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土用の丑の日に

贅沢な話ですが、土用の丑の日に限らず結構頻繁に鰻を食べていました。

行きつけは、毎日放送の近くにあった喜六というお店でした。

天六にあった料亭から暖簾分けされたご夫婦がやっていて、無口だけど笑顔が素敵な巨人ファンの大将と、小柄でぽっちゃりした声の高い奥さんが切り盛りしていました。

豊崎近辺に暮らしていた芸能人さんもよく訪れ、亡くなったやしきたかじんさん直筆のメニューがありました。

そう、この店にはいわゆるメニューがなかったのです。

1999年に退職願を出した私に「いったい何をするねん」と、角さんが話を聞いてくれたのも喜六でした。テレビとビデオデッキを座敷に持ち込んで、アンテリジャンのやりたいことを説明しました。

独立後も、仕事が一段落したり、ちょっと落ち込んだりするとは喜六に鰻重を食べに出かけていました。

ドアが開くと大将の「いらっしゃい!」と元気な声。

土用の丑の日や混んでいる時間帯を外していくので、たいていは暇にしていて、大将はカウンターでよく報知新聞を読んでいました。

注文してからその場で捌く鰻は絶品。でも、その前に何も言わなくても出てくるその日その日の料理が美味しかったです。ときには寿司を握ってもらったり、水槽に泳いでいる河豚やハモを鍋でいただいたこともあります。

いつもお二人との会話も含めてご馳走になり、元気をもらって帰りました。

二月に「しばらく休みます」との貼り紙があり、前にも入院したことのある大将の体調が気がかりでした。

その後なんども覗いてはみたもののシャッターが開く気配がありません。しばらくすると、貼り紙そのものがはがされていました。

三月に入り、少しだけ上がった勝手口側のシャッターをくぐると奥さんの顔が見えました。

「亡くなったのよ」

不安は的中してしまいました。

借りていた店を整理し、看板を外す工事をするためにシャッターが開いていたのでした。

初めて入る調理側は見事なほど綺麗に整頓され、そこには大きなまな板がありました。

いつも鰻を頂いていた白木のカウンターにはお骨と遺影があり、線香を供えさせてもらいました。

立て込んでいた予約がようやく一段落して、明日は病院へ検査に行こうという日に倒れたそうです。

最期に言葉にはならなかったけれど、マスクの中で「ありがとう」と口が動いたようだと奥さんから聞いて、涙が止まりませんでした。

苦労して平成元年に店を構え、時代を見届けるかのように旅立ちました。


喜六の大将が亡くなったと、すぐにその話を伝えた近所の小料理屋。

そこの大将は、捕鯨船にも乗っていたことがあるという、変わっているけど愛嬌があって、でも偏屈なおっちゃんでした。

高井アナの大ファンで、一度連れていったら大喜びしてくれました。

店の主人は小柄なおばちゃん。若い頃は北新地にいたこともあったそうで、横山のやっさんがタクシー運転手を殴ったとき一緒に車に乗っていたそうです。

ちょくちょく来るので焼酎のボトルを入れていて、生ビール一杯と腹一杯になるおまかせ料理でしめて二千五百円と財布にも優しい店でした。

「俺も(体調管理)注意せなな」

と、大将が笑顔で話していた翌週、店に行くと、おばちゃんが「(大将が)死んだのよ」と衝撃の一言。

仕込みをしていた時間帯、トイレから出てきてバッタリ倒れ、救急車で病院に運ばれたものの、そのまま息を引き取ったそうです。

「病院のベッドの上で死ねたからまだよかった」とおばちゃん。その夜は、あるもので良いのならと、一杯だけ飲んで大将の話を聞きました。

お客さんも誤解していた人が多かったのですが、二人は夫婦でも、そういう関係でもありませんでした。

大将は職を転々としていて、たまたま近所の建設工事をしていたとき、店に昼ご飯を食べにきて常連になりました。

その工事も終わり、次に行くところがないと、まさに店に転がり込んできたのだそうです。

おばちゃんが数日、店を離れて知人に店番をお願いしていた間に、勝手に入り込んでいたと聞きました。

大将の家には奥さんも子どもさんも居るのですが、これまでにも何度も家出を繰り返していたのだとか。

おばちゃんによると、店で働くようになってからも、時折プイッとしばらく帰ってこなかったことがあったそうです。お金があるときはサウナで、ないときはおばちゃんの妹の家に潜り込んでいました。

若く見えていましたが、70歳を超えていたそうです。

突然、亡くなったことを奥さんに伝えたところ、おばちゃんとの関係も完全に誤解していました。「(遺体は)適当に、その辺に放っておいてください」と言われたそうです。

息子さんにも連絡を入れましたが、葬式をするつもりも、線香をあげるつもりもないとのこと。

十年以上も家に帰ってもいなかったのですから、その気持ちも分かります。

警察にも相談し、家族ではないものの諸々の手続きを踏んで、荼毘に付したそうです。

かわいそう気持ちもありますが、波瀾万丈の彼らしい最期だったのかもしれません。


食べることを通じて私を元気にしてくれた二人の大将が、立て続けに亡くなってしまいました。

土用の丑の日から初盆を迎えるタイミングで、二人を思い出すことも供養かと思って書きました。

まったくのプライベートなことを最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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