春のような足取りで、視野を広げる

12歳のある日、ふと思ったことがありました。それは「1秒は果たして短いのか、長いのか」ということです。一度考えてしまうと気になって、しばらくはずっとそのことで頭がいっぱいでした。そこから派生して、じゃあ1センチは短いのか、長いのか? 1時間は? 1年は? 100年は? ……と、あるひとつの単位について、それが短い場合と長い場合、それぞれのケースをがんばって考え始めました。12歳の頭ではなかなかしっくりくる例が見つからなかったのですが、それでも「絶対にどちらもあるはずだ」と信じて、半ば意地になっていたことをよく覚えています。ちなみに、そのことを当時の担任の先生に言ったら、なんとなく適当にかわされました。子供相手だからとうまくやったつもりだったのでしょうが、あ、今ごまかされたな、とはっきりわかったものです。そんなときに「あー、先生、今ごまかしたでしょ!」と物申すような子供だったら、今ごろ私はどんな大人になっていたのかなと、ふと思ったりもします。

話を戻すと、要するに、多角的な視点の可能性に気づいた瞬間だったのだと思います。きっかけは覚えていません。

ちょっと物理学っぽくいうと、座標が変われば、ものの運動も大きく変わります。走っている電車の中でジャンプをしたとき、ジャンプした本人は上下運動しかしていませんが、電車の外から見ればその人は電車の進行方向にも移動しています。

これは至極当たり前のこと、そしてものすごく大切なことなのですが、慌ただしい毎日の生活の中では、うっかり忘れてしまうことが多いです。そりゃあ、毎日ただ楽しく、穏やかに和やかに生きていければいいですが、望んでもいない悲しみや怒りや憂鬱は、日常のありとあらゆる物陰にひっそりと潜んでいて、もうすっかり油断して丸腰の私たちに向かって、ほれ見たことかと言わんばかりのしたり顔で襲いかかってくるものですから、そんなに毎日ぱやぱやと、地面から2、3センチも浮いた状態でいるわけにもいかないというのが現実です。知らず知らずのうちに神経を鋭く尖らせ、周囲を警戒し、心をセメントのバリアでがっちりとガードして、いつのまにか口角も下がり、瞳孔は開きっぱなし、脳はアドレナリンでひたひたになっている、そんなサバイバル状態ような日々が、思いかげず繰り返されるという場合も、それはそれは大いにあることでしょう。

しかし、そんな厳しい毎日の中でも、私は多角的な視点をけっして忘れたくはないのです。厭世的な態度をむさぼり、絶望という名のテントの中に逃げ込んで、多角的な視点を燃やして暖をとるようなことは、絶対にしないように気をつけたいと思っているのです。

結論は1つではないのです。善悪の区別はほとんど個人の裁量に任されています。ということは、人の数だけ答えがあっていいはずです。数十億種類もの選択肢が、私たちの目の前には平等に広がっていて然るべきなのです。2、3歩後ろに引いて俯瞰するだけで、その選択肢の多さに気がつくことはできます。それはもう圧巻です。しかし、どうも目の前のことにかじりついて夢中になって、どんどん視野を狭めてしまっている人が多いのも事実です。私もたまにそのようになってしまいます。仕方ないことかもしれません。でも、それはとても勿体ないことだと思うのです。自分の視野から外れている人のことを否定しまうことで、他人を傷つけてしまうし、自分がその視野からはみ出たときには、自分で自分を傷つけてしまいかねません。

視野を広くし、色んなパターンが見える状態になるということは、つらいときの逃げ道の種類も増えるということです。横で助けてくれようとしている人が必死に手招きしていても、自分が周りを見渡さない限り、それに気づくことはできません。目の前の一本道から視線をそらすことが絶対悪だと思い込んでいて、そんなことをしたら罰が下るのではないかと怖がっている人も、もしかしたらいるかもしれませんが、そんなことは絶対にありません。人間の体の機能として備わっているものなのだから、それをめいっぱい使ったところで、神様がそれを咎めるわけがないのです。安心して目をそらしてもらって大丈夫です。

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理想的には、いちばん外側に近いところから常に全体を見渡すことができればいいなと思います。色々やってみたのですが、やはり急には難しくて、徐々に徐々に自分の視点の可動域を広げていくしかないみたいです。それは例えるならゴムみたいなもので、少し力が必要ではありますが、引っ張り続ければ、それに応じて伸び続けます。逆に引っ張ることをやめてしまうと、あっという間に縮んで元に戻ってしまいます。ずっと伸ばし続けるのはちょっとしんどいので、たまに立ち止まって休憩することは大切です。でも、できるだけ力をゆるめないように気をつけなければいけません。でもゴムなので、伸ばしきってしまえば、一定の地点から元には戻らなくなります。そこまで来たら、また新しいゴムに交換して、再び伸ばしていきます。この繰り返しです。自分が楽に生きていくために必要な、ちょっとした努力です。

では具体的に、縮まらないようにするには、どうしていけばいいのでしょうか。人それぞれに適した方法があると思いますが、私がいま実践している方法は2つあります。

1つ目は、迷ったら「そもそも」に立ち返るようにすることです。何だかおかしいぞ、と少しでも感じたら、すぐに実行します。そもそも私は何がしたいんだっけ? そもそも最終的な目的はなんだっけ? といったことを、細かく確認していくのです。視野が狭くなっているときに「そもそも」を考えるには、ぶわーっと一気に視界を開く必要があるので、この方法はけっこう効果的だと感じています。ものごとは進んでいくにつれて徐々にズレていくものですから、取り返しのつかないズレが生じる前に、定期的な軌道修正が必要です。もちろん、最初に「そもそも」の部分をはっきりと言語化しておくことが必須ですが、とりえず旗を立ててしまえば大丈夫です。途中で方向性を変えたくなったとしても、最初に立てた旗の位置がわからなければ、変えることもできません。

2つ目は、宇宙の広さについて思いを馳せることです。これは本当におすすめです。あらゆる悩みを無効化してくれるチート手法です。先ほど、いちばん外側からものごとを見れるのが理想だと書きましたが、我々が知っている世界のもっとも外側とは宇宙です。迷ったり悩んだりしたら、いっきに宇宙まで飛んでいきましょう。空想宇宙旅行です。アンドロメダを眺めながら、ほうき星とチークダンス。最高です。

目的は、いったん縮こまっている思考を思い切って広げて、体と心を解放してあげることです。宇宙のことは、考えれば考えるほど果てしないので、自然と頭もリラックスしていきますし、さっきまで死ぬほど頭を悩ませていた目の前の問題も、宇宙の広さに比べればなんてちっぽけなんだと、肩の荷を降ろすことができます。何事も深刻になり過ぎる必要はないのだということを、母なる宇宙は教えてくれます。すばらしい宇宙。ありがとう宇宙。

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以上の2つの方法は、個人的に無理なくゴムを伸ばし続けることができるので、習慣として続けたいと思っています。習慣化は自動化なので、特に意識しなくても勝手にできるようになってしまえば、こっちのものです。視点を広げなければ! 引っ張り続けなければ! と、逆にそれが負担になってしまうような方法だけは避けなければいけません。自分に向いていて、できれば楽しくて、ちょっとワクワクする方法がいいと思います。私は宇宙について空想するのが大好きなので、悩んでいなくてもついついやってしまうくらいです。ただの現実逃避にならないようにだけ、気をつけなければ……

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目の前の道だけにかじりつき、ひたむきになっている人は、実は外から見ると魅力的にも見えたりします。そういう人に憧れを抱くこともあるかもしれません。でも、うまくいく人は、ひたむきさと冷静さをきちんと併せ持っている人が多いのではと思います。ただ情熱があふれているだけでは、やはり挫折したときの修正が大変です。

どちらかというと、情熱は外に出すものではなく、内側でごうごうと燃やし続けるものなのではないかと考えます。燃料は内部で燃やすからこそエネルギーとして変換されるのであって、外側で燃やしてしまっては、単なる火事です。うっかり大事なものまで燃やしてしまうかも。

頭寒足熱といいますが、頭は冷静なままで常に足を温めておけば、いざというときにすぐに動けます。逆に頭が熱っぽく、足が冷えてガチガチに固まっていると、そこから動けないままパンクして爆発してしまうかもしれません。そうなってからでは遅いのです。いや、遅いということはありませんが、なにせ爆発してしまっているので、元に戻るのが大変です。

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春のようにぽかぽか軽い足取りと、真冬のようにキンキンに冴えた脳みそで、ぐいぐい視野を広げていきたいものです。まあ、それも真剣にやりすぎると疲れてしまうので、ほどほどに、楽しく、遊び感覚くらいで、ちょうどいいのではないでしょうか。色んな場面で遊びの要素を見つけていくことも、視野をぐいぐい広げるために役立ちそうです。


最後までお読みいただきありがとうございました。