に通えば、その気持ちも通じるかもしれない。しかしSNSで自分が拝む写真を撮ったり、初めて出向いた神社で挨拶もなく、小銭を投げそのまま帰ったりするのは、神様にとても失礼ではないだろうか?もし目の前に神さまが居たらきっとそんなことはできない。もし神様に祈願したい何かがあるのなら、いつも通う神社、何度も行く神社にすべきだ。

そう考えると、お墓は自分の身内。つまり親族なのだから、とても近い存在だ。家族のためなら早めになんとかしてやりたいと思うのが、血縁というものではないだろうか?

もちろん、お墓の中の人と仲が悪かったという人もいるだろう。安心して欲しい。それは全く問題にならない。

人間というのは、死ぬ間際に、悪い出来事は忘れてしまうのだ。死ぬ時人は生きたことへ感謝すると言う。良かったことも悪かったことも、全てが『人生の経験だった』と悟るのだ。あなたはその一部に過ぎないのだ。だから、あなたの想いが通じるなら、仏さまは全力で助けてくれる。

お墓に参らず、見ず知らずの神様ばかりに通うのは勿体無くはないだろうか?お墓で大金を授かるかもしれないのに。

お墓は特別な魂の家

死ぬと人間は魂になる。だから、どこへでも一瞬で移動できる。
仏壇でもお墓でも、他の場所でも。しかしお墓は特別な存在だ。そこに自分が生きた証の骨が埋まっている。

そんな特別な場所だから、私はお墓へ行くたび、その場所を「歩けなくなったおばあちゃんの家」のような気分で扱っている。草抜きや掃除はもちろん。お供え物や花、線香での供養。そして、そこにいるかのように声をかけるのだ。帰る頃には、なんとも晴れやかな気持ちになる。

神社に行き、これらのことが出来ている人はどのくらいいるのだろう?手を洗い、綺麗な参道を通って、お賽銭を入れ拝む。お墓参りとは全く想い入れが違うのではないだろうか?
神社は神社なりのやり方があるが、墓と違って収入が必要だ。だから客を招くような待遇になっている。しかし神様は魂であり、仏像ではない。全てお見通しなのである。

尽くせば尽くすほど、喜ばれるのは体が有る、無いに関係はない。それが一番簡単にできるのはお墓だ。もしあなたに、何か望みがあるのなら、お墓参りをお勧めする。


お墓が叶えてくれる唯一のこと

お墓は、適切に毎月参ることで、自分を守り、幸運を連れてくる。しかしこれには、1つの欠点がある。お墓はなんでも願い事を叶えてくれるわけではない。
例えば、『ガンが治りますように』とか『お金が手に入りますように』という類である。

もちろん、方向性で見れば、結果的にガンが治ったり、お金が入ったりするかもしれない。お墓が与えてくれる恩恵は、実は1種類だけなのだ。

そして『願う』ではなく『頼む』になる。

私の場合もそうだった。全てはこの1種類の『頼み事』から派生したものが、全て叶ったのだ。起業家に墓参りの習慣が有る人が多いのも頷けるような、その恩恵とは、

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