井戸川射子の「テンダー」を読む

井戸川射子の「テンダー」を読む 2019.3.8

井戸川射子は31歳の女性、兵庫県在住、国語教師をしているらしいということくらいしか私は知らない。従って、この詩集に書かれているテキストだけをたよりに読んでみた。(私は基本的にロランバルトの作者の死の崇拝者でもある)

テンダー

題名の「テンダー」とはどういう意味か調べてみた。

tender:炭水車、はしけ、世話をする人、看護人、物が柔らかいさま。水気の多いさま。人柄が優しいさま。愛情のこもっているさま。
などの意味がある。この詩の場合はどれに該当するのか、そのことを頭において読んでみよう。

この詩は四聯から構成されているが、およそ三つのシーン(情景および心情)が複合的に混じり合う。
三つのシーンは
①台所で鶏の手羽先を切る (一聯目)
②母校の情景 (一聯目)
③愛の記憶、心情、砂や水を比喩として(二聯目以降)
ただし、二聯目以降にも①と②が重層的に入り混じる。

まず、一聯目から読んでみたい。
少女は台所で/鶏の手羽先を切りつづける、十こも入っていたから/握ると、心底から冷たい集合なので/立つ足に力が入る/キッチンバサミは繊維に沿い、ひねっては関節を目指す/少女は母校に飾ってある、自分の字が好きではない/

少女が鶏の手羽先の十こを切り続けていて、その冷たい集合を握るときに立つ足に力が入る、ここで詩情へのスイッチが入る感覚がある。
関節を目指すとは、関節から肉を外すとき、ハサミで関節へとアプローチしている時間の経過があり、何らかの目標への経過も揺曳させる。「繊維に沿い」に従来からのセオリーを遵守しようとする従順さも垣間見せている。そして次の行で母校の情景へと切り替わる。「少女は母校に飾ってある、自分の字が好きではない」この文脈は、読点で切れるが普通に読めば、飾ってある自分の字が好きではないとなるが、少女が母校に飾ってあり、自分の字が好きではないという二つのフレーズであるとも読める。このシーンは関節を目指している時の回想であると読んだ。しかし単純な回想ではないことは、その後の聯を読めば容易に理解される。
ここで母校という言葉から、既に卒業しているのかもしれないという想像をうっすらと感じる。母校に飾ってある自分の字だと解釈して、それは習字だろうか直筆の文集だろか、自分の字が好きでないという感覚。自身の書いてしまった文字=自分の過去とも読めるが、それが好きではないという感覚は理解できる。
また、ここでは少女=私という読みが正しいだろうという推定で読んでいる。

つぎの聯
遠くのものが小さく見えてしまうのを、/もうやめたい/愛は集まる砂だ/飛ぶ、跡がつく/じゃあ相手の背中に/こんな気持ちも?/目立つ特徴のなくなったものを、鍋に置いていく/

遠くのものが小さく見えるのは視覚的には自然ではないだろうか。それをやめる、しかし視角的にはやめることができないことから、これはこころのなかに見えるもの、例えばあなたとか記憶の風景とかであろう。記憶の薄れてゆくものは小さく見えるのかもしれない。
「愛は集まる砂だ/飛ぶ、跡がつく」とは、形あるものが形を変えてゆく、形を保てない乾いたものであるという主体の確信めいたものがある。しかし、次の「じゃあ相手の背中に/こんな気持ちも?」で相手の背中は実体として目の前にある現実だ。それを砂と同様に実態がないのかと自問自答する。「目立つ特徴のなくなったものを、鍋に置いていく」ここで最初の聯のなかの鶏の手羽先を連想する。特徴のなくなった愛とか背中が、ものとして鍋の底に置かれる。ここでは愛や背中(形のないもの、あるもの)が同列に扱われている。

一行空けからの三聯目は新たな展開を見せるが、それは二聯目の拡大展開とも読める。
それぞれが橋だ、悲しいけど動的な/「愛は水ではない?」/そんなに色を持たず/重みで固まらないものかな、/と言い手を握った、/どちらも多い方が、/形を変えやすいし/中に何かもぐるかもしれない/と地面を指差す/

それぞれとは、私とあなたと読んだ。二人の現在への詩聯となる。ここで読者は、橋、悲しい、動的な から言葉のイメージをつなげる作業を強いられるため、何度か再読を余儀なくされる。わたしはここは、それぞれお互いへと架けあう橋と読んだ。そして、動くし悲しいのだと。「愛は水ではない?」から、色を持たない、固まらない、確かなものではないものが私たちであって、そう言い合って手を握る。愛する質量や体積が物理的に多いほど、時として形が変わり易い。「中に何かもぐる」とは、純粋な物質として保つことが物理化学的には難しく、ほとんどのものが不純物化されることを暗示している。この世の物質なんて純粋なものなどほとんどないのだから。「と地面を指差す」とき、純粋物であることが果たして幸せなのかどうなのか。

他の詩「発生と変身」のなかのフレーズに、
「ビニール袋が風に運ばれこっち来る、ぼくなどはすぐに通り越してしまう/この中で、透明なそれが土に還れないのは怖くない?」
という詩のフレーズがある。
作者の世界観には、土に還る、不純物である、とか他の多くの物質と複合的に混じり合うことのほうが心の安寧を得るという確信めいた心情があるようだ。

また、一行空けて、最終の聯
「一生懸命で困るね」/それで離れてしまったから/乾く腕で、頼りなく追いかける/先月、鳥について詩を書いたな/思い出し、/なんとも思わないから、大きな声で暗唱する

一生懸命さにきみとの関係が壊れてしまう予感がある。一生懸命さはその時々の思いを繋ぎとめておくことができないことが往々にしてある。とくに恋情はそうだ。追いかけても儚い。鳥の詩に最初の一聯目の鶏のイメージが重なる。冷えた手羽先のイメージ。乾いた腕で、追いかけること、終わりを復唱するかのように、鳥の詩を大きな声で暗唱しているのは、気持ちを吹っ切るための呪いのようにも読める。

以上、テンダーを読んでみて、テンダーとはどういう意味に捉えたらよいのだろうか。最初の疑問に戻ることになる。

tender:炭水車、はしけ、世話をする人、看護人、物が柔らかいさま。水気の多いさま。人柄が優しいさま。愛情のこもっているさま。

もう数回この詩を朗読してみて、あえてテンダーの意味を特定しなくてもいいような気がしてきた。テンダーはテンダーだ。それでいいのではと思えてきた。テンダーの意味を特定することでこの詩が陳腐なものになってしまうような気がしたが、あえて、意味付けするのなら「はしけ」がふさわしいように感じた。

最後に、井戸川射子の詩の文体の特徴を気がついたまま記してみる。

1 省略の文脈
書きことばと話しことばの口語体で書かれる。特徴的なのは、省略した文脈が顕著であるが、これは現代詩全般に言えることである。

学校、うん、教室にいるとぽつんと、一人の島に一人づつがいる気持ちになる、それがきれいな島ならいいけれど。(川をすくう手)
通常の文脈では、
「学校(だけれど)、うん、教室(の机)に(一人づつ)ぽつんと(座っていると)、(それが)一人の島に一人づついる(ような)気持ちになる、(そんなふうに机に一人づついることが)きれいな島(のようである)ならいいんだけれど」

読者がことばの隙間を埋めてゆくことで、詩を読もうとする。

2 行ごとに場面変換し展開していくスピード感
となりの部屋が声をあげて笑った/せまい地下では音も特濃で/みんなに空気がいかなければいいと思った・寝るには真四角な床、手のひらは強く握っても/すき間は絶対になくならない、爪5コ全部はすり合えない/ヤフーニュースは撃ち合う事件を知らせる/(ぼくのビーム)

行ごとに場面が切り替わり、スピード感がある。読んでいて文節の飛躍に少しの戸惑いがあるため、読者はその都度、再読を余儀なくさせる。

3 感情や行為の動機づけの奇抜さ
少女は台所で/鶏の手羽先を切りつづける、十こも入っていたから/握ると、心底から冷たい集合なので/立つ足に力が入る(「テンダー」から)
手羽先を握り続けると心底冷たい(集合なので)立つ足に力が入る、のはすぐには理解できない動機づけである。

それぞれが橋だ、悲しいけど動的な/「愛は水ではない?」/そんなに色を持たず/重みで固まらないものかな、/と言い手を握った、/どちらも多い方が、/形を変えやすいし/中に何かもぐるかもしれない/と地面を指差す/(「テンダー」から)

この文脈を私なりに加筆してみた。
それぞれ(ぼくたち)が(お互いへと架ける)橋(なん)だ、(それは)悲しい(ことだ)けど、(動くことができる体をお互いにもっているんだから、ぼくたちは)動的な(橋だ)「愛は水ではない?」(って君に聞いてみたけど)(ってみんな思わないのかな)、(水は)そんなに(色々な)色を持たず、(自分の)重みで固まらないものかな、と言い(ながら君の)手を握った、どちらも(水だとか愛する気持ちだとかを持っている量が)多い方が、(その)形を変えやすいし、(その)中に何か(ぼくだって君だって、頭から体ごとスッポリ)もぐるかもしれない(まるで死んで行くときに体ごと足元にある地面の中にもぐるように)と(ぼくは)地面を指差す

主体の行動や心情の動機付けは、直ちには理解できない。

育ち終えれば/いつもの/同じ顔なのでつまらない、と/考えながら/ぼくは恋人の体を/タイムマシンとして活用している/仕切りになってくれて/ありがとう (「INRI」から)
この文脈も私なりに加筆してみた(正確ではないのだろうけど)

育ち終え(て成人まで成長す)れば(みんな)いつもの(他人と違わない)同じ顔なので(ぼくは)つまらない、と考えながら/ぼくは恋人の体を(いつも)タイムマシンとして活用している(そんな行為)を非難する人たちの)仕切りになってくれて(恋人よ)ありがとう

みんな同じ顔だからつまらない。恋人の体をタイムマシンとしてぼくは活用しているが、タイムマシンとしての具体的な活用がイメージできない。また、第三者からの仕切りになってくれてありがとう。とは、「つまらない」と「ありがとう」という感情の動機付けがすぐには実感できない。

詩人、井戸川(主体)が書き綴ったテクストの中の行動や心情の動きや揺れは、主体独自の心情を起動するプログラムによって詩のことばへと変換されている。ここに書かれた詩は主体のプログラム言語、あるいは解説書(マニュアル)なのかもしれない。従って、他者にとっての共通のプログラムとは考えられない。
どう読み解くかは読者の読みの力に委ねられている。いかに他者と異なった自分、自分だけの世界観を的確に言葉の並びのなかに表記できるか、そのスキルを備えたひとが優れた詩人となりうるのだと思う。

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