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犬 中勘助著 (9)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

前回のお話

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9
 五日めの夜、礼拝をすまして帰ろうとした時に聖者はいつになく彼女を草庵のうちへ呼び入れた。
「今日はそちに尋ねることがある。そちは彼奴が二十五六ぢゃというたな」
「はい」
「眉の濃い、眼の大きな奴ぢゃというたな」
「はい」
「そのほかなんぞ見覚えがあるか」
「背のすらりと高い、品のいい、強そうな……」
 彼女は男の立派な風采について語るのが嬉しかった。
「左手の小指に怪我をして、そうしてやっぱし怪我のためにすこしびっこをひくようにしていました」
 聖者は唇を噛んでなにかの考えに囚われていた、彼女は彼が今更どうしてそんなことをきくのかしらと思った。
「それともひょっとして」
 彼女は疑り深く聖者の顔を見た。彼はふと気がついた。そしてへどもどして
「うむ、そ奴ではない。邪教徒めらは折ふしここへもくる。そ奴とはちごうていた。そ奴でも懺悔さえすればわしは赦してやる」
 そんなとりとめのないことをいった。彼女は不安と期待に心を乱しながら家でへ帰った。
 あとに聖者はひとり瞋恚しんいほのおをもやしながら今日の出来事を考えた。二人の邪教徒の隊長が従者を連れて多分狩猟のために森へはいってきた。そのうちひとりが偶《たまたま》そこに行をしている彼を見つけて偶像教徒に対する回教徒的嫌悪からその顔にぱっと唾を吐きかけた。――打殺されなかったのが仕合せだったろう――彼はかっとして見上げたがどうすることも出来なかった。相手は見かえりもせずそのまま事もなげに語りあってゆく。彼は無念骨髄に徹していつまでもいつまでもその後姿を見送っていた。それは二十五六の、眉の濃い、眼の大きい、頗る風采の好い男だった。そして腰に黄金造りの蛮刀を帯びていた。彼は もしや と思った。しかし唯それだけではあまり根拠が薄弱であった。それにもかかわらず彼はどうぞしてその男が娘を穢した奴であってくれればよいと思った。それは実に思うもたまらないことであった。そしてそれだけ一層そうしたかった。彼は娘のいう男をいくら憎んでも憎み足りないものにしたかった。そして咀いに咀ってやりたかった。
 しばらくして彼は森の奥で彼らの一人がその友を呼ぶらしい声をかすかにきいた。そしてぎくりとして耳をそばだてた。
 娘の帰ったあとで聖者は思った。
「彼奴だ」
「確かに小指がなかった。そうしてびっこをひいていた」
 それは娘がああまで慕うのも尤もだと思うほど立派な男だった。彼は娘が男について語った時のうっとりした様子を思い出した。彼は彼女のまえにいかに邪教徒を罵るとしてもその男を醜い奴ということはどうしても出来なかった。そうしてその点が何よりも先ず娘の心を虜にしたのだと思うとなおさらたまらなくなった。彼は彼女の口からきいたその時の有様、己をちりあくたとも思わぬ今日の不敵の振舞ふるまいを思って全身の血を湧かした。彼は五体をふるわせて歯がみをした。彼は婆羅門の忿怒ふんぬと苦行僧の嫉妬に燃えた。

続きのお話


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