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推しはあなたの全てじゃない

某芸人のファンのnoteを読んで、前々から感じていた「推し」に関する考え方をあらためてnoteに書こうと思った。

件のnoteがちっとも理解できない

件のnoteについて、概要をざっくり書くとこうだ。

とある芸人を大学受験直前に動画で知った筆者。ライブにも足繁く通い、リアコ勢となるうちに「ネタは面白くなかった」と本人にDM、Twitterのサークル機能でセクハラ投稿をするようになる。やがて本人にTwitterをブロックされ、マネージャーから厳重注意を受けてファンを辞めることにした……

筆者が「またライブに行けるようになるためには本人からの理解が必要。本人に届いてほしいのでnoteを拡散してください」的なことを言ってたけど、ブロックされた原因も理解しようとしないまま許しを得ようとする思考、また同じことを繰り返しそうなところが怖いので拡散はしたくない。各々読みたい人は検索してください。

私も2022年のM-1をきっかけに急激にお笑いにハマり、劇場に行くことも増えたので節々の描写が手に取るようにわかる。ただ、「推し」はあくまでも「推し」であり、「是が非でもこのライブには行く」「推しに何が何でも課金する」までの熱量を持っていない温度感なので理解できない箇所もかなり多かった。

推しも自分と同じ人間

noteの作者は、推しを神聖化し過ぎているようにも感じた。
そもそも「ネタが面白くなかった」と批判DMを送ったことについてこう書いている。

こんなはずじゃなかった。僕は、こんなものを観に大阪まで来たのか?
ライブのチケット代こそ1500円とかなり安いが、交通費はその何倍もかかっている。
嫌だ嫌だ。時間とお金が無駄になっているのを感じた。

正直、私も好きな芸人のネタがいまいち刺さらなくて「今日はなんか違ったな」と思う瞬間はある。それがわざわざ遠征していれば、ガッカリすることも仕方ないだろう。

帰りの新幹線で、僕は泣いた。
こんなはずじゃなかった。
「全然面白くなかった!楽しみにしてたのに…」などと、Twitterに書いた。
そして、焦りが募るあまり、「ネタを書いてる山田さんにDMで連絡してみよう」と思った。

「イマイチだったな」←わかる
「せっかく遠征したのに」←残念だったね
「DMで連絡してみよう」←飛躍し過ぎ

ネタの内容を理解できているか、自分自身の好みかで良し悪しがあるのは、どうしても避けられない。だけど、「じゃあ本人に連絡しよう」は、もう「推しは面白くあるべき」→「いちファンとしてアドバイスしてあげよう!そしたら面白くなってくれるはず!」っていう甚だしい勘違いからくる暴走でしかない。

本人の目に触れることも承知で「推しのライブがいまいちだったな〜」をSNSで言うことはまぁそういうファンもいますわなって感じで100歩譲って良いとして、提言で改善を期待するのはエゴだぞ。

盲目的に「推しが正義!」「推しは絶対!」みたいに推しを神格化してしまう人は、自分の理想と実際の推しに乖離があるとそこのギャップを近づけるためにクソバイスをしてしまうように思う。女性アイドルの自撮りに「太った?もっと痩せた方が良いです😅」「今日メイク濃くない?ナチュラルメイクの方がかわいいです🥺」的なことをリプライするおじさんファンとやってること同じ。

推しだって人間なので「今日は調子悪いのかな」って日もあろう。それを「いつも自分の理想の推しであるべき!!!!!」みたいな強要は愛ではないです。「推し」ではなく「押し付け」だ。

過去に私は『推し、燃ゆ』の感想を書いてたくさんの人にnoteを読んでいただいたが、この作品は「推し」がいることが普通になった今だからこそ多くの人に響いたような気がする。ひと昔前だったら、誰かを推すことはオタクの行動として白い目で見られていた。それがメディアでも「推し」というワードが当たり前に使われるようになったので時代は変わるものだ。

『推し、燃ゆ』は主人公・あかりの推しが炎上したところから始まる。最終的にあかりの推しは芸能活動を引退。あかりはSNSで特定された推しのマンション前まで行き(この時点で怖いけど)、ベランダの洗濯物を見て「推しが人になった」と痛感するシーンがある。

それまで「推し」が「背骨」であり「中心」だったあかりが、「推し」は自分と同じ人である事実を残酷に実感するシーンは、特に印象的だった。

推しに見返りを求めたらそれは推し活ではない

「推し活」が年々ポップに取り上げられる時代になればなるほど、「推し活はこうあるべき」論争が白熱して学級会が繰り広げられている。課金すればするほどえらいのか、メディア出演を全部押さえればえらいのか。推す熱量や実生活でどこまで推しに時間やお金をかけられるのかは人それぞれなのだから、不毛といえば不毛だ。

その背景には、「推し活のために節約してもやし生活」「寝ずにソシャゲの周回やってる」と時間もお金もありったけ推しに費やせることを面白がる風潮も少なからず影響している。「一瞬のウケやバズのためにお金や時間を費やすのって、後からめっちゃ虚しくならないか……?」って意見も、推しのためなら全然気にならないんだろう。それで推しに認知されようものなら安いのかもしれない。それがその人自身が稼いだお金なら何も言うことはない。

推しの熱愛報道に対して「いくらお前に費やしたと思ってるんだ!」と怒ってCD割ったり写真集をビリビリに破る人は、それだけの時間とお金が返ってこないことへの怒りをそんな形で見せているんだと思う。

キュウソネコカミは『推しのいる生活』で「リアルな見返りはないけれど」と歌っているが、推し活は見返りを求めた時点で違うものになってくる。

むしろ、推しがいることで生活にハリが出るとか、学校とか仕事とかしんどい状況に少しでも希望ができるとか、接触系のイベントまでに自分磨きをしようとモチベーションになるとか、そういうことが推しから得られる良いことなのではないか?万が一推し本人とつながることができるという形で見返りが得られたとしても、それでイメージと違ったらまたそこでゴネるのではないか?

推すうえでのファンの姿勢なんてわからないけど、お行儀は良くした方が良いのでは

大きい主語で語るのは違うし、正直なところファンのあるべき姿を断言するのは難しい。ただ、間違いなく言えるのは「推しに迷惑をかけない」「お行儀良くする」ことなのではないか。それはひとりの人間として、当たり前のことだと思う。


推しに対しても、同じ推しを推す人に対しても「こうするべき」「こうであるべき」と正義感を発揮する人はエゴでしかない。そんな正義を振りかざせば、いつしか本当に推しを好きだった気持ちなぞ二の次に三の次になってしまうのでは?

あくまでも推しは推しで、自分の人生は自分のもの。推しはそこに偶然入り込んだ希望。そこの線引きをしっかりして、推しと適度な距離感を保つからこそ推し活は楽しい。

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