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⛄🌹 仏教の浄土真宗の開祖・親鸞 🌹⛄

幸福の科学 主エルカンターレ 大川隆法総裁先生 書籍・鋼鉄の法 参照です。

救世主の願い

霊的な自覚をつかんで生きることの難しさ

浄土真宗の開祖である親鸞が、「悪人でも救われる」というようなことを説いたとしても、弟子筋の多くは、それを誤解して捉える者も多かったであろうと思います。「悪人こそ救われる」という言葉は、実は、親鸞のオリジナルではなくて、親鸞の師である法然が述べた言葉でした。


親鸞自身は、この世において幾つかの戒律を破っており、僧侶としては十分な修行を行えなかったことで、「自分自身は罪人である」と深く自覚していたため、それを「悪人」と称していた面もあります。しかし、その言葉を先に唱えた法然は、清僧であって、戒律も破っていない人であり、教学をし、戒律を守って、七十代まで尊敬されて生きた人です。


その人が、「悪人こそ救われる」と、まず先に言ったのですが、今では、親鸞がそれを最初に言い、親鸞の弟子である唯円が聴いて書きつけたかのように思われています。これは、聴く人によっては、「大きく誤解を呼ぶ言葉」であったと思うのです。


仏の、あるいは阿弥陀仏の本当の意味での「偉大なる救済力」というものを知っていて、その光と合一できる者にとっては、この世は救いに満ちている世界であるのですが、そうした阿弥陀仏の救済の力を信じていない者たちにとっては、この世は暗黒の世界にしか見えてはいないわけです。


ただ、親鸞は、「阿弥陀仏の光は、この世に及んでいるのだ。その光に目を向けて、救いを求めよ。そのときに、阿弥陀仏と一体になれる」ということを言っていました。これが理解できる人は、非常に数少ないのです。


信仰も、ギリギリのところまで踏み込んだ場合には、「信仰即救済」までつながることを言っているのですが、それが分かる人は実に少なく、時代を下るにつれて、「悪を犯せば、救われる」といったような、安易な思想になって流れているものもあります。


親鸞は、僧侶であるにもかかわらず戒律を破った「半聖半俗」、つまり、「半分聖人、半分俗人」の生活をしていました。


そのため、自分を省みること深く、後悔すること深く、「いずれ、他の仏教の修行によって救われる身であれば、そういう選択もあったであろうけれども、それをやったところで、とうてい救われる身ではない自分であるから、この南無阿弥陀仏の教えにすがって、法然にすかされまいらせても(騙されても)、ついていきたい。地獄に堕ちても、それはもとより、覚悟の上である」というようなことを述べているわけです。この「信心の深さ」ということが、彼がいちばん言いたかったことでした。


教えを曲げた長男を義絶した親鸞・・・
「神仏の慈悲」を体現する生き方・・・
救世主であっても謙虚であらねばならない理由・・・

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(私文:枠から外れてしまった感じ)
仕事をしなくなって、すでに一カ月半も過ぎてしまいました。何か仕事をしていないって寂しいですね。世間からはじき出されてしまったみたいで、変な気分です。あんなに、人間関係がいやだったのに、あんなに同じことの繰り返しがいやだったのに、今になってしまえば、懐かしく、あれで俺自身も救われていたんだなと思っています。人間って、やっぱし、我儘なんですね。

最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。
是非とも、幸福の科学 主エルカンターレ 大川隆法総裁先生 書籍・鋼鉄の法 を読んで下さい。


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