見出し画像

犬 中勘助著 (13)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

前回のお話

最初から読む

13
 彼女は息を吹き返した。そして身体じゅうの筋をひき毟られるような苦痛を感じた。彼女は起きあがろうとしたがなにか重たいものがのしかかっていて身動きもできない。そして髪の毛を血の出るほどひっぱって泣くような吠えるようなことをいっている。「あ、坊さまだ」そう思うと空恐ろしくなって死物狂にふりほどこうと身をもがくけれど、手足が蛭のようにへたばりついていっかな離れない。二つの肉団が見苦しく絡みあってのたうちまわった。眼の前に光ったものがとびちがった。あたりの物が水車みたいに回った。そんなにして小半時も転げまわってるうちにようやく痙攣も苦痛もおさまって手足がぐたりと離れた。
 彼女は跳ね起きた。そしてなんだかすっかりこぐらがかえったような気持のする自分の身体を見まわした。それは狐色の犬の姿であった。そうしてそばに長い舌を吐いてはあはあと喘いでいる同じ毛の大きな僧犬を見た。
彼女は声をあげて泣いた。それは犬の悲鳴であつた。その時彼女は急に腹のなかをひきしめられるような気がして藁床のうえにつっぷした。その拍子に胎児を産み堕した。それはまだ形の出来あがらない人間の子であった。彼女はその血臭いきたならしい肉塊に対して真底愛着を感じた。そうして自分の尻のほうに頸をのばしてべろべろとなめた。これまでその存在をただ胎壁の感覚に於てのみ認めながらもあれほど大切に望をかけていた子どもをこんなにして闇から闇へやってしまうのがたまらなかった。それが恋人との唯一の 鎖、唯一の形見だというような理由からばかりでなく、訳もたわいもないただもう本能的にいとしくていとしくてとてもそのままはなしてやる気にはなれなかった。まったくそれは「業」とでもいうべき恐しい奇怪な力だった。彼女はまた僧犬が怖かった。
「あの人はこれが邪教徒の子だというのであんなに憎んでいる。あんなに忌 々しそうに睨めつけている。出来た子になんの罪咎もないものを。あの人は ほんとにこの子をどうするかしれやしない」
 そう思って非常な不安を感じた。と同時にまたそれを未来永劫自分のものにしていたいという気がむらむらと湧いてきた。そして彼女は胎児をばくり、、、と口にくわえた。で、舌を手伝わせながら首をひとつ大きくふって奥歯のほうへくわえこんだ。そして二つ三つぎゅっと噛んでその汁けをあじわったのちごくりと呑み込んでしまった。ほっと安心して落ちつくことができた。これらのことはいささかの躊躇も狼狽もなくごく自然に、平気に、上手に、ちょうど生れつきの犬であったかのように為された。彼女は張りつめた気がゆるむとともに堪えがたい疲労を覚えてそのまま深い眠りに落ちた。
 目をさました時には夜があけかかってうす明りがさしていた。彼女はかたわらに、揃えてのばした前足のうえに顎をのせてのたっとねている僧犬を見た。彼は犬の姿になってもそこにまざまざとあのいやらしい苦行僧を思い出させるところのものがあった。そのがっしりした骨組、瘡蓋かさぶただらけの皮膚、 額の割れた相の悪い顔、睫毛のない爛れ目、そして相変わらずの臭い息が嗅覚の鋭敏になった彼女をむかつかせる。彼女はまた自分の身体を見まわした。それは若く、美しく、脂づいてはいるけれどもまごうかたない犬であった。
 「ああ、私は犬になってしまった。この人も犬になった。そうしてここにこうして一緒にねている。まあどうしたことだろう」
 彼女は自分が犬になったことよりも聖者が同じ姿になってそばにくっついているのが一層情なかった。彼女は自分と彼とのあいだに畜生道のえにしが結ばれているのを見た。それでなんともいいようのないやるせない浅ましい気がして思わずわっと泣いた。涙のない犬の悲鳴を。僧犬はぱちっと目をあいた。彼はそろそろと身を起した。そうして背中をそらせ、尻をもちあげてのびをした。その次には先と反対に前へのり出すようにして後足を一本づつぐうっとのばした。それからぶるぶるっと二三遍身ぶるいをしてしゅんと鼻をふいた。そこには彼女を切っても切れぬ自分のものとしたうえの安心と落ちつきがあった。彼は彼女の身体をあちこちと軽く嗅ぎまわしたのちいった。 
「目がさめたかな。わしもようねた」
 奇妙なことにそれは犬の言葉ではなかった。また人間の言葉でも。いわば人間の言葉を犬の舌で発音した獣人の言葉であった。その人畜いづれにも通じない言葉がすらすらと彼女にわかった。彼らはまさしく獣人だったのであ る。僧犬のこの短い言葉の調子には自分が彼女の所有者であるという意識と、所有した女に対するうちとけた馴れ馴れしさがあらわれていた。彼女は 虫唾か発しるほどいやだつた。
「そなたはひもじうはないか。あれを食べたらどうじゃな」
そういって供養の食物のほうへ目まぜをした。彼女は胎児を食ったし、それに今はそれどころではなかったので ほしくない といった。
「それではわしが食べよう」
 僧犬は木皿へ鼻をつっ込んでべちゃべちゃとたべはじめた。そうして見る見るきれいにさらえて皿をあちこちに転がしながらべろべろとなめまわした。 彼女は知らぬまに理不尽に与えられたこの境涯と伴侶とをどうしてもすなおにうけ入れることができなかった。それでまた烈しく泣き叫んだ。
「何事も湿婆の思召しぢゃ。わしらはありがたくいただくまでぢゃ」
 いいながら僧犬は口のまわりを手ぎわよく舌で掃除した。それからどさりと尻もちをついて、後ろへ捩じむいてがちがちと歯を噛み合せながら尻尾のつけ根にこびりついた瘡蓋を掻きはじめた。彼にはさしあたり強いて彼女を 説得しようとするほどの熱心もなかった。
「どうせもう己のものだ。いつでも自由になる」
 そうした下劣な無関心があつた。
「わしらは人間ではつれ添うことができなんだ。それでこのようにしてくだされたのぢゃ。もう婆羅門も吠奢べいしゃもない。わしらは湿婆にめあわされた立派な夫婦ぢゃ」 
 犬になると同時に彼が婆羅門であり聖者であることに対する彼女の崇敬は 彼の「強さ」に対する動物的な「恐れ」とところをかえた。唯彼の知恵に対する 盲目的、習慣的な信頼のみはもとのままに残っていた。それで彼の言うことをそのまま信じたところで、彼女には余儀ない運命に対するすてばちなあきらめのほかなにもなかった。そうしてあきらめようとすればするほど生憎に彼が厭わしかった。

続きのお話


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?