見出し画像

わたしは私を生きていない!と叫んだ日


サラリーマン時代に会社を辞めようと決意したのは、
「わたしは私を生きていない!」と膝から崩れ落ち、天井を向いて泣いた夜でした。

そのときのことは今でもよく覚えています。
いつも通りに仕事を終えて帰宅したのは22時すぎ、食事と入浴をすませ、ふっとひと息ついて、翌日に控えた会議の資料を見直そうとしたときでした。

画像1

資料を手にとってソファにすわると、遊ぼうよ~とじゃれついてくる2匹の愛犬を抱きかかえ、犬たちの部屋へと連れていき、きゅんきゅん鳴いて甘えるのを無視してソファへ振り返ったとき、
「わたしは私を生きてない!」と叫びながら崩れ落ちました。

------------------------------------------------------------------------------------

それまで立て続けに立上げ案件の担当が続き、まとまった休みをとることができずにいました。それでも、仕事は面白くやりがいも感じていたので休みがないことに対しての不満はありませんでした。

ただ、気がかりになっていたことは、
連休をとることができないことで実家への帰省が8年できておらず、
家族のことが気になっていました。


やっと立上げ案件がおちつき、次の案件に入る前にと思って、
8年ぶりに帰省したとき、私は母のことがわかりませんでした。
そして、母も私のことがすぐにはわかりませんでした。
そんなバカなとおもうかもしれませんが、事実です。
わたしの中の57歳だった母のイメージは、8年たって65歳になったことで、
全く違う人のようになっていたのです。

キャリアウーマンとして働いていた母は、8年ぶりに会ったときには定年退職を迎えて現役引退し隠居生活になっていました。電話で話は聞いていても実際に姿を目にすることはなく、声というものはあまり年齢による衰えを感じさせませんでした。しかし、実際に会って容姿や服装、雰囲気の変化を目の当たりにし、8年という年月の長さを痛感しました。

駅の改札に迎えにきた母も私のことがすぐわからず、
「もしかして・・・〇〇〇ちゃん?」と声をかけてきたのでした。
母は、「ごめん、やっぱりそうやった。最近、目がわるくなってて」と言ってくれましたが、きっと母もわたしと同様に私のことがわからなかったのだと思います。この母の言動はわたしにはとてもショックでした。なんて気の使わせ方をさせてしまったのかと自分が許せない気持ちになりました。

------------------------------------------------------------------------------------


この8年ぶりの帰省でのできごとは、仕事との関係においての強烈な葛藤をもたらし、そのバランスのとり方について考え巡らせる日々が続きました。

わたしは、遠くに暮らす家族のこと、弟の病気のこと、犬たちも高齢になってきていることや、海外勤務ばかりで結婚してから一緒に暮らしていない前夫とのことなど、いろんな小さな問題や課題を、仕事が忙しいということを自分への言い訳にして回避してきていました。

わたしは不器用なところと、没頭してしまうところがあり、この8年は完全に仕事に没頭していました。それが私であり、わたしが私を生きていることだと思っていました。

しかし、あの母の姿と言動によって、わたしによって押しこめられてきた私がわたしに存在を示しはじめ、葛藤をもたらし、懸命にわたしに呼びかけつづけていました。

生きるということ、たいせつなこと、
何を追い求めているのか、どこにむかっているのか、
そもそもどこかに向かわなきゃいけないのか、
何かになろうとしているのか、何かを得ようとしているのか、
ある状態を目指すことが幸せなのか、掴むことが幸せなのか、
だれかのために生きていないか、
人に認められること・喜ばれ、感謝されることが喜びなのか、誇りなのか、
生きることを味わっているか、じぶんを大切にあつかっているか・・・・。

いろんな呼びかけが心に届いていました。

画像2

バランスがとれず、↑こんな感じだったんだとおもいます。


そして、あの日、犬たちが甘えてくるのを無視して仕事の資料に目を通そうとしたとき「わたしは私を生きてない!」と、私がわたしに言わしめたのだろうと思います。

しばらく正座のまま泣いたあと、「あ、会社やめよう」と小さくつぶやき、資料をほうりだし、手帳を開いて退職するタイミングを確認しました。なにもかも吹っ切った感じで、どんよりとした気持ちでありながら、なぜかポジティブな行動がつぎつぎと湧きあがりました。

2時間くらい退職できるタイミングを見計らい、稼働しはじめたばかりの案件の評価タイミングなど考えると、退職には2年は必要だと算段がつき、来年の目標設定に「会社からいなくなるための準備をする」と追記しました。

------------------------------------------------------------------------------------


2年がかりの退職大作戦。
退職の意向は退職希望日の半年前に伝えようと決め、自分の中での退職にむけての段取り、仕事の引継ぎを想定した整理や引継ぎマニュアル作成、部下の育成などを約1年半すすめていきました。順調に進んでいた退職大作戦でしたが、思いがけないことで退職は1年先延ばしとなり、2年での退職計画は、3年がかりとなることになりました。


「熊本地震」により、会社もわたしも被災したのです。
退職の意向は変わりませんでしたが、少なくとも1年、もしかすると2~3年は先延ばしも覚悟しなければならないと思いましたが、1年の先延ばしで無事に退職することができました。

営業再開を果たして半年ほどの復興半ばというタイミングだったので、お世話になった会社、仕事仲間には本当に申し訳なく、心苦しかったのですが、自分の気持ちや家族とのことなどが整わない状況では仕事に専念できないという、わたしの気持ちを汲んでいただけました。とても感謝しています。

画像3

8年ぶりの母との再会から5年がすぎましたが、いま振り返ると、
中年期に入ってすぐに、8年ぶりの帰省での経験ができてよかったと思っています。あの経験がなければ、わたしはきっと今でも立上げ案件を抱え、仕事に没頭していたと思います。

そして、もしかすると、父や母の顔をみることは死によってもたらされたかもしれません。かもしれないことですが、それは確実に回避することはできました。

中年期になると、仕事だけでなく、家族や両親のことなど、いろいろなことでの問題も多くなります。それぞれが大切なことで、そして責任が重く大変なことです。わたしは鈍感で不器用なので何もかもを一人でやりこなすことは到底できず、それを知っている私が警笛を鳴らして自分の危機を知らせてくれたのだと思います。


「わたしは私を生きていない!」と叫んだ日は、
私がわたしを取り返した日だったと思います。


わたしという、わたしらしさ。
会社や社会での側面に重きをおいたわたし。
それをみまもっていた私。
私がわたしを守るために、私がわたしを取り返した日。
ありがとう私。
とっても助かったよ。


わたしから仕事を手放させた私は、ただいま「わたし」の再構築中です。
そのときどきに雲が形をかえたり、色づいたりするように、
いろんな「わたし」を模索中です。
どうするの?とばかり聞いてくる母がいまではうっとうしいですが。(^^ゞ
まぁ、それも模索中によることと思って、うっとうしさを味わっています。

画像4



ぶきっちょで、どっかん、どっかん、あちこちぶつかりながらの人生です。
阪神大震災のあとに熊本に移住したら、熊本にも地震がやってきたり、
なんたらかんたらと、なんとも濃い口の味付け人生となっておりますが、
人生いろいろをあじわっております。

GO DIE GO  かならずいつか死はやってきます。
その瞬間まで、ほんのひとときの人生です。
あじわって、おもしろがって、ぼちぼちで。

いまも、お腹がぐーっと鳴って、ひとり笑いの、たけまるでした。(*^^)v

補足です:タイトルの写真は、小学生の時にとても影響をうけたロック・バンドの名前です。GODIEGOさん、いちばん好きなホーリー&ブライトです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?